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仕事中なのにどうしても顔が浮かぶ。
今現在の大人の沖君が、キラキラ笑顔全開でスマイリングしてくる……
どうした私。しっかりしろ。
昨日徹夜で仕上げた資料を手に持ち、デスクからスクッと立ち上がった。
「佐々木さん。これ明日からの出張のタイムスケジュールだから。目を通しといてね。」
「ほ…本当に、私なんかに務まるのでしょうか?」
秘書課に配属になったばかりの佐々木さんが私の代わりに専務の海外出張に同行する。
佐々木さんには荷が重いのではと私も専務に助言したのだが、新人こそ経験が大事なのだと譲らなかった。
ただ若くて可愛い子を選んだだけだと思うのだが……
「私英語もあんまりだし…やっぱり無理です……」
「大丈夫よ佐々木さん。考えられる限りのトラブルへの対処法も書いておいたし、現地では日本語も話せる人に対応をお願いしているから。」
泣きそうな佐々木さんに一抹の不安を感じながらも、私は午後から有休を取って歯医者へと向かった。
かれこれ10分ほど「ユニット」の上に座って待っているのだけれど、沖君がなかなかやって来ない。
というのも……
「マコト先生〜まだ歯が痛ーいっ。」
「そうですか?治療の方はもう全部終わりましたよ。」
「まだ行っちゃダメっ。ここに居て診察してよお。」
「とりあえず薬を出しますので様子を見ましょうね。」
さっきから隣の診察室にいる患者の甘ったるい声が聞こえてくる。
沖君…カッコイイから患者さんからモテモテなんだろうけれど、大変そうだな。
にしてもここの病院の名前──────
歯医者と書いてあったから看板をよく見ずに飛び込んだんだけど、マコト歯科医院って……
「この病院?そうだよ。俺が医院長。」
ようやく来た沖君が、私の質問に今更といった感じで答えた。
26歳の若さで一国の主なんだ……歯医者になってることでさえ驚いたのに。
高校一年生の時の成績は学年で下の方だったのに、それに比べたら凄い出世だ。
「今、逃がした魚は大きかったって悔やんだでしょ?」
私の様子を見て小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「別に私はそんなつもっ……」
「口の中見ますね〜。はい、あーん。」
沖君から毎回、あーんと言われるのが妙に照れる。
子供扱いされているというかなんというか……
さっきの患者さんには言っていなかったから、きっと私にだけわざと使っているんだ。
赤くなってなるものかと、頭の中で般若心経を唱えながら口を開けた。
「元々は親父の知り合いが経営してた病院だったんだ。病気でいきなり倒れて…俺が譲り受けたってわけ。運が良かっただけだよ。」
沖君は私の術前検診の結果に目を通しながら教えてくれた。
検診結果も問題ないし、麻酔科医の説明もバッチリ聞いた。
明日はいよいよ抜歯の手術だ。
「親父がね……おまえなら腕も良いし経営力もあるから大丈夫だろうって勧めてくれたんだ。りつ先輩に言われたように勉強して、ようやく認めてもらえたってわけ。」
そこまで言ってチラリと私を見た。
前髪の隙間から覗く物言いたげな琥珀色の瞳に、胸がトクンと高鳴った。
─────りつ先輩。俺がいつか親に認められる日が来たらご褒美くれる?
あの言葉を思い出し、顔がカァーと赤く反応してしまった。
「……なんだ。りつ先輩……」
沖君は顔を隠していたマスクのヒモに指をかけてゆっくりと外すと、様々な器具の置かれた台の上に置いた。
「ちゃんと指切りげんまんした約束覚えてるんだ。」
………沖君も、覚えてたんだ………
でも……
とびきりのやつもらうからと、キラキラとした笑顔で話していた沖君はまだまだ幼くて……
こんな……大人になった沖君と約束をした覚えは、私にはないっ!
「なんのこと?覚えてないっ。」
「とぼけたって無駄。顔に書いてあるから。」
人の赤面症を嘘発見器みたいに使うところは変わってないようだ。
「約束通りご褒美もらえる?」
やらしい手付きで私の首筋をなぞり、そのまま鎖骨へと降りていく……
「沖君、その触診止めてっ。」
「こんなのが触診のわけないじゃん。ご褒美、今からもらうから。」
琥珀色の瞳が艶めかしくクスリと笑う……
「ユニット」の背もたれを倒すと、私の目に折りたたんだタオルをかけてきた。
「りつ先輩…あーんは……?」
目隠しされていても、沖君の息遣いが頬にかかり、触れそうなほど近くにいるのがわかった。
ご褒美ってなに?
私に口を開けさせて、一体なにをする気なの……?
血流が全部顔に集まってきてクラクラしてきた。
ダメだ……
あの時必死でかき消したはずの感情が蘇る………
その想いを打ち消したくてキュッとつぐんだ唇に、沖君の指先が優しく触れた。
「……りつ先輩。俺さあ、ずっとあの時のこと────」
沖君がなにかを言いかけた時、個室のドアがガチャりと開いた。
「マコト先生〜。その人奥さん?」
声からしてさっきの患者のようだ。
タオルをどけて見てみると、いかにも水商売をしているっぽい派手な女性が立っていた。
「違いますよ。この方は高校の時の先輩です。」
「なーんか雰囲気怪しい〜。奥さん一筋って私には散々言ってたくせに〜。」
えっ……奥さん一筋って……
「田中さんの診察時間はもう終わりましたよ?」
「だってまだ歯が痛いんだもーん!」
沖君はやれやれといった感じで立ち上がると、私にニッコリと営業スマイルをした。
「手術にはなにも問題なさそうなので、明日の12時までには入院受付にて手続きを済ませて下さいね。」
そう言うと患者さんを連れて隣の診察室へと入っていった。
あんなにカッコよくてしかも職業は歯科医師……
彼女くらいならいるかもなと、予想はしていたけれど……
いつからか男性の左手の薬指をチェックする癖がついていた。
既婚者でも付けてない人が多いけれど、それでもひとつの目安にはなる。
でもそうだよね…お医者さんなんだから、衛生上勤務中に指輪を付けているはずがないか……
沖君……結婚してたんだ──────
きっと……
沖君のことだけを一番大切に思ってくれる女性に出会えたんだね。
心臓をギュッと鷲掴みにされたくらいに苦しくなってきた。
また私は……同じことを繰り返すところだった。
からかわれていただけなのに勘違いして、一人で舞い上がって……
そして裏切られて現実を思い知る。
もう……
あんな思いは二度としたくない。
したくないのに───────……
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