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──────は、歯が痛い………
私は秘書室では一番の古株だ。
秘書室長といわれる上司はいるのだが、彼の仕事は主に社長の補佐だ。
なので10人いる後輩秘書達は私が統括している。
「来月10日のレセプションパーティーに常務も出席するから新幹線の切符と宿泊の手配よろしくね。」
「明日の役員会議用の資料作成は済んだ?チェックするから持ってきて。」
「来月にアメリカから来るゲストへのおもてなしなんだけど……」
秘書とは経営層が働きやすい環境を整えることで間接的に会社の業績に貢献している縁の下の力持ちだ。
裏方の仕事が主だが、秘書が活躍すれば会社の業績は大きく変わるのだと私は思っている。
「おいおい一条君どした?顔が怖いぞ?」
眉間にシワを寄せていると専務に話しかけられた。
朝から歯が痛くて痛くて仕方がないのだ。
それでなくても目力の強い私は顔が怖いとよく言われる。
この奥歯の痛さは虫歯だろうか?
食後には必ずきちんと歯を磨いているから虫歯になんてなるはずがないのに。
「一条君。悪いんだけど海外出張に同行させたい友人がいて…今から一名増やせるかな?」
「そのご友人は六本木クラブ千維のママですよね?無理です。」
「一条君は頭でっかちだな〜。ブランド物のバック買ってあげるから。ねっ?」
「前に奥様からもう次はないと釘を刺されましたよね?お忘れですか?」
専務があからさまに不満そうな顔をする……
秘書をプライベートのゴタゴタに巻き込まないでもらいたい。なんで男って生き物はこうも──────
──────ズッキィ!!
脳天を突き抜けるようなあまりの痛さに顔が歪んだ。
「い、一条君悪かった!もう無理言わないからっ!」
専務が私の形相を見てビビって逃げてった。
別に怒ったわけじゃないのだけれど……
トイレに行って鏡を見ると、頬がぷっくりと腫れていた。
午後から有給を取らせてもらって会社近くの歯医者へと駆け込んだ。
随分と人気のある病院のようで待合室は混んでいた。
予約を入れてなかったので待ち時間が長い……
疼くような痛さにひたすら我慢しながら名前を呼ばれるのを待った。
ようやく通された診察室は一つ一つが個室のようになっていて、広くて明るく、清潔感のある空間だった。
「ユニット」と呼ばれる歯科治療用のイスに座って待っていると、若くて長身の男の先生がやってきた。
少し長めの前髪が顔にはらりとかかり、透明感のある琥珀色の瞳が涼しげな印象だ。
マスクをしていてもかなりのイケメンなのだとわかる……
待合室が若い女性の患者ばかりなので不思議に思っていたのだけれど、こういうことだったのかと愕然とした。
私がいつも行く歯医者はおばちゃんの先生だ。
耳鼻科でも皮膚科でも女性の先生がいる所を選んでいる。
いつもなら男性の先生に診てもらうだなんて絶対にしない。でももう、この痛さを我慢するなんて限界だった。
この人はジャガイモだ。ジャガイモだと思うんだっ。
背もたれが倒れて寝転んだ体勢になった私に、先生が覗き込んできた。
香水を付けているのか、微かにシトラス系の爽やかな香りが漂ってきた。
こんな良い香りのするジャガイモがいるわけないっ!
「お口、あーんて開けてもらってもいいですか?」
歯医者なのだから口の中を見せなきゃいけない。
わかってはいる。いるのだけれど……それってどうなの?
裸見せるようなもんなんじゃない?
男の人にそんなことっ……恥ずかし過ぎて死にそうって思うのは私だけ?
先生の顔が近いっ!歯医者ってこんなに顔を寄せて診るもんだったっけ?!
痛さとこの状況に思考回路がパンクしそうになってきた。
「見るだけなので痛くないですよ?」
どうも私が怖がっていると勘違いしているらしい。
こんな三十路前の女が子供みたいに歯医者を怖がってると思われるだなんて……
先生は私と目が合うと、その綺麗な瞳を優しげにフッと細めた。
自分の顔が一気に赤くなっていっていくのがわかる。
ああ、もうヤダ……
小さな頃から赤面症なことを、男の子から散々からかわれてきた。
そのせいで異性が苦手になり、なるべく関わらぬようにと避けて生活するようになったのだ。
歳が離れていれば平気なのだけれど、同い年くらいの男性は本当に苦手だ。意識するとすぐに真っ赤になってしまう……
先生は一旦器具を置くと柔らかそうな白いタオルを取り出した。それを細長く折りたたみ、私の目元にふわりとかけた。
「これで大丈夫かな?腫れて痛そうだね。少しだけ…見せてもらっても良い?」
私を気遣う穏やか口調に、緊張していた体が解れていく気がした。
なんだろう…凄く温かくて懐かしい声……
視界をさえぎられて先生の顔が見えなくなったのもあり、意識せずに口を開けることが出来た。
「虫歯のない綺麗な歯だね。炎症の原因を調べるためにレントゲンを撮ってみましょうか。」
先生は私が待合室で記入した問診票に目を通すと、再度確認するように尋ねてきた。
「妊娠の可能性はありませんか?」
「はい大丈夫です。そういう経験は全くないので……」
……って、なにを言わなくていいことまでさらっと言ってるんだ私は!!
寝転んで目を閉じていたせいか頭がぽ〜っとしてしまっていた。
「そこまで答えて頂かなくても大丈夫ですよ。」
笑いを押し殺したような先生の声に、せっかく治まっていた赤面症がぶり返した。
今日は一日中顔が赤いままかもしれない……
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