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リスがオーセンティックバーの重厚なドアを開けると、マスターと目が合った。
「いらっしゃいませ」
「今晩は」
他に客はいない。
ここはトキオと通ったバー。いつものカウンター席に腰を下ろす。
隣席は空いている。
ここに座って、事件の話を聞かせてくれたトキオはもういない。
トキオを思い出しても、愛おしさとか懐かしさとの感情は起きない。リスの中にこみ上げるそれは、憐憫でも侮蔑でもなく、今は「不気味」である。
「何にしますか?」
「デ……、いえ、今夜は……ブラッディ・マリーを頂戴」
ディテクティブ・サンセットと言いかけてやめた。
トキオは過去の男。だから、忘れることにする。
カゲハルの謎も分からないままだが、本人がいないのでは解決しようがない。
身内も何も知らなそうだし、トキオと密に連絡を取り合う関係者もいないようだ。
(それとも、天立社長や弁護士ならば、何か知っているのだろうか)
自分の立場を脅かすものは悉く消してきたリスだったが、さすがにそこまで近づくのはリスクである。
(そういえば、影法師ことシリアルキラーの戸板了二はどこにいるんだろう?)
ニュースでも連続殺人事件は大きく報じられていた。
トキオの話で確かなことは、彼の存在だけだ。
マスターがブラッディ・マリーをリスの前に置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
リスは、赤いグラスを傾ける。
マスターがどこかの花屋に電話を掛けた。
「花束を一つお願いします。ええ、お祝いで」
電話を終えたマスターにリスは聞いた。
「営業活動? まだまだ飲食業は大変よね」
「そうなんですよ。大変です」
マスターは、どこか遠くを見ながら昔話を始めた。
「新型肺炎ウィルス騒動が起きる前は、ここも連日満席でした。客足は途絶えず、夜通し賑わって忙しくて。スタッフも大勢雇って、人間関係に悩みながらも楽しくやっていました。今は私一人で充分回せます。……あの頃が遠い昔のような気がしますが、そんなに経っていないんですよね」
マスターは、誰にもぶつけることのできない怒りと悔しさをにじませる。
この店にはバーテンダーが何名もいた。一人二人と去っていき、いつの間にかマスターだけとなってしまった。
「この道に入って、20年になります」
「ベテランね」
「ずっとこの店を守っていこうと思っていましたが、もう辞めようかと思っています」
「閉店しちゃうの?」
「そうです」
「辞めてどうするおつもり?」
「バーテンダー養成学校の講師に誘われていたんです。そこでお世話になろうかと検討中です」
「それなら良かったわね。ここが無くなるのは寂しくなるけど」
新たな道が開けているのなら、幸せなことだ。
飲み終わって帰ろうとするリスをマスターが引き留めた。
「今夜はサービスします。お客様だけに特別無料です」
「あら、いいの?」
「ええ。閉店までに在庫を消費しなければならないので。もしお時間が許すなら、このままいていただいて、いくらでも自由にお替りをご注文ください」
「じゃ、遠慮なくいただくわ。そうね……、ソルティドッグを頂こうかしら」
リスは、座り直すと、次のカクテルを注文した。
マスターが子供の頃の話とか結婚していた時の話とか、リスを飽きさせないようにいろんな話題を出してきたが、リスは正直興味がない。
「ふうん」「へえ」と生返事しつつ、カクテルを飲んで付き合った。
ドアベルがカランカランと鳴った。
リスがそちらを見ると、大きな薔薇の花束を抱えた男が立っている。
顔が花束で隠れて見えない。
先ほどマスターが注文した花束が届いたのだろう。
営業活動ではなく、これで私を口説くつもりだったのかと思って見ていると、男が花束を動かして自分の顔を見せた。
トキオだったので、リスは心臓が止まるかと思った。
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