さよなら ムーン

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***  リスがオーセンティックバーの重厚なドアを開けると、マスターと目が合った。 「いらっしゃいませ」 「今晩は」  他に客はいない。  ここはトキオと通ったバー。いつものカウンター席に腰を下ろす。  隣席は空いている。  ここに座って、事件の話を聞かせてくれたトキオはもういない。  トキオを思い出しても、愛おしさとか懐かしさとの感情は起きない。リスの中にこみ上げるそれは、憐憫でも侮蔑でもなく、今は「不気味」である。 「何にしますか?」 「デ……、いえ、今夜は……ブラッディ・マリーを頂戴」  ディテクティブ・サンセットと言いかけてやめた。  トキオは過去の男。だから、忘れることにする。  カゲハルの謎も分からないままだが、本人がいないのでは解決しようがない。  身内も何も知らなそうだし、トキオと密に連絡を取り合う関係者もいないようだ。 (それとも、天立社長や弁護士ならば、何か知っているのだろうか)  自分の立場を脅かすものは(ことごと)く消してきたリスだったが、さすがにそこまで近づくのはリスクである。 (そういえば、影法師ことシリアルキラーの戸板了二はどこにいるんだろう?)  ニュースでも連続殺人事件は大きく報じられていた。  トキオの話で確かなことは、彼の存在だけだ。  マスターがブラッディ・マリーをリスの前に置いた。 「どうぞ」 「ありがとう」  リスは、赤いグラスを傾ける。  マスターがどこかの花屋に電話を掛けた。 「花束を一つお願いします。ええ、お祝いで」  電話を終えたマスターにリスは聞いた。 「営業活動? まだまだ飲食業は大変よね」 「そうなんですよ。大変です」  マスターは、どこか遠くを見ながら昔話を始めた。 「新型肺炎ウィルス騒動が起きる前は、ここも連日満席でした。客足は途絶えず、夜通し賑わって忙しくて。スタッフも大勢雇って、人間関係に悩みながらも楽しくやっていました。今は私一人で充分回せます。……あの頃が遠い昔のような気がしますが、そんなに経っていないんですよね」  マスターは、誰にもぶつけることのできない怒りと悔しさをにじませる。  この店にはバーテンダーが何名もいた。一人二人と去っていき、いつの間にかマスターだけとなってしまった。 「この道に入って、20年になります」 「ベテランね」 「ずっとこの店を守っていこうと思っていましたが、もう辞めようかと思っています」 「閉店しちゃうの?」 「そうです」 「辞めてどうするおつもり?」 「バーテンダー養成学校の講師に誘われていたんです。そこでお世話になろうかと検討中です」 「それなら良かったわね。ここが無くなるのは寂しくなるけど」  新たな道が開けているのなら、幸せなことだ。  飲み終わって帰ろうとするリスをマスターが引き留めた。 「今夜はサービスします。お客様だけに特別無料です」 「あら、いいの?」 「ええ。閉店までに在庫を消費しなければならないので。もしお時間が許すなら、このままいていただいて、いくらでも自由にお替りをご注文ください」 「じゃ、遠慮なくいただくわ。そうね……、ソルティドッグを頂こうかしら」  リスは、座り直すと、次のカクテルを注文した。  マスターが子供の頃の話とか結婚していた時の話とか、リスを飽きさせないようにいろんな話題を出してきたが、リスは正直興味がない。 「ふうん」「へえ」と生返事しつつ、カクテルを飲んで付き合った。  ドアベルがカランカランと鳴った。  リスがそちらを見ると、大きな薔薇の花束を抱えた男が立っている。  顔が花束で隠れて見えない。  先ほどマスターが注文した花束が届いたのだろう。  営業活動ではなく、これで私を口説くつもりだったのかと思って見ていると、男が花束を動かして自分の顔を見せた。  トキオだったので、リスは心臓が止まるかと思った。
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