さよなら ムーン

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「え?」  リスは、硬直してそれ以上声が出せない。 「やあ、リス、久しぶりだね。どうした? ボクを死人のような顔で見ていないかい?」 「……」 「また会えて嬉しいよ。再会を祝おうじゃないか。この薔薇は愛する君へのプレゼントだ。さあ、受け取っておくれ」  トキオが差し出す花束の受け取りを、リスは両手を後ろに回して拒否する。 「なぜそんなに嫌がるんだい?」 「そんなはずはない……。あなたは私が始末したはず……。あなたは誰?」  リスの声が震える。 「ハ、ハハハ……」  トキオは、腹を抱えて笑いながら花束をカウンターに置いた。そして、右手を胸に当てた。 「さて、ボクは誰でしょう? 一、幽霊。二、実は双子だった。三、そっくりさん。さ、どれだ」 「どれも……嘘」 「フフフ。正解。ボクは正真正銘、君の恋人で死にたい探偵の白夜世緒。死にたかったけど、この世にやり残したことがあったんで、三途の川の手前で戻ってきたよ」  トキオがリスに向かって右手を伸ばす。 「嫌……」  リスは怯えた。 「さあ行こう。警察に。君は自首するんだ」 (警察? 自首?)  その単語は、リスを現実世界に引き戻し、犯罪コンサルタント擬宝珠としての冷酷さを取り戻させた。  何人もの命を奪ってきたリスにとって、人の命など鳥の羽より軽い。  普通の人間なら恐れるに足らず。 (どうやって助かったのか分からないけど、これは正真正銘のトキオで、ただの人間。だったら何も怖くない)  目が覚めたリスは、いつもの自分を取り戻した。 「私が素直に従うと思って?」  堂々とした態度に戻ったリスを見て、トキオは喜んだ。「それでこそ、リスだ」  リスはマスターを見た。  リスと目が合ったマスターは、騙して悪かったと言わんばかりに両手を合わせる。  花束の注文は、リスが来たことの合図。  無料で飲んでいいと気前良く言ったことや、どうでもいい昔話は、トキオが来るまので時間稼ぎ。  閉店話さえ嘘かもしれない。  二人は結託していて、全ては仕組まれていた。  二対一では、さすがに負ける。 (ここはとにかく逃げる!)  リスは逃げ道を探した。  入り口にはトキオ。カウンターの後ろにある通用口は、マスターが塞いでいる。  あとは横の窓しかない。ここは地下街。窓の外には通路が伸びる。  近くの椅子を持ち上げると、窓に向けて思いっきり投げ飛ばした。  大音響とともにガラスが粉々に砕け散り、ぽっかりと大きな穴が開くが、ところどころにガラスの鋭利な先が残っている。  割れたガラスの隙間を通るなど普通ならためらうところだが、本能がリスの体を突き動かした。  トキオに背を向けて走り出したリスは、壊れた窓を乗り越えて外に出た。  その時に、太ももからふくらはぎまでガラスの破片で引っ掻いてしまった。網タイツが裂け、パックリ開いた切り傷から血が流れる。  しかし、興奮状態のリスは痛みを感じない。 「待て!」 「チッ」  なりふり構わっていられない。  ドアから出てきたトキオの手を逃れ、地下街を一目散に駆け抜ける。  ガラスの壊れた音が大反響したにも拘らず、誰も顔を出さない。バー以外、軒並み休業しているからだ。  地上に飛び出たが、ピンヒールではどれだけ足に自信があっても逃げ切れるものではない。  逃げ道を求めて一瞬止まったリスは、トキオに追いつかれた。 「リス!」  トキオがリスを背後から抱きしめる。うなじにひと肌の温もり。 「やめて! 離して!」 「大事なことを話していないよ。気にならないかい? ボクがどうやって海から生還したのか。カゲハルとは何だったのか。知りたくないかい?」  リスは、それどころじゃない。とにかく逃げなければと必死になった。 「いやあ! 助けて! 誰かあ!」  誰かに声が届くまで、力の限り叫んだ。  いかにも腕自慢そうなごつい体つきの男が、リスの叫び声を聞いて飛んできた。  事情を知っていようが知らなかろうが、女が男に襲われている構図である。  正義感に駆られた男は、「その人を離せ!」と、トキオに突進し、力任せに引き離すと、「エイヤー!」と、地面に投げ飛ばした。  トキオの腕から抜け出したリスは、お礼も言わずに一目散に逃げる。  遠くから「あの女は食い逃げだ!」とマスターの声が聞こえた。  トキオを庇っているのだろう。  きっと、後から追いかけてくる。  リスは、引き離したと安心できるところまでなりふり構わず必死に走った。  ビル街の薄暗い通り。  体力の限界がきて、足を止める。 「ハアハア……」  肩で息をしながら、ショーウィンドウに反射した自分の姿を何気なく見る。  血まみれの体。乱れた髪。裂けた網タイツ。折れたピンヒール。 「酷い姿……」  どこかで身なりを整えたいが、周辺の店舗は全て閉まっている。逃げ込むビルもない。 「タクシー!」  流しのタクシーをつかまえると、自宅へ向かった。
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