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探偵少女MKT 第一回  道重さゆみ 通称 さゆみ  亀井えり  通称 えり  田中れいな 通称 れいな  滝沢秀明 通称 たーちゃん これは特別不良少女鑑別所に入れられていた三人の不良少女が自分の肉体を武器に警視庁特別捜査マイナス一課員として活躍する物語である。 捜査マイナス一課 警視庁捜査マイナス一課部長ミスターDは受話器を電話本体に戻しながら三人の捜査員がこの部屋に入って来るのを待っていた。 この部屋はどこかの会社の応接室のようでとりたてて変わった様子もない。 ただ一つ変わっている事と言えば、いや、この部屋の外見ではなく、この部屋の内部を調べたらいくつでもこの部屋の特殊性、この捜査マイナス一課の変わったところが見つかるだろう。 まずこの部屋の周囲は特殊チタニゥム合金で出来ている。 まず外部のいかなる盗聴作業もこの部屋の中では不可能だ。また通常の道具ではこの部屋を壊してこの部屋の中に侵入する事も不可能だ。 そして警視庁内部の人間でさえこの部屋に入る事も出来ず、この部屋の存在すら知らない。しかし、警視庁内部ではこの捜査マイナス一課は予算も計上され、捜査員も地方公務員の身分を与えられ、五十人ほどの人数を擁している。中には元不良少女もいた。そして名目上は交通課の中の分課ということになっている。 この課が捜査マイナス一課と呼ばれ、法や治安の網をくぐり抜ける特殊な事件を取り扱う課だということを知っているのは警視総監と内閣総理大臣だけなのだ。  この課の活動状況というのは、捜査員たちがこの部屋に入って来ることはほとんどない。普段捜査員たちは市井で一見普通の生活を送っている。ある物はスーパーマーケットでレジを打っている。またある者は大学で講義を受け、また主婦をやっている者もいる。しかし捜査マイナス一課部長Dの招集がかかるとこの部屋にやって来て任務を遂行するのだ。  この部屋に入る方法はこうだ。警視庁内部のある階の男女両方の便所の、ある秘密の空間の前で暗号装置により壁の一部が開くのでその入り口を通って捜査マイナス一課の司令室に入ることが出来るようになっている。  Dは三人の捜査員を待っていた。 捜査マイナス一課の中でももっとも優秀な三人の捜査員をである。  迅速な行動、正確な判断、的確な分析力、ねばり強い捜査、どれをとっても上位にランクされていた。  そして今度の事件ではことごとくこれらの条件をクリアーしていなければつとまらないだろう。その事を考慮した人選だった。 Dはもう一度封筒の中からどこにでもあるような便せんを取り出すとその文面に目を通した。 「事情があって私の名前は明かせません。私は日本テレビに関係している人間です。この局内でおぞましい殺人事件が起こるに違いないと怖れ、やむにやまれない気持でその惨事を阻止するために捜査をただちに始めて欲しいと懇願するしだいです。 何しろこのテレビ局に関わった人間が二人も変死しているのですから。 これら二人の人物の死は新聞にも取り上げられず日本テレビとの関わりにも全く誰も気づいていません。しかし、私にはわかっているのです。これらの変死には日本テレビのある人間がかかわっているに違いないという事を。  それなら何故その犯人の名前を上げなかったり私の名前を言わないのかといぶかっていらっしゃるかも知れません。しかし私は怖いのです。その犯人の目が私に向いて来る事が。  どういう経路で私の事がその犯人にわかるかも知れません。あなたがたを信頼していないわけではありませんがこの手紙が誰の目にふれ、私の事がわかるかも知れません。何しろ犯人は警察の内部にも知り合いがいてそこから犯人が私の事を特定しないとも限らないからです。  しかし、凶行が起こる事は確実です。どうか捜査に着手してくださいますよう、切に切にお願い申し上げます」  この手紙は警視総監からまわって来た。本来ならこんな手紙はいたずらとしてごみ箱に捨てられて当然なのだが、この手紙が届いた場所が特殊な場所だった。  警視総監の愛人宅に届けられたのである。警視総監の愛人など誰も知っている人間がいるはずがない。警視総監はおおいにいぶかった。これから政治家にも打って出なければならない。この愛人問題を知っているものを探し出さなければならない。 これは警視総監からの主な理由だった。  捜査マイナス一課Dはまた別の理由からこの捜査は重要だと思っている。  警視総監の私生活がこれほど筒抜けになっていたという驚きである。まかり間違えば警視総監の誘拐などという事件さえ起こり得ないとも限らない。これはゆゆしき事態である。凶事が起こるのか、起こらないのか、ともかくこの手紙の差出人を捜し出さなければならない。  そのときドアをノックする音がして三人の捜査官が入って来た。 「また、われわれの担当ですか。長良川へ行って鵜飼いを見ようと思っていたんですよ」 「長良川の鵜飼いは一時お預けだ。そんなもの、いつだって行けるだろう」 「いつだって行けるという訳ではありませんよ。鵜飼いってある時期しか、やっていないんですから」 「そんなに行きたかったのか。まあ、いい。今度の機会にするんだな。それより、好きな芸能人のサインを貰えるぞ。鵜飼いのあとで京都に繰り出して舞子遊びをするよりずっといいぞ」 「何をするんですか」 「これを見ろ」 「手紙ですね」 「よくあるんだ。こういういたずらが」 「それが単なるいたずらとして片づけられないところもある」 「どこが」 「警視総監の愛人の住所を知っている」 「どうやって潜入するんですか」 「その方法は考えてある」 「とにかく犯行がおこなわれないように全力を尽くします」 「幸運を祈る」 ************************************************************* 不良三人娘 「れいながモーニング娘のファンだったなんて知らなかったな。れいなが道を踏み外したときにはおじさんもすごく心配したんだぜ。でも、良かった。すっかりと普通の女の子になって、これでねえさんもすっかりと安心出来るよ」 「おじさん、過去のことはもう言わないでよ。あんなにつっぱっていたのが自分でも嘘みたいよ」 きも可愛い中学生が日本テレビのアナウンサーである福沢あきらにはなしかけた。ふたりは新宿で待ち合わせていた。れいなと呼ばれているのは田中れいなという名前の女の子である。この少女がつい半年前までは札付きの不良で特別な少年院に入れられていたなどと誰も想像出来ないだろう。しかし、本当にこの少女は不良の生活から悔い改めたので娑婆に出て来たわけではない。その類い希な行動力を買われて警視庁捜査マイナス一課の一員となったのである。田中れいなも本来はまともな中学生としてセーラー服かブレザーを着て公立の中学校に通って初恋でも経験するはずなのだが、本来のアバンチュラーの性格とその行動力が災いして不良の道に進んだのであってそれが本質ではなかった。 田中れいなの親戚に日本テレビでアナウンサーをしている福沢あきらという男がいた。  田中れいなは福沢の紹介で日本テレビの中を見学することになった。 ************************************************************ 不良少女田中れいなの母親は日テレアナウンサーの福沢あきらの姉である。福沢はこの姉を兄弟の中でも一番気に入っていてよく遊びに彼女の家庭を訪ねては手料理をごちそうになっていたりした。だから田中れいなの事も可愛がっていて彼女が特別鑑別所に入れられたときは本当に心配したものである。  福沢が姉の家にじゃがいものたくさん入ったカレーライスを食べに行くときはいつも田中れいなが横に座ってタレント達やアナウンサーのことをね掘りは掘り聞いてきた。そんなときはテレビのブラウン管に映ったアナウンサーを指さしながらあることないことおもしろおかしく、作り話や本当の話をないまぜにして話したものである。  その中で福沢が自分自身おもしろいと思った作り話はある女子アナ、清楚でそのくせ胸が大きい、そしてお姫様然としているが、ジャニーズ狂いの女子アナがいるという話だった。番組や仕事がらみでジャーニーズとからんだときは必ず、ベッドインしてしまう。そして戦利品としてそのジャニーズの履いていたパンツを戦利品として持ち帰ってしまうというのがあった。  田中れいなはテレビに女子アナが出てくるたびにそれがどの女なのか、聞きたがった。しかし、そのたびに福沢はお茶を濁して、ただイニシャルがFMというだけにとどめていた。しかし、田中れいなはその女の名前をさかんに聞きたがった。田中れいなはジャニーズの中に好きな男がいた。  福沢は冗談でその話しをしていたのだが、田中れいなはすっかりと信じているようだった。 学校の方で三連休があってれいなの母親は福沢に娘がジャニーズの東山のりゆきに会いたがっているから会わせてくれないかと頼まれたので可愛いいとこと新宿で待ち合わせて日テレに行くことにしたのである。 田中れいなが親愛なるおじさんの手を握って喜びの表現をしていると、白いハイソックスを履いたのと網タイツを履いたきも可愛いいふたりのれいなと同じくらいの女子学生がホームの影から姿を現した。 「こんにちわ」 「こんにちわ」 甘い挨拶であったが、このふたりも特別鑑別所の出身である。奄美大島にいる毒蛇よりもたちが悪かった。  「きみたちは」 「おじさん、こっちにいるのが、道重さゆみ、通称、さゆみ、そしてこっちにいるのが、亀井えり、通称、えり。ふたりともつれて行っていいでしょう。ふたりとも東山くんのファンなのよ」 「れいなのおじさん、頼みます」 「いいでしょう」 ふたりの美少女に頼まれて福沢が拒否出来るるわけがなかった。 他のふたりも分類としてはきも可愛いという類型にはいるのだが、ハイソックスを履いている方はどちらかというと清純な感じ、網タイツを履いている方はまだ幼いくせにどことなく大人の色気があった。そこへちょうど電車がやって来たので四人は電車の中に乗り込んだ。三人の女の子は電車の中できゃはきゃは騒いでいる。つり革にぶら下がりながら、福沢あきらはぼんやりと電車の天井からつり下げられている車内広告を見ている。花小金井の方におもしろい公園があるらしい。昔の銭湯や酒屋や鍛冶屋の建物がそっくりと移築されているという。その建物の写真が乗っている。揺れる電車の中で引率した娘たちの騒ぐ声を聞きながら福沢は別のことを考えていた。こんな可愛い少女たちをつれて行ったら自分はどんな感じだろうか。職場で人気者になってしまうかも知れない。こんな可愛い娘さんがいるの、随分若く結婚したのね。そんな秘密をどうして教えてくれなかったの。みんな口々に訊くだろう。とくにあのFMさんはどうなのだろうか。僕にもっと興味をもってくれるだろうか。れいなちゃんに作り話を教えたのも、あのFMつまり森富美のことが僕は好きだからにほかならない。森富美の心をすっかりとつかみたい。福沢はぼんやりとそんなことを考えていた。 「福沢さん、ぼんやり、車内広告なんか見て何考えているんですか」 「やあ、誰かと思ったら君か」 ここで変な奴に会ったぞ。こんな美少女たちをつれて行くことがわかったらやばい。 福沢あきらは独白した。 ふん、福沢、いけすかない奴、でもなんで子供なんてつれているんだ。 「行きましたよ、その公園、あの映画が賞を貰ったので特別記念行事をやっていますよ。今月は。僕も取材をしましたから。その女の子たちは誰ですか。まさかね、福沢さんの娘さんたちというわけではないんでしょう」 道重さゆみが振り返った。髪が美しい放物線を切って揺れた。 「れいなについて東山のりゆきくんに会いに行くんです。れいなのおじさんは福沢さんなんです」 他のふたりの少女たちも同意してうなずいた。 三人とも変なことを言い出すなよ。特別鑑別所を退所した記念でつれて行くとか、イニシャルがFMの女がジャニーズのパンツを集めているなんていうことはな。 しかし、変なところで変な奴に会ったなぁ。俺が森富美の気を引きたいからこの娘たちを職場に連れて行くということがわかっているのかなぁ。 福沢独白。 一方で羽鳥真一郎は福沢の考えていることを心の中で詮索していた。 こいつ、何、考えているのだろう。多分、アシスタントの女の子か何かにこんな娘がいるなんて作り話をして自慢することだろう。所詮こいつの考えそうな事だ。  羽鳥真一郎は独白した。羽鳥真一郎、最近福沢の地位をおびやかしている日テレの男性アナウンサーである。 そしてこの男はいろいろな意味で有名である。 「福沢さん、そのきも可愛い娘さんたちをアナウンス室につれて行くんですか」 好意に満ちた聞き方だったがそれが羽鳥の本心ではないということは福沢は確信していた。変なことを言って揚げ足をとられるわけにはいかない。 えい、面倒くさい。少し矛先を変えてやるか。あれ、その連れている人は誰。 福沢の問いに羽鳥真一郎は真面目に答えた。 「ああ、こちらは東北の方の歴史や偉人のことを調べている人なんです。郷土史家さんです」 すると羽鳥真一郎がつれていた男が揺れる電車の中でうまく重心をとりながら答えた。 「はじめてお目にかかります。わたし、青森の方で郷土史家をやっております。福留と申します。あなたが福沢さんですか。いつも朝の番組、ほら、なんて言いましたか、ズ、ズ、ズームイン朝、いつもあの番組は欠かさず見させて頂ましたです」 ******************************************************************* 電車の中 福沢はこの正体不明の人物を連れているのが羽鳥真一郎というだけで警戒心が起こってくるのを自制出来なかった。羽鳥真一郎に繋がっている人物なら自分に益を与えてくれるはずがない、いや、むしろ反対である。そう感じていた。それがどういう感覚から生ずるのか、うまくいい表すことは出来ない。第六感と言った方がいいかも知れない。しかし、その一方で一応平静を装っていなければならなかった。 「そうですか。ありがとうございます。青森の方で郷土史家をなさっていらっしゃるんですか。どういう方面の研究をなさっていらっしゃるんですか」 そう言いながら福沢はふたたび自問自答した。 {こいつ、あんまり俺に会えてうれしそうな表情もしないし、かと言って無愛想でもない。どこかで見たことがあるような気もする} そんな福沢の当惑を羽鳥真一郎は見逃していなかった。 「福沢さん、この人とどこかで会ったのに思い出せないっていう顔をしていますね。この前の正月特番に出ていたじゃありませんか。江戸御用金の隠し場所を探せという番組で」 福沢は今は自分が元不良少女をテレビ局の見学に連れてきているという本来の目的も忘れてその認知不能の人物に対して関心を集中させていた。そして記憶の底をたどっていくと、引っかかるものがあった。神経細胞の突起のひとつに電気が走った。 「そう言えば、出てた。出ていた。何か、大道具がやたら大掛かりな模型を作っていたからな。あれはプロデューサーのKの組がやった番組だったかしら。でも、何で羽鳥がこいつと一緒に電車に乗っているんだろう」 不良三少女たちはこの場面では全く埒外に置かれているようだが、不良独特の臭覚を発揮して羽鳥真一郎の臭いを嗅いでいた。不良少女、亀井えり、田中れいな、道重さゆみ、三人は三人とも悪の道をかってはつき走っていたのである。それもその道の中央を堂々と歩いていたのだ。同類の臭いをかぎ分けることは簡単なことだった。そして三人は三人とも羽鳥真一郎にただれた愛の痕跡を感じていたのである。三人は蛇のような無機質な目をして羽鳥真一郎をじっと見つめていたが彼自身はそのことに気づかなかった。 「偶然だわね。こんなところで出会うなんて」 少し離れたところから声をかけられて福沢はぎくりとした。 「あっ、誰かと思ったら、山王丸君じゃないか。君も一緒にいたのか」 「一緒にいたのかなんて言い方はないでしょう。これも仕事でいるんだから。福留さんのご案内をしているのよ」 福沢はこの場所にいるとは思わなかった女子アナの山王丸がいたので目を丸くした。会いたくはなかった。 そんな福沢の内面を見透かしているのか、山王丸は冷笑しているように口元をゆがめた。 「今度の番組に是非出て貰いたいって願っているある人がいてね。その人が福留さんと是非話す機会を持ちたいと言っているのよ。誰だかわかったら、あなた、大びっくりするわよ。その人の強い要望で福留さんには御出演をお願いしたのよ。そのある人って一体誰だと思う。ふふふふふふ・・・・・・」 「誰なの」 全く関係のない亀井えりが横から口を出した。 「羽鳥くんから教えてもらいなさいよ」 「誰なんだよ」 福沢は挑発されているような気分がした。 「知りませんよ。僕にふられたって、困るなあ、山王丸さん」 「一体、誰なんだよ。教えろよ」 「それより、福沢さんのつれているその娘さんたち誰なんですか」 山王丸もそのきも可愛い娘たちの顔をのぞき込む。 「福沢くん、確かまだ子供はいなかったんじゃないの。そうだ。アシスタントの女の子に会わせて女の子の機嫌でもとって、食事にでも誘おうって魂胆でしょう。下卑ているわね」 山王丸は蔑んだ目をして福沢を見つめた。 「何、言っているんだよ。この娘たちはね。親戚の女の子たちでどうしてもジャニーズの東山くんに会いたいというからつれて来たんだよ。要するに親戚孝行」 「熱心に頼んだら三人とも連れて行ってくれるって福沢のおじさんが約束してくれたんです。女子アナの中で男のパンツを集めている人って誰ですか。確か、イニシャルがエフ」 田中れいなが口を開くと福沢はあわてた。 「うわあ~~~~~、あ~~~~」 「何よ、急に騒ぎ出して、ばっかじゃない」 「そんなことより、結局、見つかったんですか、御用金」 福沢は例の作り話が女子アナの中に広がらないかと怖れて話をする相手をほかの人物に変えた。  今まで話の輪の外にいた郷土史家が福沢に声をかけられて戸惑っているようだった。 声をかけられない方がいいと思っているようだった。 「結局、江戸の御用金って見つかったんですか」 「ばかねぇ、あんた。福沢、見つかったら、番組が成り立たないじゃないの。見つかった時点で番組は終わりよ。その経過を報告するのが番組でしょう」 「・・・・・・」 郷土史家、福留は多少居心地が悪そうだった。 「でも、福留さんは見つけたという実績がありますからね」 「いえいえ、ぐふぐふ」 「江戸幕府の御用金を見つけたんですか」 「小判を七枚だけなんですが、古文書によれば確かな証拠なんですよ」 「そういうきっかけになるようなものの発見があるからある人が是非会いたいって熱望しているのよ。ふふふふふふ・・・・」 福沢はいらいらした。 「ある人って誰なんだよ。全くいらいらさせられるなあ」 「でも、私、福留、単なる財宝捜しの人だと思われるのも困るんです。本来は郷土史家で郷土の大恩人、和井内貞行先生の事績を後世に伝えようと研究を始めたのです。わが国に和井内貞行先生がいらっしゃらなければ青森の人々の生活はどうなっていたでしょうか」 「和井内貞行」 福沢はまた目を丸くした。 「なんだ。福沢くん、知らなかったの。十和田湖でひめます養殖に成功した人よ。火山が作ったカルデラ湖である十和田湖にはイモリぐらいしか住んでいなかったの。二十一年かけてひめますの養殖に成功した人よ」 「和井内貞行先生は郷土の大恩人というだけではありません。わたしにとっては特別な意味を持つ大恩人なのです。実は私、十和田湖の湖畔で旅館を営んでおりまして十和田湖で穫れるひめますを献立の中に入れさせて頂いております。とくにひめますを使ったひめます釜飯とヒメマス寿司が評判がよくて、このふたつの料理は青森県知事賞を頂きました」 その場所にいた者たちはみなそんな料理のことを思い浮かべて食欲の虫がうずいていたが、三人の不良少女だけはじっとその会話に耳をそばだてていた。 ******************************************************************** しおどめにある日テレの受付に入るといつもの受付の女が普段は連れていない道連れを連れを連れて来たので福沢に声をかけた。 「あら、福沢さんの娘さんですか。それも三人も。随分可愛い娘さんがいるんですね」 それは受付の女のお世辞だった。半分は可愛いと思う気持ちもあったが半分はきもいという印象を受け付けの女は持っていたのである。 しかし、福沢はその言葉を真に受けて口元をくすぐったそうにして笑った。福沢の計画通りだった。こんな可愛いい娘を三人もつれてくれば、ここでさえこんなにいい印象を与えることが出来たのだから、きっとアナウンス室に行けば人気者になるに違いない。きっとあの森富美なんかはきゃはきゃは言って喜ぶだろう。森富美は自分に強い印象を持つに違いないと確信までしていた。 福沢は金持ちのような余裕のある笑みを浮かべた。 「僕の娘じゃないんだよ。事情を話すと長くなるんだけどね。僕の姉の子供とその友達なんだ」 三人のうみほおずきみたいな女の子たちも受付の女に挨拶をした。 「東山くんに会いに来たんです。わたしたち東山くんのファンなんです。ここにいるれいなのおじさんが福沢さんなんです。れいなと友達で良かったわ」 道重さゆみがそう言うと横で亀井えりもうなずいた。 「そういうこと」 福沢はますます得意気だった。そのあいだ三人の娘たちは少し色っぽいソックスを引っ張って直していた。 「おっ、あれは」 福沢の注意を喚起するものがあった。 ホールに面したエレベーターの方を見るとプロデューサーのKがいるではないか。和井内貞行に心酔している郷土史家を江戸埋蔵金のオーソナリティに祭り上げた男だ。その横には鈴木君恵が立っているふたりで何か喋っている。 「あの郷土史家に会いたがっている人間が誰なのか調べるチャンスだ」 福沢は早速ふたりのところへ行くことにした。電車に乗っている間中、福留に会いたがっているのがどこの誰でなんのためにか知りたくて仕方なかったからだ。もちろんどこの誰と言ってもこのテレビ局の中の人間で大方はプロデューサーのKに関係している人間には違いないのだろうが。 福沢はエレベーターの前にいるKと鈴木君恵のふたりの名前を呼んだ。そしてすっかりと三人のはじけ豆のような娘を引率していた事を忘れていた。  エレベーターの前に立っているふたりに声をかけてそのそばに走り寄ったときにはエレベーターの扉は閉まろうとしていた。、そして福沢がそのそばに駆け寄ったとき、福沢の意思も忖度せずドアは閉じられふたりは上に運ばれて行った。 宙ぶらりんの状態で福沢がホールの中央に立ち尽くしたとき、自分が三人の子供を連れて来たことを思い出した。 「あれ、みんな、どこに行ったの。隠れん坊しにここに来たんじゃないよね」 福沢はあわててあたりを探した。つれて来た手前、姉に会わせる顔がない。 「みんな、どこに行ったの。今は隠れん坊の時間じゃないよね。早く出て来ようね。早く出て来ないと東山くんに会えなくなっちゃうよ」 福沢はまた案内のところに戻った。 「さっき、ここに三人の娘、連れて来たでしょう。見かけなかった。今さっきまでここにいたんだけど」 「いいえ、はぐれちゃったんですか。館内放送をかけましょうか」 「いや、いいんだ。そんなにおおげさにとなくても」 福沢はまだこの三人の娘のほんの一部の部分も知らなかった。迷子になるようなたまではない。自分たちから自由遊泳に出かけたのだ。 福沢ひとりがあせっていた。 「とにかく探さないと、またアナウンス室の連中に見られでもしたら、何を言われるかわからない。特に羽鳥なんかに見られたら最悪だ」 福沢の心配をよそに亀井えり、道重さゆみ、田中れいなの三人は日テレの中を自由遊泳していた。娘が三人だけでテレビ局の廊下を歩いているのだから怪しく思う人がいるかも知れないが、三人ともアイドルというような容姿をしているので誰も一般人だとは怪しまなかった。きっと何かのドラマに出ている子役だと思っていたのかも知れない。三人はタレント控え室が並んでいる階に来ていた。 三人は廊下の入り口のところで時間を計っていた。そこを通る人間の流れにはある規則性のあることを発見していた。 「十五分周期で人が通っているわ。そのあいだの十分くらいのあいだには人が通らないわよ。さゆみ」 「えり、携帯合い鍵製造機を持っている」 「持っているわよ。さゆみ」 「れいなだったら、一分で合い鍵を作ることは出来るわよね」 「もちろんよ。えり。でも、ここの合い鍵でこの階の全部の部屋は開くかしら」 「平気よ。えり」 「じゃあ、合い鍵を作っておく」 廊下の一番はじのところには名札がかかっている。そこには東山くんの名前が書かれていた。この悪魔三人娘は東山くんの控え室の合い鍵だけではなく、この階にあるすべてのタレント控え室の合い鍵を作ることを計画していた。 「じゃあ、れいながドアノブのところに行って合い鍵製造機で合い鍵を作るのよ。わたしとさゆみはれいなの姿が見えないようにするから」 亀井えりが言った。 ********************************************** この三人の犯罪者はこの廊下の一番近くにあるタレント控え室のドアに近づいて行った。合い鍵製造機を田中れいなは取り出すとドアノブのところに密着させる。この部屋の中には誰もいないことはわかっている。田中れいなの姿を亀井えりと道重さゆみが覆い隠した。すべて流れるようにことが進んで行く。こんなことは彼女たちには朝飯前の仕事だった。十分のあいだには誰も来ないだろう。田中れいなが機械のスイッチを入れたので小さな振動音がした。そこには誰も来ないはずだった。三人はそうだとたかをくくっていた。  しかし、向こうから一般の人間に較べると背の高い女が歩いてくる。胸がおおきい。まるでミス日本のようだった。その女は三人が控え室のドアでもたれて何かをしていることを不審に思っているようだった。胸のあたりには参考資料のようなものを抱えている。 「あなたたちは」 美しいことは美しいが少しでかい口から鈴の音のような声が聞こえた。田中れいなはあわてて合い鍵製造機をポケットの中に隠した。その女はこの三人の犯罪者を不審気な表情で見ている。 「隣の部屋の人と知り合いなんです」 亀井えりが口から出任せを言った。 「そうなんです」 道重さゆみも同じことを繰り返した。 その女がまだその言葉に不信感を持っているようなので三人はあわてて開いている隣の部屋のドアを開けると中に入った。 「そう」 女はまだ不信感を払拭されてはいないようだったが急いでいるのか、そのまま行ってしまった。三人は部屋の中に入ってから奥の方に誰かがいることに気づいた。 「誰ですか。ドアを開けるときにはノックぐらいしてください。おや、なんだ。お姉さんたちか。きみたちは音楽番組の関係者かい。ここはその方面じゃないよ。マネージャーさんはいないの。困ったなあ、まあ、いいか。僕の出演時間までまだ時間があるし、ちょうどうまい具合にお茶と団子もあるし、ここで休んでいくかい」 控え室の中には立派な背広を着た紳士が座っていた。三人はこの場をどう取り繕うかと思った 「ほら、団子あるよ。食べるかい。団子って言うと思い出すなあ。ごめん、ごめん、一人感慨に耽って。ほら、ちょうどうまい具合に湯飲みも三つあった。お茶も飲めるんだろう。きみたちどんな歌を歌っているの」 どうやら三人を音楽関係者だと思いこんでいるようだった。 この部屋の中の主が三人にお茶をついでいるあいだ、田中れいなはすでにこの場になじんで茶饅頭を手にとるとがつがつと食べはじめていた。そのときドアをノックする音が聞こえて再び、何やら鈴の音のような声がドアの向こうから聞こえた。 「先生、どうなすったんですか。何やら楽しそうですね」 亀井えりの背中には一瞬冷や汗が流れた。また鑑別所に戻されてしまうかも知れないという。この紳士が見も知らない女の子たちが入って来たと言ったらどうしようかと思った。「僕の孫たちなんだよ。見学に来たんだよ。僕の出番までまだ時間があるから団子とお茶を一緒に頂いていたところなんだ」 「まあ、先生、そうなら、私がその子たちの案内を買って出てもいいですわよ」 「いや、そうして貰えるとありがたいんだけど。久しぶりに孫たちの顔を見たのでもう少し話していたい気分なんだ」 「先生がそうおっしゃるなら、私はちょっと用がありますから十五分くらいしたらまた来ます」 「そうか、ありがとう。森富美くん」 ここで三人はあの女が森富美という名前だということを知った。それにしても一安心だ。自分たちが総務の方に引き渡されなくて、それにしてもなぜ、この男は自分たちを孫などと嘘を言ったのだろう。その疑問は亀井えりも道重さゆみも田中れいなも同様に抱いていた。そこの住人は彼女たちの疑問を感じていたようだった。 「きみたちはただ者ではないな」 三人は無言で彼の瞳を見つめた。 「部屋のドアを開けるときも部屋に入って来るときもまったく物音一つ立てなかった。そして部屋に入るときは特殊な訓練を得たものたちだけの陣形を取っていた」 「探していたんだよ。探していたんだよ」 部屋の外から騒がしいほどの声がして汗を拭き,拭き、福沢が入って来た。 「れいなちゃん、勝手に局内を歩いちゃだめじゃないか、それにお友達も」 そこで前からの住人がそこにいたことに気づいて福沢はまた汗を拭き拭き、頭を下げた。 「おじさんが勝手なエレベーターの方に行っちゃうんだもの」 田中れいなはぶつぶつと言った。 ************************************************ 社内で私用の物置かわりに使っている部屋を今度、会社の備品を置くことになったので角田久美子はその部屋の中に置かれたロッカーの中に入っている自分の持ち物を整理しようとその部屋の中に入った。 彼女のロッカーの中には家に持って帰ろうと思いながら持って帰らなかった物がたくさん放り込んであった。朝、雨が降っていて傘をさしてきて途中から雨がやみ、そのまま置きっぱなしになってしまった傘。番組宣伝のためのアイテムで気に入ったので貰おうと思ったが家に持ち帰るのが面倒だったのでそのままロッカーの中に入っているものだとか、いろいろで、自分のロッカーの中をそんながらくたが収まっている。 「ああ、面倒臭い。こんな物、貰わなければよかったわ。ああ、これこれ、北海道に仕事に行ったとき持って来たホテルのスリッパ、見つからないで、どこに行ったんだろうと思っていたらこんなところにあったんだわ」 北海道へ仕事に行ったとき気に入ったスリッパをホテルで見つけたのでついでに持って来たのだが、それには思い出がひとつついていた。それは三四年前のことだった。その事を思い出し、感傷に耽ろうと思うと隣のロッカーの扉が開いていて何かがその扉から見えている。 「何かしら」 それが同じアナウンス室の同僚、魚住りえのロッカーだということはわかっていた。魚住りえの悪い噂は前々から耳にしていた。それはもし女性週刊誌などが聞きつけたら一悶着が起こるような内容だった。しかしアナウンス室内だけで収まっている。その内部の人間だけに関わっている問題だったのでそれが外部には出ないのかも知れない。そのそもそもの元凶というのはアナウンス室のプレーボーイ、ドンファン、女好きの羽鳥慎一郎だった。角田久美子も羽鳥慎一郎を初めて見た時心ひかれるものがあったこともある。しかし、あまり深入りせずに現在の夫を見つけたのであるがそれはある事件が彼女の淡い思いをさめさせる原因になっていた。羽鳥慎一郎は何人ものアナウンス室の女に手をつけていたが理性を失うほど真剣になっている女もいた。それが魚住りえだった。羽鳥慎一郎は魚住りえをおもちゃのようにさんざんもてあそんだのちにボロ雑巾のように捨てたのである。まわりの人間がみな、魚住りえに目を覚ませと言っても彼女は全く耳を貸さなかった。捨てられた女の恋の炎は羽鳥慎一郎に向かってますますめらめらと燃え上がったのである。その燃えかたもはなはだ奇形かつ反社会的なものだった。どういう行動に走ったかと言えば駅のホームで羽鳥慎一郎がテレビ局から帰って来るのをじっと待っていたのである。手にはナイフが握られていた。何も知らない羽鳥慎一郎は次に行く女のマンションに電話をかけながらテレビ局から駅へ行く道を歩いていた。 羽鳥慎一郎は脳天気に電話をかけていた。 「もしもし、しんちゃんだよ。もしもし、ハワイで空軍のパイロットをやっているんだよ。親戚にはハワイのカメハメハ大王がいるんだよ。へへへへへ・・・・」 その電話をしている羽鳥裕一郎の様子を魚住りえはじっと見ていた。 「羽鳥慎一郎、お前を刺して、わたしも死ぬ」 羽鳥慎一郎が駅に降り立ったとき事件は起こった。雨の中の駅の改札の近くの柱の影で魚住りえは刃渡り四十五センチの洋剣を持ちながら羽鳥慎一郎を待っていた。そこへお気楽にも他の女へ携帯電話をかけながら羽鳥慎一郎がやって来た。魚住は四十五センチの洋剣を羽鳥の方へ向けながら一直線に走って行った。ちょうど雨が降っていたのが幸いした。羽鳥が魚住の方を振り返るのが同時だった。濡れていた床に足をとられて魚住は転んだ。しかし、そのとき羽鳥の右腕に斬りつけていた。魚住の刀は濡れた駅のホールにころころと転がった。羽鳥は右腕に五針を縫うけがをした。通行客の多い夕暮れにこのような刃傷沙汰が起こったのである。当然、新聞の三面記事を埋めてもいいはずである。それがなぜ公にならなかったか。いろいろな憶測が飛び回った。羽鳥慎一郎が某大新聞の未亡人オーナーと関係を持っていて裏から手を回して押さえただとか、魚住りえが某有力政治家の隠し子だとか、いろいろだった。 しかし、この恥ずべき事件がもみ消され、何事もないように彼らが毎日出社しているのは事実である。しかし、世の中にとってひとつだけ良かったことは、たとえ社会的制裁を受けなかったにしてもこれで少なくともアナウンス室の女全員に羽鳥慎一郎の真実の姿がわかってしまったということである。角田久美子の羽鳥慎一郎に対する淡い恋の炎も立ち消えてしまった。 「それにしても魚住さん、まだ目を覚まさないのかしら」 その後も魚住と羽鳥慎一郎はずるずると関係を続けていて、さらに新たな展開が加わっていた。手当たりしだいに女に手を出していた羽鳥慎一郎は今度は何を血迷ったのか、森富美にまで魔手を伸ばし、森富美もまんざらではないようだった。  この問題のおかしなところは魚住りえが羽鳥慎一郎に敵意を向けるだけならわからないでもないのだが森富美にも敵意を向けているといことだった。もっともこういった問題を起こしている羽鳥慎一郎と魚住りえのふたりの顔を会わせる機会を持たせるわけにもいかず、ふたりの勤務日はずらされていて顔を会わせないように配慮されていた。角田久美子がその魚住のロッカーが開いているのを見てけげんに思ったのは開いている扉の隙間からなにかひものようなものを見たからだった。噂によると魚住のロッカーの中にはいろいろな武器が入っていると聞いたことがある。羽鳥を襲ったときの剣から忍者の使う音の鳴る手裏剣とか鎖帷子とかである。とうぜん角田はそのひものようなものに興味を持った。そのひもを引っ張ろうと腰を屈めたときすぐそばに誰かが立っているのを感じた。 「角田さん、何をしているの」 「自分のロッカーを整理しようと思って」 「わたしのロッカー、開いていたでしょう。でもわざと開けておいたのよ。なんのためかって、私の意思を他の人に認識させようと思ってね。あなた達が私のことを笑っているのは知っているわ」 「私、笑ってなんかいないわ」 「嘘、おっしゃい。羽鳥慎一郎に騙されたばかな女だと思っているでしょう」 「・・・・・・・・」 「でも、いいのよ。笑いたいなら、笑ってちょうだい」 「???????」 「みんなの思っているとおりだわ。この中には慎一郎、わたしのすべてを奪った男、慎一郎を刺した刀が、そして慎一郎を撃ち殺すための猟銃が入っているわ。でも、みんな慎一郎のためだけではない。わたしにはもうひとり許せない人間がいる。あなた、扉から出ているひもを見ていたわよね。そんなに見たいなら見せてあげるわ」 魚住りえは目をきらきらさせてひものさきについているものを取り出した。 「何を見ているの。見た通りのものよ」 魚住りえがロッカーの中から取り出したものはカメラだった。 「ふふふふふ、これで決定的瞬間を撮ろうと思ってね。あいつを追い落としてやるの。羽鳥慎一郎の心をすべて奪っているあの女を。ふふふふふふ・・・・」 何かが狂っている。何かが、このアナウンス室には・・・・・。 ******************************************** 八王子刑事 八王子刑事こと、滝沢秀明は目覚まし時計代わりの携帯電話の着信音で目を覚ました。 「もう、眠たいなあ、今、何時だと思っているの。もしもし、もしもし」 「早く目を覚ませ。本部に来い」 「何ですか。事件が起きたんですか」 「その通りだ。例の警告状のとおりだ。三人の精鋭を送り込んでおいたが、阻止できなかった。これから君も知っている三人をそちらに向かわせる。君も用意をしたまえ」 「ちきしょう。警視庁に配属されたのはいいけど、あんな課に配属されるんじゃなかった。しかし、いくらなんでもあと三十分ぐらいはここまでやって来ないだろう。何しろ霞ヶ関から八王子までは車で三十分はかかるだろうからな」 そう思ったので滝沢秀明はコーヒーをいれ、トーストを焼いた。コーヒーの苦みが甘みに感じる。トーストを一枚食べ終わったところでマンションのガラス窓が点滅をした。たぶん懐中電灯で滝沢のマンションのガラス窓に光りをあてているのだろう。同じ課からの信号である。他のマンションの住人に気づかれないように細心の注意を払っている。 もっともこのマンションには滝沢のほかには五六組しか住んでいないのだが。滝沢がガラス窓を開けて外を見ると見慣れた車が停まっていた。滝沢秀明は階下に降りて行くとこれまでも捜査をともにした仲間の見慣れた車が真夜中の砂利道の中に停まっている。車内のルームランプは消されている。 「マイナス一課のものか」 「ウィ」 車の中から慣れないフランス語が帰ってきた。 「久しぶり」 「また、会いましたね」 「今度も組むのかい」 「ウィ」 またフランス語が戻ってきた。 「とにかく車の中に詳しいことは現場に行く車中で話します」 滝沢秀明のマンションの前に三人の捜査マイナス一課の捜査員は待っていた。彼女らのうしろには六百馬力の特別仕様の車が控えていた。でもどういうことだろう。三人の捜査員というのは福沢につれられて汐留の日テレへ東山くんに会いに行った三人のキモ可愛い女たちではないか。この三人の元不良娘たちが捜査マイナス一課の有能な捜査員だったとは。三人の捜査員の背後に控えている六百馬力の自動車はまるで生き物のようにエンジンをぶるんぶるんと震わせている。 滝沢秀明はある考えを思いついた。 「コーヒーを飲み残したままおりて来ちゃったんだよ。ちょっと待ってくれる。ついこのあいだステンレス製の携帯魔法瓶を買ったんだ。それに詰めれば車の中でもコーヒーが飲めるよ。いま部屋に戻って、取ってくるから、少し待ってくれる」 三人は少しいらいらしているようだった。 「なるべく早くしてちょうだいよ。事件は救急を要しているんだからね」 田中れいなが一番いらいらしているようだった。 滝沢秀明はステンレス製の魔法瓶にコーヒーをつめると車のところに戻って来た。四人は黄緑色のさかりを過ぎた枝豆みたいな色に塗られて古くさいボデーを持った、しかしエンジンの馬力だけは異常に大きい車に乗り込んだ。 捜査員のひとり亀井えりがアクセルをゆるゆると踏み込みながら発進した。ヘッドライトは外国からの輸入農作物と一緒に運び込まれて繁殖してしまった雑草を照らし出した。車のハンドルをゆっくりときり、自動車は国道に出た。 「事件のあらましを教えてくれる」 滝沢秀明はポットの中にいれたコーヒーを蓋に注ぐと口につけた。 「その前にわたしたちにもコーヒーを飲ませてよ。一時間も車をぶっ飛ばして来たのよ」 横目で道重さゆみが滝沢を色っぽくみつめた。 「ごめん、ごめん」 滝沢がバスケットの中から紙コップを出そうとすると 「そのままでいいわよ」 道重さゆみは滝沢が今、飲んでいる蓋をゆびさした。 「でも、俺が口をつけたままだぜ」 「いいって言っているでしょう」 道重さゆみは無理矢理滝沢の手から蓋を取ると自分の口に持って来た。 「たーちゃんの味がする」 道重さゆみは滝沢の方を見ると挑発的にわらった。 ハンドルを握っていた亀井えりはハイキングでもないでしょうと言って花でわらった。三人の特別捜査員は前の座席に座っていたが、その様子を見た田中れいなはものすごい目をして滝沢秀明をにらみ付けた。それを見て亀井えりはまた鼻で笑った。 滝沢秀明自身は不純なものは感じていなかった。夜中にたたき起こされて、この三人が迎えに来て何度この夜中のコーヒーを味わったことだろう。そしてこのコーヒーの味はその輝かしい戦績にむすびついていた。今度もまた難事件なのだろうか。滝沢秀明は思った。 滝沢秀明は紙コップを出すとコーヒーを注ぎ、田中れいなにもさしだした。 「一杯、どお、ところで夜中にたたき起こして、一体、何があったといの」 後部座席から身を乗り出して、滝沢秀明が前の三人に訊くとハンドルを握ったまま、亀井えりが滝沢の質問に直接答えず、違うことを言った。 「滝沢くん、あなたは冷徹になれるわね。事件の捜査には感情は禁物よ。それは事件の解釈を変な方に持って行くわ」 「今まで僕が事件をゆがんで解釈したことがあったかい」 滝沢秀明は不満気に言った。すると亀井えりの口元がゆがんでほほえみがひろがった。すると他のふたりも皮肉に笑った。 「たーちゃん、まだ、あなたは若い、身体の中には暖かい赤い血が流れている。それが心配なの」 亀井えりが諭すように言った。そして田中れいなはいらいらして 「たーちゃん、わたしたちはあなたが若い男だから心配しているのよ」 「どういうことだよ」 滝沢秀明は抗議した。 「そのうち、わかるわ。まあ、いいわ。事件の概要を説明してあげる。日テレを知っていますか。最近、引っ越したんだけど」 「知っているよ」 「そこで昨日の夜、殺人がありました」 「一体、誰が」 「行けばわかるわ」 昨日の夜といえばいつもは寝苦しい夏の一夜なのだが激しい雨が昼間から降り続きぐっすりと寝られた。気持の良い夢も見たのである。そんな昨日の夜に凶行がおこなわれたのか。滝沢秀明は昨日はぐっすりと寝ていたてそんなことが起きていたとは夢にも思わなかった。 「迂闊だったわ」 亀井えりは下唇を噛んだ。 そして道重さゆみが続けた。 「わたしたちは昨晩のことを予想して前もって日テレに潜入していたんです」 「潜入、じゃあ、このことが起こるとわかってたいのか」 滝沢秀明はこの元不良少女たちの慧眼に舌をまいた。 「これを見てちょうだい」 田中れいなは背もたれ越しに一通の紙片を滝沢秀明に差し出した。差し出されたのはDが持っている警視総監の愛人宅に送られてきた凶行を予言する手紙のコピーだった。滝沢秀明はコーヒーを片手に持ちながらその紙片に目を通した。 「迂闊だった。われわれが潜入していたというのに、凶行を阻止出来ませんでした」 六百馬力の車き夜中の国道をものすごいスピードで走って行く。昨日降った雨がまだ乾ききらないので路面が光っていた。道の両側に立てられているモーテルの大きな看板がヘッドライトに照らし出された。 「この手紙がいたずらではなく、信憑性があると判断したのはなぜだい」 「これはDの判断だわ。この手紙は総監の愛人宅に送り付けられたのよ」 亀井えりはハンドルを握っている。 「日テレに潜入してからどのくらい」 「五日前から捜査に当たっているわ」 「今回の犯人のこころあたりは」 「ノン」 三人の娘はフランス語で答えた。 「そして今回の事件の主目的は、これはDからの依頼だわ。殺人犯をつかまえることではない。何よりも最優先させなければならないのはこの手紙を誰が出したかということなのよ。滝沢くん。つまり、誰が総監の愛人の住所を知っているかということなのよ。それを最優先にしてくれという話だわ。Dはそう言っていた」 亀井えりの横顔が対向車のライトを浴びて怪しく光った。 ******************************************************************** 「ふん、また総監の尻拭いか」 滝沢秀明は不良っぽく捨てぜりふを吐いた。汐留の日テレ前に来ると事件の関係者以外、中に入れないように警察官がロープを張って立ち入り禁止となっていた。もちろんめぼしい証拠が持ち去られないよう、もしくは証拠が加工されないようにするためである。 しかし警察が通報をうけて現場保存の作業をはじめたときにはもうすでに多くの人間が現場に出入りしていたようである。建物の前の路上では早めに出勤してきた何人かの社員がが道路に面した窓を指さして事件についての噂話をしていた。四人は建物について、すぐ顔なじみの捜査一課の警部を見つけた。 「やあ、現場はここの五階の資料室です。即死でしたな。現場を見ますか」 「もちろん」 交通課の一分課が何故殺人現場の捜査に関与しているのか、この警部はよくわからなかったが、これは事実なのである。 「こっちの通路から入った方が現場に早く行けるわよ」 田中れいなが首をふりふりしながら勝手に非常階段に入って行った。 現場へ抜けて行ける非常階段を四人は登って行き、被害者のいる現場へ着くとその部屋の入り口にはふたりの警察官が立ってガードしている。部屋の中では鑑識課の係員が立ち回っていた。四人が警察手帳を見せると入り口に立っていたふたりの警察官は道をあけた。 「あなたたちが来るんじゃないかと思っていましたよ」 「ウィ、ウィ」 道重さゆみは酔ったようにフランス語で返事を繰り返した。しかし彼女たちの目は現場に一心に向いていた。 「被害者を見ますか」 被害者がくるまれていたシェラフのようなもののジッパーを開けると被害者の顔が現れた。 「おっ、これは」 滝沢秀明がテレビでも見たことのある人物だった。 「福沢・・・・」 「私のおじさん。戸籍上はそういうことになっている」 確かに田中れいなはふだんはこの男をおじさんと呼んでいたが、田中れいながおじさんと呼んでいる人物を滝沢は五十人ほど知っていた。 「わたしたちはこの人物を通して、ここに潜入した。でも、まさか、この人が殺されるなんて夢にも思いませんでした。意外だったわ」 亀井えりは冷静に福沢朗の死体を見下ろしながら言った。 「被害者は日本テレビアナウンサー、福沢朗、三十五才、死因は後頭部の打撲、推定死亡時刻、昨晩の三時二十分前後」 検死官は四人にそう言った。 昨日の三時二十分頃といったら雨がシャワーのように降り注いで涼しくてぐっすり寝ていた頃だ。 「現在、わかっているのはそれだけです」 「この資料室に何をしに来ていたのでしょうかね」 昔の雑誌がたくさん束ねられて置いてある書庫をながめながら、検死官は昨日の夜、ここで古い雑誌に目を通している福沢の姿を想像しているようだった。 「この部屋の上はなんの部屋だったかしら」 道重さゆみが天井の方を見上げた。 「何だ。あなた、何度もここに来ているじゃない。もう、忘れたの。ここの上はアナウンス室よ」 亀井えりも天井の方を見上げた。 「福沢くんが殺されたって、本当」 警官の制止を振り切るように息を切らせながら入って来た女は滝沢の顔をまじまじと見つめた。 「信じられないわ。とにかく死に顔を見せてくれる」 「あなたは」 滝沢秀明は突然の訪問者に声をかけた。 「福沢くんの同僚で山王丸和恵と言います。とにかく福沢くんの姿を見せて、死体を見なければ信用出来ないわ」 「知ってたわよ」 田中れいながうそぶいた。 山王丸和恵は倒れている福沢の死体をのぞき込んだ。 「意外ね、と言うよりも当然かしら。安らかな顔をしている。それよりも幸せそうでもあるわ」 「ちょっと、聞き捨てになりませんね。死者に対して不謹慎じゃありませんか」 滝沢秀明は抗議した。 「そうだ。そうだ」 「そうだ。そうだ」 「そうだ。そうだ」 きもち悪い三人組も同意の意思を表示した。 「事実を言っているだけよ。だって、そう見えるんだから仕方ないじゃありません。この顔はどう見ても喜んでいる顔よ」 山王丸は四人の抗議にも少しも動揺しなかった。 「あなたの言い方を聞いていると、この被害者が自分で死ぬことを望んでいるみたいじゃないですか。何かそういう事実を知っているのですか」 すると三人の特別捜査官は手帳を取り出すとメモをとりだした。この三人の特別秘密捜査官はこの女の顔をしげしげと見つめた。三人はこの女に不信感を持っているようだった。 「何の、理由もありませんわ。ただ事実として福沢くんの死に顔が安らかでそのうえに喜んでいるぐらいに見えただけということですわ」 「わかりました。今度の事件について何か関係があるんじゃないかと貴がついたことがあったらこのカードの電話番号に連絡してください」 「これは私こと警視庁捜査マイナス一課滝沢ひで開きのダイレクトコールです」 「まあ、可愛い」 山王丸和恵の顔がピンク色に輝いた。それと同時に滝沢が持っていたもう一枚のカードを田中れいなが引ったくりのように奪い取った。 「滝沢くん、こんなもの作っていたの」 田中れいなはそれをとり上げるとしげしげとそのカードを見つめた。電話カードで滝沢秀明の顔が載っていて電話ボックスに差し込むと相手さきにかかる仕組みになっているらしい。 「わたしにはくれなかったじゃない」 田中れいなは身体を滝沢秀明に押しつけた。 もちろん、山王丸和恵はそんなことは関係がないようだった。そして何か用事もあり、急いでいるようでもある。 「じゃあね。可愛い刑事さん。何か思い出したら教えてあげるわよ。それより仕事以外で一度会いたいわね」 行ってしまおうとする女を亀井えりがお前にはまだ用事があるのだというばかりに引き留めた。 「ちょっと待ってちょうだい。あんた、警視総監の愛人の住所を知っていますか」 突然の突拍子もない質問が出て来たので山王丸和恵は耳を疑った。 「えっ、なんて言ったの。ばかみたい。そんなの。知るわけがないじゃない」 そのまま彼女は行きすぎた。 「仕事熱心だな」 滝沢秀明は亀井えりに声をかけた。 「わたしたちの捜査の第一目的を忘れたらだめよ。滝沢くん」 「まあ、何も収穫がなかったんだから、ここの喫茶店にでもいきましょうよ」 道重さゆみが他の三人を促した。 「このアイスおいしい」 滝沢秀明が銀色のスプーンでアイスの一郭をくずして白い小さな固まりをすくい取ると口の中に運んだ、氷と液体の中間のような物体が滝沢秀明の口の中で溶けた。 「それにしても殺されて喜ばれている人間なんて初めて見たよ」 「あの山王丸和恵のことでしょう」 「いっときとは言え、わたしのおじさんだった人よ」 田中れいなが抗議した。 他の三人はチョコレートパフェをたのんだ。朝からコーヒーを飲んだだけで何も食べていない。これらの間食をさきに食べてから主食を注文するつもりだ。 三人は向かい合って座りながらテーブルの上に置かれたメニューを広げて見た。 「これ、食べてみたい」 道重さゆみがのぞき込んだメニューには変な料理の名前が書かれている。 「大正力カレー。何だよ。それ」 そばをウェートレスが通ったので滝沢秀明はそれがどんなものなのか、聞いてみた。 田中れいながさかんに食べたがっていたからである。しかし、その答えははなはだつまらないものだった。それでも田中れいなはしきりに食べたがった。この調子でいくと塀を作るために積み上げられている赤煉瓦でさえ囓り出すかも知れないと滝沢秀明は思った。 そんなもの注文するなと思ったが田中れいなはよだれをたらしてメニューを見ている。食いしん坊の宇宙生物兵器のようだった。 「よろしければ注文なさったら」 潜めた声で呼びかけられて滝沢は顔を上げた。コロボックルのような三人組もその方をちらりと見た。 「誰もいないかしら」 その人はあたりを見回した。 「誰かに見られると困るのよね。わたしにも立場というものがあるから」 やはり誰かに見られていないのか気がかりな様子だった。 「あなたは」 喫茶店にやって来たのは殺された福沢の同僚の角田久美子だった。 「あなたたちが福沢さんの事件を担当している刑事さんたちですか。あなたたちに教えたいことがあって、ここに来たんです」 やはり角田は声を潜めている。 「福沢さんが変死したの。そもそも事故死なんですか、それとも他殺なんですか」 「殺されたに決まっています。そうでなければわたしたち特別捜査員たちが出るはずがありません」 「じゃあ、他殺ということにします。あなたたちのお耳に入れたいことがあるんです。あの、言い忘れましたが、私、福沢さんと一緒に仕事をしていた角田久美子って言います」 「何か耳よりな情報ですか」 「あなたたち、まだ私達の職場の内実を全く知らないでしょう。それで正しくこの事件を把握してくれるか、心配だったから話に来たんです」 「そうですか。あなたのような人がいて下さると警察も助かります」 「ウィ、ウィ」 「別に警察を助けようと思ってここに来ているわけではありません。正しくあなた方がわたしたちの内部の本当の姿が伝わっているかどうか心配なので話に来ただけなんです」 「内部の本当の姿。何か意味深なことを言うな」 アイスのスプーンを片手に持ちながら滝沢秀明やキモキモ三人娘は身を乗り出した。そのスプーンはアイスの中に突っ込んであったので今はこの喫茶店の中の湿気が付着して霜が表面について金属的な光沢がなくなっている。亀井えり、道重さゆみ、田中れいなの三人は水の入ったガラスのコップを固く両手で握りしめた。 「失礼ですけど、刑事さん、恋愛関係は。まだ、だいぶ若いように見えるんですが。そうだ。まだお名前を伺っていませんでしたよね」 若いと言われて滝沢はむっとした。警視庁の精鋭、捜査マイナス一課の一員だ。しかし、亀井えり、道重さゆみ、田中れいなの三人組はもっと怒っているようだった。 「気分を害したようだったらごめんなさい。でもこの日テレ、アナウンス部で起きたこの殺人事件。あなたたちはそういう判断を下しているんでしょう。もし、そうなら、ここの捜査をするなら少なくともマンションの合い鍵を女の人と共有したことがあるくらいでないとこの内部のことは理解できないと思うんです」 すると田中れいなは強烈に抗議した。 「あんた、くだらない事言わないでよ。それは単に道徳的にだらしないって言うことじゃないの。それがこの事件になんの関係があると言うの。それに合い鍵だったら、滝沢くんの家の合い鍵を私達三人はみんな持っているわよ。滝沢くんのいないすきに滝沢くんの冷蔵庫に入っているインスタントラーメンを煮て喰ったり、チョコレートフォンデューパーティをやったり、お金が足りないときには滝沢くんの貯金通帳からお金を引き出したりしているのよ」 「お前ら、いつ僕の知らないすきにそんなことをやっているんだよ」 滝沢秀明は怒りで顔が青くなった。角田久美子はそんなことも関係ないようだった。 「別にわたしだって身内の恥をさらすつもりで言っているわけではありませんわ。あなた達がこの内部の事情を知らずに判断を誤るのを怖れているわけです。わたしだって、何も知らない無邪気な学生時代からこの職場に入って目が点になったんですもの」 角田久美子は仕方なさそうに検挙に言ったが口の端からは喜びがこぼれ出ているように滝沢は感じた。 「まあいいです。どんな情報でも歓迎です。わたしたちの個人的な恋愛経験はひとまず横に置いておいて。ここの、福沢さんの周囲の本当の姿の一部でも教えてください」 「たとえばね。最近起きた事件なんですけど魚住りえさんって知っていますか。同じアナウンス室に所属している同僚なんですが、彼女についての悪い噂を知っていますか。駅で起きた事件なんです。彼女、あの駅で傷害事件を起こしたんです」 「傷害事件」 「警察の人でも知らないのね。やはり、うまく、ごまかしたんだわ。職場に羽鳥慎一郎って言うにやけたいけすかない男がいるんです。その男を駅で待っていて刺したんです。羽鳥は幸い軽傷ですみましたが。羽鳥が魚住りえをさんざんもてあそんだんです」 「羽鳥慎一郎、じゃあ、その男と魚住りえのあいだには愛憎劇があるということですか」 亀井えりがコップの水をひとくち口に含んでから尋ねた。 「彼にしてみれば単なるお遊びなんですが、魚住さんは突っ走る性格なんでまともに受け取ってしまったんですわ。だって羽鳥慎一郎たら私にもモーションをかけてきたんですから」 「羽鳥慎一郎さん、そういう人がアナウンス室にいるんですか。ほかに犯罪の原因になるような特異な性格や行動をとる人物は」 「ほかにもいっぱいいますわ。わたし、みんなの性格を正確に把握していますから」 「正確に性格、おもしろいしゃれね。うふふふふ」 道重さゆみはくぐもり笑いをした。 「でも何故、魚住りえさんが羽鳥慎一郎さんを刺すところまで追いつめられたんですか。刑務所に入り、多くの人の運命まで狂わせるかも知れない、そんなことをするなんてよほどのことがなければ出来ないでしょう」 「それはですね。羽鳥慎一郎が森富美さんに乗り換えようとしたからなんです」 「森富美、その人もアナウンス室のお仲間」 「ええ、彼女が入って来たときから羽鳥慎一郎は彼女に目をつけていたみたい」 「森富美、どんな人」 「とっても美人、元ミス日本、でも性格はどんな人なのか、わかりません」 「じゃあ、羽鳥慎一郎さんと森富美さんは関係があると」 「そこまではわかりません」 そこで角田久美子は一呼吸おいた。 「でも」 「でも、なんですか」 「森富美さんの場合は羽鳥さんが一方的に悪いとも言えないかもしれません」 「どういうこと」 「どういうこと」 「森さんが羽鳥さんを誘惑したという部分もあったかも知れない。だって、あの人、男の人だけでいると態度が変わるって聞いたことがあります」 おもしろいわ、この女、森富美のことを嫌っているわね。田中れいなは内心おもしろかった。 「変な顔をして笑っていないでよ。わたしの言っていることはみんな本当のことなんだから。気分が悪いわ」 「わたし、変な顔じゃない」 田中れいなが顔を真っ赤にして怒った。 「まあ、それはいいとして。今回の事件の被害者の福沢朗さんとはどういう関連があると角田さんは思っていますか」 「そのことがあるからここに来てあなたがたにお話しようと思ったんです。福沢さんは羽鳥慎一郎さんの恋のライバルなんです。福沢さんはもう結婚しているんですが森さんを狙っていたんです」 「ええ」 滝沢繁明はアイスクリームを口に入れたまま大きな声を上げた。 滝沢は驚いた。満足そうな表情を浮かべて死んでいた福沢だったがそんな秘密があったのか。 「それで、ついこのあいだも森さんのご機嫌とりにどっかの女の子をつれて来たそうですよ。その娘さんたち森さんに会ったのかしら」 三人の娘たちは自分たちの存在を示すために自分の方に親指を立てて示威行為をしたが角田は彼女たちに会っていないようだった。 「わたしの言いたいことはそれだけです。外部の人にはわからないいろいろなことがあるんです」 「そうですか。よくわかりました。あとでなにか気づいたことがあったら。こちらに連絡してください。僕の携帯か僕の部屋に繋がりますから」 田中れいなはまたすごい顔をして滝沢を睨んだ。滝沢の携帯の電話番号の書かれたカードを受け取ると角田久美子は喫茶店を出て行った。それと入れ替わるようにしてカレーライスが運ばれて来た。角田久美子が去る前に滝沢を抜かした三人が彼女に警視総監の愛人の住所を知っているか尋ねたのはもちろんのことである。 テーブルの横に置かれた椰子の木の鉢植えの向こうにカウンターがあって道重さゆみが水をたのんだ。 「あの女も容疑者の一人としておいた方がいいわね」 「なんで」 「あの女は同僚に敵意を持っているわ。特に森富美にはね」 「でも彼女は貴重な情報をくれた。三人ともおもしろいことがわかったじゃないか。羽鳥慎一郎が魚住りえと森富美というふたりの女を狙っている。そして被害者の福沢は羽鳥慎一郎を恋敵として森富美を狙っていた」 「それはあくまでも角田久美子が本当のことを喋っているという前提での話しでしょう」 「じゃあ、角田久美子が嘘を言っているってか」 「わたしたちは滝沢くんのように少し可愛い女が話したら、その女の言うことがすべて本当だとは思わないわよ」 滝沢秀明は少し鼻白んだ。 「何だ。みんなこんなところにいたのか。重要参考人の取り調べが始まるぜ。こんなところでゆっくり飯なんか食っていたら出し抜かれちゃうぜ」 「うるさい。ご飯ぐらい、ゆっくり食べさせなさいよ。消化に悪いでしょう」 田中れいながどなった。 「単なる重要参考人じゃないよ。犯人の可能性も高いよ」 「ええ、捜査が始まったばかりだというのに」 「お手つきに決まっているわ」 「アリバイがはっきりしない奴がいるんだ。それなりに動機もあるし」 「一体誰なんです」 「羽鳥慎一郎。取り調べを見に来た方がいいんじゃないの」 「行く、行く」 「残ったのを発砲スチロールの容器に入れて」 田中れいなはカウンターの方へ行くと何かごちゃごちゃと頼んでいた。 ****************************************************************** にやけた二枚目 普段はこのテレビ局の創設から現在に至る歴史的資料の保存と陳列に使われている部屋が急遽取り調べ室に使われることになった。他の部屋は事務的な感じでドアの色もクリーム色や水色に塗ったような感じなのだが、この部屋のドアはカシューが塗られ、まるで校長室のドアのようだった。実際、部屋の中に入るとこのテレビ局の創設者の胸像がドアの方を睨んでいた。 「交通課研究員の滝沢です」 真鍮製のドアノブを回すとこの事件の容疑者がふてくされたような、おびえたような複雑な表情で目の前の机の一点をじっと見つめていた。まわりを捜査員が囲んでいる。 これが角田久美子の話に出ていた羽鳥慎一郎だということはすぐにわかった。にやけた二枚目だ。美しいことは美しいが実がない。この男が美しいことは美しいが口がでかい森富美を追い回しているのかと亀井えりは思った。しかし滝沢秀明はその森富美を見たことがない。しかし普通の女ならこれほどの美男に言い寄られれば落城するに違いないと滝沢は思った。  亀井えり、道重さゆみ、田中れいな、滝沢秀明の四人は部屋の隅で壁に寄りかかりながら事情聴取の様子をじっと見守った。 「羽鳥さん、昨日の夜中の十二時から明け方までのあなたの行動を私達に話してくださればいいんですよ。決してむずかしいことじゃないんじゃないですか」 「・・・・・そういう言い方はないでしょう。まるで私が犯人みたいじゃないですか。何でそんなことを話さなければならないんだ」 「べつにあなたを犯人だと言っているわけじゃないですよ。消去法で疑わしい人物を消しているだけです」 「それを犯人扱いしているというんですよ。このへぼ刑事が」 「べつにあなたを疑っているわけじゃありませんが」 と一呼吸おいて滝沢たちを呼びに来た刑事が続けた。 「あなたに関しての悪い噂を耳にしていますのでね」 羽鳥慎一郎には思い当たることがあるのか、一瞬表情が硬くなったる 「あなたは森富美さんをめぐって福沢さんとトラブルがあったんではありませんか」 「その件について非常に興味深いことを耳打ちしてくれた人物がいます。ここに来てくれますか」 カシューで塗られたドアが開いてスカートのひだを直しながら女が入ってきた。彼女の顔を見ると羽鳥は目を伏せた。何かやましいことがあるに違いない。 「羽鳥さん、よくご存知ですね。あなたの同僚の古市さんです。彼女がおもしろいことをわれわれに教えてくれました」 そいつが本当のことを言うわけがない。あいつは俺のことを憎んでいる。なんでこんな女を呼んで来たんだ。と滝沢は羽鳥が心の中で言っているような気がした。 「古市さん、わたし達に話してくれたことをここで話していただけますか」 「・・・・・・・・」 「あの、わたし、身内の恥をさらすようで恥ずかしいんですが、真実のためですわ。アナウンサー室で少しトラブルがあったことをお話しますわ」 「・・・・・・・・」 「それは福沢さんとここにいる羽鳥さんのあいだに起こったことですか」 「ええ」 古市の表情にはしとやかな慎み深さがあったがくちびるのあたりには生肉をむしゃぶりついているような残酷さがあった。 この女もにやけた二枚目羽鳥慎一郎の毒牙にかかった犠牲者なのである。この女はいつか復讐しようと機会をうかがっていた、その機会がやってきた。そのために羽鳥慎一郎はうかつに口をひらけない。どんな過去があばき出されるかも知れない。 「わたしたち、スポンサーのところへ行って七福神活動というのを年に何回かやるんです。それ、結構、いいおこづかいになるんですけど」 「七福神活動」 部屋の隅にいた田中れいなが大きな声を出したのでみんなの視線は田中れいなの方に向かった。 「きもい」 古市幸子が声のした方を見てつぶやいた。 「きもくない。可愛い」 田中れいなは真っ赤になって怒った。 古市は何事もなかったように話を続けた。 「七福神というのは福をもたらす七人の神様です。もちろん、大黒天。恵比寿、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋の七人です。弁財天をのぞいた他の六人はタレントさんがやるのですが弁財天は女子アナが司会者の役でやることになっているんです」 「要するにそういう格好をしてスポンサーさんの新製品の発表会なんかの宣伝に行くんですが、わたしたちにとって弁財天の役をやるということは大変なメリットがあるんです」 「どんなメリットですか。おいしいものがたくさん食べられるとか」 田中れいなのどら声が周囲を圧した。 「ぶす、黙っていてくれない」 「ぶすじゃない」 田中れいなはまた真っ赤になって怒った。田中れいなが飛び出して古市に殴りかかろうとするのを亀井と道重のふたりがうしろから羽交い締めにして止めた。 「女の幸せってなんでしょう」 「・・・・・・・・」 「去年。丸々三角自動車の三代目御曹司と結婚したのが誰だか知っていますか。それからまた来て四角漁業の会長の孫と結婚したのは。驚かないでね。みんなうちのアナウンス部から出ているの。それもみんな七福神活動で弁財天をやっていた同僚よ」 そう言えば滝沢秀明も週刊誌で読んだことがある。七福神活動で弁財天をつとめていた女子アナが七年間連続で玉の輿に乗ったという記事を。でも、それが福沢と羽鳥を、さらに森をどうやって結びつけているのだろう。 「それがどういう関係があるのですか」 「七福神活動がこんなに利益をもたらすなら充分な理由じゃないですか。幸福の泉のもとに屍の山ありってね」 古市が皮肉っぽくつぶやいた。 「光るもの必ずしも金ならずともいう」 また田中れいなが自分が知っている唯一の格言を叫ぶと古市は鼻で笑った。 「ふん、とにかく弁財天に選ばれると良いことがたくさんあるのよ」 「古市さん、話の腰を折って申し訳ありませんが、じゃあ、今年の弁財天に誰が選ばれたのですか」 「森富美さんよ」 古市幸子は唐突に言った。 またしても森富美である。滝沢はまだ森富美に会ったことがない。 滝沢は何か怖れをいだいた。それはまるで真綿で首をしめられるような怖れである。 森富美、森富美ってどんな女なのか。今、ふたりの男に追いかけられているということは美人に違いない。 しかし、ふたりに追いかけられて煮え切らない態度をとっているということはきっとお高くとまっているに違いない。そんな女はいやだな。でももしかしてらさらにふたりの男を誘惑するために森富美特有のわざを使ったのかも知れない、そんな女はいやだなと滝沢は思う。捜査マイナス一課の同僚、亀井えりはそんな滝沢の心の中を見透かしているようだった。 「滝沢くん、あんた、森富美のことを考えているでしょう。ほら、顔に書いてある。森富美はどんな女だろうって。やめなさい、やめなさい。捜査に私情は禁物よ」 「全く、滝沢警部は馬鹿ね。もう魔術にかかっている。わたしたち、あの女を見たことがあるけど、たしかに胸はわたしたちよりも大きい。でも、それだけよ。わたしたちの方がずっといい女よ」 道重さゆみも付け加えた。 「三人とも、森富美を見たことあるの」 「内緒よ」 田中れいなが得意気に胸をそらした。 しかし、古市の陳述は続いていた。 「その弁財天の選出にもからくりがありましてね。それを選ぶ部長となくなった福沢朗さんのあいだにはルートがあって福沢さんが強力に森富美さんをおしたらしいんです。それで森富美さんが選ばれたんです。でも格好つけて福沢さんがそのことを言わなかったら羽鳥さんが自分が彼女を応援したから弁財天に選ばれたと森さんに恩着せがましい態度をとって・・・・」 今まで小刻みに震えながら黙っていた羽鳥慎一郎だったがとうとう押さえきれなくなって暴発した。 「嘘だ。彼女は嘘を言っている。僕が森富美にそんな態度をとったことなんて一度もない」 羽鳥慎一郎は机を叩いて立ち上がろうとしたが捜査員に取り押さえられた。 「羽鳥さん、まあ、落ち着いて。落ち着いて。話の続きを聞きましょう」 「あなた、怒っているの。本当のことを言われたから怒っているのね」 「前前から羽鳥さんと福沢さんのあいだは森さんを奪い合って仲が悪かったんですが、それがますます険悪になって、わたしは見たことがないんですが居酒屋でつかみ合いの喧嘩をしていたのを見たという人もいますわ」 古市は言いたいことを言うと気分が晴れ晴れしたのか、清々しい顔をして出て行こうとした。羽鳥は苦虫をかみつぶしたような顔をして黙り込んだ。出て行こうとする古市を亀井えりが呼び止めた。 「もしもし、わたしたちは交通課犯罪研究班のものですが、あなたは警視総監の愛人の住所を知っていますか」 古市は全く無視して出て行った。 *************************************************** 「羽鳥さん、あなたが本当に不利な立場に立っていることはおわかりですね。あなたはこのままで行くとこの事件の重要参考人ということになります。そしてそのあとは容疑者と。だからあなたのアリバイをはっきりとしてもらえればよろしいんです。夜中の十二時から明け方まで何をしていらっしゃったんですか」 その事には答えず羽鳥は横を向いたままだった。まるでギリシャの無言劇のような状態が続き、その中心には物言わぬ福沢の死体が人間の尊厳を嘲笑するように寂れた土産物屋の特産品のように滑稽に横たわっていたのである。捜査員もお手上げという表情をした。 滝沢たちもその重苦しい沈黙の中にいるとこの部屋のドアをこぶしで叩くような音がした。 そしてそのドアが突然開くと女が顔を出した。 「待って。羽鳥くん、何、黙っているの」 そこにいた事件の関係者も捜査員の目も一斉にその女の方に注がれた。そこにいる一同は驚きのあまり言葉もなかった。沈黙を突き破る声はその部屋の天井を突き抜けて空に届くようだったからだ。 亀井えり、道重さゆみ、田中れいなの三人はすぐに身構えた。 「なっ、なんだ」 捜査員たちは狼狽した。 「驚かせてごめんなさい。だって、羽鳥くんが黙っているのがじれったかったんですもの」 その女の声の中にはたしかに戦場で傷ついた兵士を救う義勇兵にも似た英雄的なものがあった。これが羽鳥慎一郎と色恋沙汰を起こし、血のすくむような大立ち回りをした魚住りえだった。 「羽鳥くん、何、黙っているの。言ってもいいのよ」 羽鳥慎一郎は狼狽していた。しかし、魚住りえが羽鳥のアリバイを立証したのはあきらかだった。ふたりはその夜、一緒に過ごしたと魚住は言った。 どこで一夜をともにしたかはふたりは言わなかった。プライバシーの問題としてそれ以上の追求は出来なかった。結局あいまいなまま、羽鳥慎一郎はこの校長室のような臨時の取調室を出て行った。亀井えりが例の質問、警視総監の愛人の住所を知っているかと羽鳥慎一郎と魚住りえのふたりにしたのは言うまでもない。しかしふたりともその質問にはいびつな表情を作ったまま笑って答えなかった。 出て行くときも魚住りえは重病の患者につきそうように羽鳥の手を引きながら出て行った。滝沢繁明にはあんな事件を起こしておきながら、その魚住の精神状態が理解出来なかったが、もしかしたら魚住は現在の羽鳥慎一郎を独占しているような気分になっているのではないかと解釈してみて、そのことを亀井や道重に言うと、田中れいなは、へん、茶番だわと吐き捨てるように言って、実際、つばを吐いた。  森富美に会わないままに午後から四人は汐留の日テレをあとにしなければならなかった。午後からは午後で捜査マイナス一課の四人には別の用が待っていた。亀井えりはハンドルを握った。愛車、と言っても彼女の持ち物ではないがその性能やくせは知り尽くしていた。彼らはJRの内側を走っていた。きのう降ったシャワーのような雨が嘘のように天気は快晴で滝沢秀明は車の後部座席に座っていたのだが窓を全開にすると入ってくる風が彼の顔をやさしくなでた。  前の座席には仲間の三人が座っている。ラジオからはヒップホップ系の音楽が流れ、田中れいなが首をさかんに動かしてそのリズムに調子をとっていた。 滝沢はまだ森富美を捜査していないが、まだ森富美に会っていないのが物足りない気がする。捜査に私情が入るなどということは言語道断である。しかし捜査の途中の聞き込みなどで市井の中で世の荒波に立ち向かっている名もない女性に出会うことがある。捜査をすることだから当然なのだがその人の真の姿に触れてしまうこともある。そんなとき滝沢はいけないと思いながら感情移入をしてしまうこともあるのだ。そのたびに滝沢は反省をする。亀井えりや道重さゆみ、田中れいなまでがそんな滝沢を青臭いといって笑う。そして亀井えりたちは言うのだ。事実のみが自分の主人なのだと。そのたびに滝沢はこの三人が遠い彼方にいるような気がするのだ。  そんな滝沢の感慨を知ってか知らずか、前の座席の三人はまるでタクシーの運転手に道を教えるように三人がそれぞれまわりの景色を見ながら自分たちの今いるところを確認している。車は恵比寿から五反田に出ていた。鉄道の線路の石垣が右手に見える。車はゆるゆると目的の場所を探っていた。 「あっ、あったわ。三ヶ月前に来ただけだから、すっかり忘れていたわ」 その建物は山の手線にぴったりと接して立っていた。どこと言って珍しいところもない古ぼけた二階建ての定食屋だった。その定食屋の横もやはり山の手線に接した車が二三台しか停まれない駐車場になっていて、亀井えりはそこに車を停めた。四人はがたついた引き戸を開けて洗い古したのれんをくぐって、その定食屋の名かに入った。一階には客がいなかった。四人は足を置くたびにしぼられたような音を出す白木の階段を上がって行くと二階の入り口のところには木製のビーズで出来たのれんがかかっている。そのすだれをかき分けると六十才くらいの肉付きのいいおばさんがうちわを片手に顔を出した。 「待っていたのよ。ラムネでも飲む」 「飲みます。喉がからからなの」 道重さゆみが答えた。 「昼間からカラオケにでも行って来たんじゃないの」 「カラオケなんて嫌いだわ。とくに点数の出るやつがね」 田中れいなが顎の下あたりをぼりぼりと掻きながら言った。四人が窓際の線路の見えるテーブルに座ると彼女はラムネを持って来た。 「こんなサービスをしているんだから分割で服の一枚でも買ってよ」 田中れいながラムネを飲んでげっぷをした。 「ふん、げっぷというしゃれだろ」 窓からは山の手線の砂利に埋まっている鉄路とその上を走っている高圧電線が見える。線路とこの定食屋のあいだには緩衝地帯として丈の短い雑草が生えている。ここはただの定食屋ではない。ここも捜査マイナス一課の拠点だった。都内のいたるところにソ宇佐マイナス一課の拠点がと言ったら言い過ぎだが、網の目を拠点に例えるなら都内は全てその網の中に入っていると言える。そしてその網の結び目はだいたい定食屋とか、雀荘が多かった。そして捜査員たちはここでお互いの連絡を取り合ったり、いろいろな捜査のための装置を借りたり使ったりするのだった。これらの捜査マイナス一課の拠点がなければ簡単な捜査も大掛かりな凶悪事件の捜査もことごとく成り立たないだろう。事実、つい一ヶ月前にも携帯電話を使った誘拐事件があったのだが、いくつかの中継装置に改造を加えられていて電話の発信場所を特定することは出来なかった。しかし頭上数万キロを周遊している人工衛星からの電波の解析によって犯人の位置を特定でき、犯人検挙につながった。この人工衛星からの信号の解析ができたのも御徒町にある表面上は雀荘となっているマイナス一課の拠点だった。その雀荘の屋根の上には表面的にはBS放送のアンテナにしか見えないのだが、その特殊目的の衛星からの電波を受けるアンテナがついていてそれにつながったホストコンピューターがその情報を分析したからだ。四人が今いるこの定食屋は御徒町のそれほどの規模や機能は持っていなかったが、それ相応のものはあった。 「今度のやまはどんなものなの」 定食屋の主人が聞くと道重さゆみがMDカセットとビニール袋に入った人間の体組織の一部を差し出した。 「こっちは魚住りえと羽鳥慎一郎の音声、そして同じく体組織の一部よ。保管しておいて」 おばさんはそれらを受け取りながら 「むかしはこんなことはやらなかったのにね。みんな足でかせいだものだわ。何か大事なものがなくなっちまったわね」 すると田中れいなが抗議した。 「時代の流れだからしょうがないでしょう。それより、あたしたち、この事件のおかげで長良川の鵜飼いを見に行けなくなっちゃったんだから」 「そうそう、ごくろうさま」 定食屋は田中れいなが真っ赤になって怒っているのを軽く受け流した。 「それより、Dからの連絡事項よ」 四人はその紙を受け取った。亀井えりがその紙を広げると道重、田中がそれをのぞき込んだ。彼らの背中越しに滝沢秀明がそれを見ている。三人はいつものように粛々とこの事件に当たっていたが滝沢秀明はこの事件に何か特別な思い入れを抱いているようだった。 「とにかくどんな連絡事項か、はやく確認しようよ」 亀井えりが広げた紙片を他の三人も囲むようにしてのぞき込んだ。そこにはワープロの活字が整然とならんでいた。それはまるで捜査マイナス五日部長Dのこの事件を入り組んだパズルを解くようにじょじょに解きほぐしていくようにとの意思表示のようだった。 「あら、ふたつの指示が与えられているわ」 その文面を読みながら亀井えりが黒髪の中から顔を出した。 「わたし、道重、田中。そして滝沢くんには違う指令が下されているわよ。なになに、私たち三人の方はあくまでも警視総監の愛人に誰が警告の手紙を出したのか、調べること。そのためにさきに殺された日本テレビに関係したふたりの人物について調べること」 そこで亀井えりは顔を上げて黒目がちな目を滝沢秀明の方に向けた。 「滝沢刑事の方は被害者の同僚、古市幸子の言ったことが本当かどうか裏をとること、その他、詳しいことがいろいろと書かれているけど概要はそういうことね」 「じゃあ、ここでふたてにわかれなければならないね。えり。僕の方は古市幸子の言ったこと、羽鳥慎一郎と福沢の関係について調べてみるよ。亀井警部たちは前に殺された日本テレビの関係者たちについて調べるんだね。じゃあ、ここでふたてにわかれよう」 「車は下にもう一台停めてあるから、滝沢くんはそれを使ってちょうだい」 厨房の置くの方からおばさんの声が聞こえた。 **************************************************************** 亀井えり、道重さゆみ、田中れいなの三人の警部たちは愛車を溜池の交差点の一角に停めていた。排気ガスがこの場所は低くなっているのでたまっているようだった。その中に三人の乗っている車は停まっている。エンジンの音が馬の鳴き声のようにぶるぶると震えた。亀井えりはハンドルを握りながら、隣に座っている道重さゆみに聞こえるように話した。 「警告状によればつい最近すでにふたりの日本テレビに関係している人間が死んでいると書かれていたわね」 その問いかけには道重が答えずに一人置いた隣に座っている田中れいなが答えた。 「Dが見せてくれた警告状にはそう書かれていたわ」 ********************************************** 「警告状のコピーをもう一度見せてくれる」 三人の秘密捜査官たちはその資料をお互いに回してながめすかししている。 「ほら、ここにありますよ。もとになる警告状には指紋もなんの手がかりも残されていなかったとDは言っていました。それに印字もどこにでもあるようなドットプリンターで打ち出されていたそうです。そこから足がつくという可能性はありませんね」 「一体、この手紙を誰が書いたのやら」 三人は天空の異常をどんな神の啓示かと幾十もの解釈を紡ぎだして呻吟している中世のイタリヤの神学者のようだった。 「警視総監の愛人ってどこの誰なのよ。それがわかればこんな面倒なことはやらずに済むでしょう」 田中れいながチューイングガムの包み紙を歯で食いちぎりながら亀井えりの方を見る。 「Dもそのことに関しては情報を提供してくれないのよ。いまいちわたしたちを信用していないみたいね。元不良たちだから当然かしら。ふふふふ」 道重さゆみも同意した。 「Dの奴、まったく頭にくるわね。こうなったら警視総監の家に一日中張り込んだらどう」 亀井えりが少しお姉さんの判断を示した。 「まあ、いいじゃないの。Dとの信頼関係もあることだし、まず日本テレビに関係した人間で最近不慮の死を遂げた人間を調べるのよ。ふたりいるそうじゃないの」 「あんた、何、言っているの。そんな人間が一体何人いるかわかっているの。なんらかの関わりを持っている人間を挙げていったら千人じゃ、きかないわよ。そんな多くの人間をどうやって調べるのよ」 「だから殺された福沢を中心にして円を描いていくのよ。最初は百人の円を描くのよ。その中で虱潰しに不慮の死を遂げた人間を調べて行くのよ。それでその円の中にいなかったら、さらに円の大きさを広げていくのよ」 「その仕事に便利なことがあるの」 「便利なことって何よ」 「黙ってついて来ればわかるわ」 亀井えりはそう言うと一九七〇製の車のアクセルをふかした。三人の乗った車は四谷の迎賓館の裏あたりで止まった。それから横道に入って細い路地に入って行き、行き止まり Tの字になっているところで目の前の黒塀を右に曲がった。そのさきは本当に行き止まりになっていて、そこには二階建ての家があった。一階は車庫になっていて亀井えりはゆるゆるとその車庫の中に車を停止させた。勝手に人の家の車庫の中に車を停めるということはありえないからこの家の住民と亀井えりは面識があるに違いないと田中れいなは思った。 「一体、この家の中に誰がいるんですか」 道重さゆみが車の窓越しにこの家の床裏になっている部分を見て言った。それから二階に上がる階段を探すと駐車場の隅の方に殻になった緑色の石油のポリタンクの横に剥き出しのそれがあった。 「あそこから上がるのね」 亀井えりが車のドアをしめると他のふたりはもう階段を上がって行った。亀井えりもあわててふたりのあとを追って階段を上がった。三人が階段を上がって行くと上から声が聞こえた。 「お待ちしていました。さあ、上がってください」 上の方からその声が聞こえ、本人も顔を出したが逆光線になっているので顔ははっきりとは見えなかった。  田中れいな警部はこの声を聞いたことがあったが思い出せなかった。 どこの誰がここに住んでいるというのだろうか。三人が二階に上がりきるとそのその人物は向こうを向いてスリッパの用意をしていた。 「お待ちしていましたわ。スリッパを履いてください。ここに来ることは誰にも言わなかったでしょうね」 「もちろんです」 どうやら亀井えり警部と話しがついているようだった。 「角田さん、わたしたちに協力してくれるというのは本当ですね」 「もちろんです。今度の福沢さんの事件では一日も早く犯人を捕まえて欲しいんです。やっぱり、私たちのそばにいる人が犯人なんでしょうか。見も知らずの行き当たりばったりの人が犯人だなんて信じられませんものね。警部さんたちももう犯人のめどがたっていらっしゃるんでしょう。教えてくださいよ。身の回りに犯人がいるなんて不安ですわ。ねえ、犯人は誰なの」 好奇心の強い女だ。福沢朗の死よりもこの事件の特異性を楽しんでいるようだと道重さゆみ警部は思った。それにこの部屋の中はなんだろう。まるでフリーライターの部屋のようではないか。角田久美子は最近、結婚したという噂を聞いたがこの部屋が愛の新居にはどうしても見えない。乱雑に散らばったメモや資料類が床を占拠していた。部屋の隅では何かの伝票類が束ねられて置かれている。 「あなたは最近結婚したという話を聞きましたが旦那さんはどこに済んでいるの」 道重さゆみがそのあまりにも乾ききった部屋の印象から当然の疑問を提出した。 「旦那、まさか、ここはわたしの出張所よ。前線基地よ。ここでいろいろなことを調べているのよ。たとえばこのパソコンの中に何が入っていると思う。たとえば福沢朗で調べてみると」 角田久美子がカチャカチャと音をたてて福沢朗の名前を入力するとモニターの画面が流れ出した。福沢朗の経歴から好きな食べ物、行きつけの飲み屋、喫茶店、趣味、パチンコ屋に行った回数まで出てきた。もちろん血液型もである。そして過去の疾病歴まで出て来たのである。その様子を見ながら田中れいな警部はラーメンマニアがわざわざ遠いところまでラーメンを食べに行ってラーメンの材料からスープの秘密や店のロケーションまでこと細かにに記録しているのと似ているという気がした。 「わたし、職場の人間のことをすべて調べ上げてあるのよ。そのためにアナウンサー室の給湯器のそばに隠しマイクを備え付けたり、休憩時間にごみ箱をあさったりといろいろとしてきたのよ。驚いた」 これまでにも田中れいなは双子の兄弟の遠隔殺人の話や特殊な昆虫の出す殺人音波のことなどを知っていたからそれほど驚かなかった。 「うう、でも、何でそんなことをするの」 「おもしろいからよ。あなたはある女子アナのエルメスのバッグの中にゴム製のかえるのおもちゃが入っている姿を想像したことがある」 角田久美子は勝ち誇ったように道重さゆみと田中れいなの方を見下ろした。 「旦那さんはこんなことをしていることを知っているの」 「知っているわけないでしょう。夫婦だからと言ってお互いに何もかも知り合っているわけなんてないじゃない」 角田久美子はせせら笑った。そして窓際のさんのところに座ると窓から身体を半身出して一輪差しの薔薇の花で鼻の先をくすぐった。 「それより犯人の目星はついたの。わたしに協力してもらいたいんでしょう。亀井警部の話はそういうことだったと覚えているけど、それでいいのね」 「それにしても角田さんって好奇心が強いんですね。日本テレビの中のすべての人間の情報を網羅しているんですか」 「わりと身近な人間のことはかなりごみ箱あさりから細かいところまで調べ抜いてあるわ。あのビルの中にいる人間だったら出身地と生年月日と家族構成ぐらいは調べてあるわよ」 「じゃあ、今回の事件の犯人もおぼろげながらわかるということですか」 角田久美子は外を見ながら違うことを考えているようだったが道重さゆみの方をじっと見つめると口を開いた。道重さゆみは角田久美子の眉毛の毛の一本一本が見える気がした。 「刑事さん、わたしの口から言わすの」 角田久美子はほんのちょっとのあいだ沈黙を守っていたがすぐにその名前を挙げた。 「誰ですか」 「森富美」 三人が予想していた人物の名前が角田久美子の口から出て来た。やっぱりこの女は森富美のことを嫌っていると田中れいなは思った。と同時に田中れいなの何の脈絡もない第六感から引き出された答えも同じものだった。 「私の予想に驚きもしないようじゃないの」一本の薔薇の花が揺れていて、その花の向こうに角田久美子の角田久美子の厚めの唇が淡い赤色でにじんでいた。彼女が花瓶にさしてある薔薇の花を取り出して自分の顔の前で揺らしていたからだ。 三人の警部はテレビ局内での喫茶店でも、この彼女の新婚の夫にも知られていない部屋の中でも同じ言葉を聞いたわけだが、早く犯人を捕まえて欲しい、そうでないと不安で仕方ないという殊勝なせりふが彼女の本心なのかといぶかった。それほど彼女の態度はほかの場所にいるときと違って大胆に見えたからだ。彼女がこの場所にいて何かから解放されていることは明らかだった。 「でも、角田さん、あなたはこれほど私たちに協力的なんですか」 「それは義務だからですよ。それが市民の、さらに言えば身近で起きた事件だからなおさらでしょう」 「警察に協力してくれるあなたに対して申し訳ないですが、あなたはこの事件を楽しんでいるように見えますよ」 「ふふふ、わたしがこの事件を楽しんでいるですって。とんでもない。いい迷惑ですわ。昼間から職場内に警察のかたが歩き回っていますし、同僚たちがお互いを犯人ではないかと疑心暗鬼の目を向けあっていますしね」 「でも、角田さん、あなたはさっき言いましたよね。犯人は森富美さんだと予想をたてていると」 「三人ともなにか私が森さんに感情的嫌悪感を持っているとでも疑っているの」 「その問いにはノーコメントです。わたしたちは第六感を捜査の参考にすることはあっても感情を事件解決の手助けにすることはありません」 その言葉に道重さゆみも田中れいなも同意した。 「そのとおりです」 「そのとおりです」 「きっと、あなた達に最初に会ったとき、わたし、森さんのことを言うとき冷たい口調になっていたかもしれない。きっと警部さんたちはそのことを覚えているのね。でも森富美が犯人かも知れないという思いを抱いているのは私だけじゃないのよ。そっちの方の影響で私はそういう結論づけをしているんですから」 「じゃあ、誰がそういうことを言っているんですか」 「同じ職場の人間ですか。名前を言うのが都合が悪いなら、ほのめかすだけでもいいですよ」 田中れいなはその角田と同じ考えを持つという人間が誰なのか知りたくて聞くと角田久美子は今座っているソファーから手を伸ばしてその横に積み重ねて置いてある雑誌類の束をとろうとした。この部屋の隅には寝転がると膝から下がはみ出してしまうぐらいの大きさのふかふかのソファーが向かい合わせに二台置かれている。それを横に二台つなげてベッド代わりにも使えるのだろう。角田久美子はそうやってここで眠ることもあるのかも知れないと道重さゆみは思った。新婚の夫も知らない彼女の生活がここにはあるのだ。 「身近な人ではありませんわ。ほら、これ」 そう言って三四冊の週刊誌を彼女は自分の身体のバランスを失いながらも手を伸ばして取り上げた。重ねた三四冊の週刊誌の一番上にあるものは青と橙色の配色の図柄が微妙に折り重なっている表紙になっていて三人の警部達も駅の売店の店頭に並べられているのをよく見ている。電車の網棚の上に置き忘れられていることもよくある社会面を中心とした週刊誌だった。彼女が今、座っている場所からずり落ちそうになりながらも手にした雑誌もその名前はわからないが同じような週刊誌だろう。 「あの事件が起こってから早速、週刊誌ネタになっちゃって、あることないこと私たちの知らないことまでなんでも書かれているんです。読んでみますか」 「どれどれ、見せてちょうだい」 田中れいな警部は手をさしのべてその雑誌をぱらぱらとめくった。めくるたびに風がくるような気がした。 事件の経過だけならいいんだけど御足労にも犯人さがしまでやっているのよ。これが週間トディ、元捜査一課花山徳三の推理って書いてあるでしょう。犯人はMFと書かれている。私たちの関係者の名かでMFと言ったら一人しかいないじゃないですか。つまり森富美さんしか、つまり私が犯人は森富美さんじゃないかと言ったのは週刊誌の受け売りだと言うわけ。決して森富美さんに感情的にどうとかいうものがあるというわけじゃないの」 しかし三人の刑事は何か釈然としなかった。角田久美子の心野中にまだ隠されている何かがあるのではないかと疑っていた。 だいたい自分の同僚をスパイしていることがそもそもおかしい。でもおかしいことはおかしいと残しておき、今は角田久美子の変な趣味を利用して捜査を進めなければならない。 「あなたが週刊誌の記事から森富美さんが犯人ではないかと思ったことはよくわかりました。つまり、あなたもことの真相はよくわからないということなのですね。でも何故ご主人にも内緒にしてこんな部屋を借りて自分の同僚のプライバシーまで掘り起こしているんですか」 田中れいな警部は角田久美子のこんなことをしている本心を探るのは無理としてもこの捜査に積極的に協力しようとしている魂胆を知らなければならないと思った。 角田久美子が犯人だという可能性も充分にあるのだから。 「捜査に協力してくれるのはありがたいのですが、なぜこれほどまでに積極的に協力してくれるのですか。民間人の積極的な協力者として警察から金一封をもらうのが楽しみなんだとはまさか言わないですね」 「そうね。あなたたちの捜査に加えてもらうことが希望ですわ」 田中れいな警部は絶句した。 本当にこの女は同僚の死を楽しんでいるに違いないと思った。 「何を言っているんですか。あなたには失礼かも知れませんが、あなただって犯人の候補のひとりには挙がっているんですよ。そんな人にわたしたちの手の内を見せるわけには行きませんわよ」 田中れいな警部はむっとして角田久美子を睨み付けた。 すると角田は意味不明な笑みを浮かべながらいま座っていたソファーから立ち上がるとモニターの方に向かった。そして小声で言った。 「田中れいな警部」 キーボードにそう打ち込むとまたモニターの画面が流れ出した。 「田中れいな警部、表面的には交通課所属ということになっているが特殊捜査を専任とする捜査マイナス一課の主要構成員、その業績の評価は高く、過去に百十二件の捜査を担当して犯人検挙率百パーセント、誤認逮捕率ゼロパーセントの輝かしい実績をあげる。趣味は仲間の亀井えり、道重さゆみと行く、郷土祭り見学」 角田久美子はそのモニター画面を読み上げた。 「いいでしょう。あなたにも私たちの捜査の仲間に加わってもらいましょう。あなたに教えてもかまわないことは喜んで情報を提供しましょう。でも他の人たちにはこの事件のことは決して言わないでください」 すると角田久美子の顔は薔薇色に輝いた。ほとんど子供のようだった。三人の警部達でリーダーの亀井えりがそう決定したのだが、他のふたりははなはだ不満そうだった。 「じゃあ、あなたたちが捜査してわかつたことは何でも教えてくれるのね」 「もちろんです」 「それで私たちは互角というわけですね。これでお互いに対等な立場で協力しあえますわ。これで協力関係が成り立ったという記念に乾杯でもします。アルコール分十二度の飲み物があるのよ」 「シャンパンですか」 道重さゆみが言った。シャンバンなどというものはクリスマス前後の期間にしかないものであるが、何故この部屋の冷蔵庫の中にシャンパンが置かれていたのか角田久美子自身にもよくわからなかった。しかし道重警部はシャンパンが飲めると聞いて満足気なほほえみを浮かべた。道重さゆみ警部はなぜだか故郷のことを思い出していた。道重は薄い黄金色の液体を舌の上でころがしていると向かいに座っている角田久美子が何かを誘うような目つきで彼女の方を見ているので思わず目をそらした。角田久美子の目のあたりは酔ったように見える。道重警部は何かおそろしいものを感じて目をそらした。心の中の動揺を抑えるために心の中で吐き捨てるように言った。ううう・・・このあばずれ女めが。 「そろそろ話の本題に戻らせてもらいます。ここに来る前に電話で言いましたが、あなたに日テレに関係していた人物で最近不慮の死をとげた人のことを調べられますか、と頼んでおきましたが、私たちも半信半疑でしたがここにこうしてこの部屋に来てみるとあなたの言葉を信じないわけにはいきませんね。最近ふたりの人間が不慮の死を遂げています。今回の福沢氏の事件にも関係しているらしいのです。その人物のことがわかりますか」 「調べてあります。報告書にもまとめてあります。あなた方が来たら渡そうと思って。そのテーブルの上に重ねてあ紙神がそうです。それを取ってもらえますか」 ソファーの上に座っていた道重警部は立ち上がると後ろの机に手を伸ばしてその紙片を取りみんなの前に置いた。四人はそのレポートを真ん中において周りを囲んだ。 「過去三ヶ月の間に不慮の死を遂げた人物を調べました」 角田久美子の顔は下から懐中電灯の光を当てたようにあやしく光った。 「まず一人目は前田作善、五十七才、経理課に所属しています。亡くなったのは広尾の厚生病院です。死因は肺ガンです。三年前にも一度肺ガンの手術を受け、その後の不摂生が原因で病気が再発、本人はいつも病院へ行くぐらいなら死んだほうがましだと周りの人間に言っていたようです。そう言った自暴自棄な状態が何によってもたらされたのかはわかりません」 「じゃあ、その人は不慮の死と言っても何も不自然な部分はないんですか」 「そのようですね」 「その人の細かい経歴とかわかりますか」 亀井えりが黒髪をかき上げながら角田久美子の顔を見た。 「社内の人間だからここに入社してからの経歴は全て分かっています。単なる履歴書みたいな感じですがいちおう移動や賞罰のことは全てわかっていますのでそれはすべてここに書いてありますよ」 「ほかにどんな人がいるんですか」 「社外の人間なんですが、ふたりいます」 「ええっ、ちょうどふたりですか」 田中れいなが身を乗り出した。 警告状に書かれていて人数と一致する。警告状にも最近ふたりの人間が不慮の死を遂げたと書かれていた。道重さゆみ警部は思わず小さな声を漏らした。亀井えり警部は何事もないように冷静だった。 「ふたりともテレビ番組の出演者なんです。ふたりとも社外の人間です。本多明久、福寿武人という人物です。そこにも書いてあるでしょう。まず本多明久の場合、土曜日の十一時から始まる健康生き生きアワーという番組に六月十一日に出演しています。健康生き生きアワーというのは民間の健康法などを紹介する番組で富山からうちが呼び寄せて市ヶ谷の学生会館ホテルに泊まってもらいました」 「その人は何をやっている人ですか」 「富山で農業に従事していました。主に米を作っていたようです。その米作りのことでその番組によばれたのではありません。もとをただしていくと忍者を祖先はやっていたそうで忍者の非常食に関してはその方では有名な人らしく、それに関してその番組でよんだようです」 「忍者」 いつもは冷静な亀井えり警部が素っ頓狂な声をあげた。 「昔は日本も国内で戦乱にあけくれていた時代があったの。今でいうスパイのようなものかしら。とくに忍者が多かったのは織田信長や豊臣秀吉がいた時代よ。そう言った戦国大名に仕えて薬売りやら反物売りやらいろいろな職業を隠れ蓑にして諸国を歩いて情報を集めたりしていたのよ」 「本多という人がその子孫なのですか」 「ええ、だから祖先の忍者の書いた古文書がたくさんあってそれを研究していたんですって」 「その人の死因はなんですか」 「六月十日の夜に富山から東京に出て来て六月十一日にテレビ出演をして、六月十二日に東京見物をしてから富山に帰ると家族には言っていたそうです」 角田久美子の厚ぽい唇から静かに言葉が出てきた。 「それが六月十二日に多摩プラザの公衆トイレの中で死体として発見されました」 「もちろん他殺ですか」 「そのとおり」 「犯人は」 「迷宮入りです」 「福沢朗事件との関わりはどうなっているのですか」 「全くわかりません。福沢さんが殺されることになるなんて思いもしませんでしたもの。警部さんたちが福沢さんの事件に関係したことだから調べて欲しいといわれて、そんなこともあったんだと、私、思い出したんです。それでもうひとりの人物、福寿武人のほうなんですが、不思議なことにその人が不審な死に方をしたのも六月十二日なんです」 「不慮な死というと」 「この人のほうは上野の寛永寺にある木下順庵の墓の前で死んでいたのよ。誰かに後ろからスコップのようなもので頭を殴られてその殴られた衝撃で前のめりになって倒れていたんだって」 「そっちの方も犯人はわからないの」 「もちろん」 「古い人の墓を尋ねるのが趣味なのかしら」 「そんなことはどうでもいいのよ。大事なのはふたりが同じ六月十二日に殺されたということよ」 「角田さん、福寿さんは日テレとどういう関わりをしていたんですか」 「やっぱり土曜日にやっている番組で知ろうと何でものど自慢という番組があって、それに出ることになっていたんです。その番組にどうやったら出られるかというと自宅で歌を吹き込んで放送局に送るの。そのとき自分のプロフィールも送るんだけど歌よりもそれがおもしろいと採用されるみたいだわ。福寿武人のほうは七十二才で神奈川の方で床屋さんをやっていたみたいだわ」 「警告状に載っていた不審な死に方をしたふたりってそのふたりなのかしら」 「きっとそうよ」 「わたしの調べたかぎりでは自然死や病死ではなくてそんな死に方をしたのはそのふたりだけだったわよ」 「じゃあ、角田さん、この書類は貰っていきます」 亀井えり警部はそのファィルを取り上げた。 「警部さんたち、そのふたりを調べるんですか」 「そのうちに」 三人の警部達はその質問を適当にはぐらかした。 「何か、わかったことがあったら私にも教えてください」 三人は角田久美子の秘密の部屋から降りてきた。角田久美子は見送りもしなかった。 三人は角田久美子があとをつけていないことを確認すると彼女の秘密の隠れ家の隣の家の玄関をたたいた。もちろん角田久美子には知られないようにである。コンクリートブロックを四角に積み上げた門柱が二本並んで立っていてその間に黒く塗られた鉄製の門扉が閉められている。その鉄扉の向こうにはは金木犀のくすんだ緑色の植木が見える。たその向こうには木製のさんのあいだにすりガラスがはめ込まれている引き戸の玄関があり、上の方にホーロー引きのほこりで汚れた表札がかかっている。普通にどこでもあるような家屋だった。住んでいる人間もまた普通の人間なのだろう。隣の住民がつまり角田久美子のことだが尋常でない行為を夫にも知られずにやっていることは知るはずもないだろう。 玄関のコンクリートのたたきの上に立って道重警部が呼び鈴を押すと中からエプロンをかけた四十才ぐらいの主婦がエプロンで手をふきながら出てきた。玄関に立っている三人の警部を見てびっくりしたように目を大きく見開いた。訪問者がセールスマンや押し売りではないということはあきらかに違うということは気がついていたはずだ。 「あの、何か」 「わたし達はこういう者です」 道重さゆみ警部が上着の内ポケットから金色の桜田門の御印のついた手帳を取り出すとその主婦はなにものをもすべて了解しているようだった。 「ちょっとお話を伺いたいことがあります。こういう人をこの辺で見たことはありませんか」 その主婦は眼鏡をかけていたのだが、眼鏡のつるに手をやって焦点を合わせた。亀井えり警部が差し出した写真をのぞき込んだ。 「どれどれ」 「だいたいの感じでいいんです」 「あります。あります。こんな感じの人が二三日前に隣の家の様子を伺っているのを見たことがあります」 道重警部と田中れいな警部はにやりと笑って額にしわが出来たくらいだった。 その写真に写っている顔は警視総監の顔だった。 ******************************************************************* カレ-屋 日本で最初に作られたという地下鉄を乗り継いで滝沢秀明は目的の場所に着いた。その地下鉄は日本がまだ技術力もなく、地下に大きなトンネルなどが掘れないという状態のときに作られたものだったからトンネルの大きさも小さく車両も小ぶりに作られているようだった。しかし東京の一番の繁華街やオフィス街の真下を走っている電車で乗り継ぎ、乗り換えの要所となっていたから人の混雑も激しかった。それと昔に作られた線路だったからその継ぎ目の部分も滑らかにつながっていないのか、鉄の車輪がその継ぎ目に上がるたびにごとんごとんと大きな振動が垂直に延びている自分自身の背骨に伝わるような気が滝沢秀明にはした。 車両内の混み方は七分くきらいだった。つり革にぶら下がっている彼は暗いコンクリート製の支柱を見ていた。さきに言ったように少し旧型の車両だったから少しのカーブでも揺れが激しく、隣の人の肩口に自分の身体が触れそうになる。 殺されて防水シートに包まれていた福沢朗の顔がうかんだ。取調室での羽鳥慎一郎の醜態、そして羽鳥慎一郎を陥れようと彼の過去を暴いていく過去の女たち、ただひとりの味方は魚住えりだけだった。魚住えりは羽鳥慎一郎にいれあげているようだが、それは何故なのだろうか。羽鳥慎一郎は魚住えりをどう見ているのだろうか。そしてそのおおもとになっている森富美という女。 滝沢秀明はまだ森富美という女を見たことがない。ふたりの男を適当にあやっている女、そのために殺人事件までおきたかも知れないのだ。つまりすべての災厄の元凶は彼女かも知れない。何という女だろう。滝沢秀明は得体の知れないものに対する怖れをいだいた。その根本にあるのは何者かの運命を変える力が彼女にはあるのではないかという不安感だった。しかし、その一方で彼女の姿を一日でもはやく見たいという不思議な感情にとらわれている自分の姿が矛盾しているような気持がした。捜査マイナス一課の仲間たち、亀井えり、道重さゆみ、田中れいなたちは彼を牽制した。捜査に私的感情が入ることは許されないと。 「確かにあの元不良少女たちは犯罪捜査のみならず、人間社会の複雑さにたいしても、数マイル、僕を先んじている。しかし、頭にくるなあ、同じ捜査員なのにあいつらは何か隠し事をしている。昔の名探偵じゃあるまいし、一同関係者を集めてシルクハットから白い鳩を取りだしたあとで、さあ、種明かしとまいりましょうかとでも言うつもりなのかい」 滝沢秀明の脳裏にはあの三人組の顔がうかんだ。滝沢秀明は揺れる電車の中で珍しく毒づいた。 ***************************************************************** 電車は駅のホームに着き、ドアが開くと滝沢はホームに降り立った。大きなアクリル板に書かれた広告が後ろからの蛍光灯の照明に照らし出されている。その光る看板の列がホームの壁のはじからはじまで続いている。彼にとってそれらはなんの意味も持っていない。別にあせって歩いているわけではなかったが、それらは目に入るだけでソれらに書いてある内容にたいしては何の興味もわかなかった。しかし時刻はちょうど十一時前後で朝起きてから胃の中のものが消化されて腸の方に運ばれてしまい空腹になる時刻だったから他の線との乗り継ぎとして共用スペースになっている広場の片隅に設置されている牛乳と菓子パンの売店の横を通り過ぎたとき冷凍機の中に入っているガラス瓶入りのコーヒー牛乳を見て何かを食べたいと感じた。地下鉄の駅から地上に出ると外はよい天気だった。駅の出入り口は小さな坂の途中にあって道の両側は石垣になっている。歩道の車道に面したほうには街路樹が植えられていて葉が陽光を浴びてきらきらと輝いている。  坂の下っていく方を見るとちょうどその駅の出入り口が紙を不自然に折り曲げたときのねじれのような位置に当たっていてそこそこに高いビル群が眺められる。その逆の坂の上がっていく方に目的の場所はあるのだ。他っているすぐそばの石垣の前の地面が剥き出しになっている場所にここら辺の地図の立て札があった。立て札と言っても太い金属製のパイプをコの字型に曲げてそのコの字の中に白く塗装した金属製の板の中に地図が書かれているもので東京都か国が税金で立てたものだろう。滝沢秀明はその地図を見て行き先を確認した。その坂の名前はなんと言うのかわからないが地元ではそれなりの呼び方があるのかも知れない。とにかく坂を登りきったところにその目的の場所はあった。ちょっと見には静かなマンションのようにも見える。赤茶色のやきもののような色をしたれんがを大きくしたようなビルだった。建物の両側には大きな木がたくさん植わっている。その一軒となりには高級マンションが建っている。その建物の一階に入ると前もって連絡していたからか、受付が関西商工会議所副会長青山平太に連絡をとった。 「刑事さんと聞いていたのでもっと年輩の人が来るんだと思っていましたよ。随分若い刑事さんですね。あはははは」 これが関西商工会議所副会長、青山制約社長、参議院議員を務めたこともある青山制約会長青山孝義の息子、青山平太の第一声だった。年齢はまだ四十半ばの関西経済界では若手経営者の代表的存在である。派手な言動と行動力には反感を持つものもいたが持ち前の明るさで心底敵になるものはいなかった。交友範囲も広く、どういう手づるからかはわからないがアメリカの有名なボップス歌手と友情を結んでいた。カントリーソングを歌っているその歌手が来日したときテレビ局の取材で彼が寿司屋のカウンターで玉子焼きをつまんでいるのを見たことがあるのを滝沢秀明は思いだしていた。そのときその歌手の横に座っていたのが目の前にいる青山平太だった。その歌手の歌で好きな歌があったから滝沢はそのことを覚えていたのだった。またいつだったか、週刊誌をぱらぱらとめくっていたら青山平太の写真が載っていてその記事によると若い頃ボート部に入っていたらしかった。その記事の内容を読むとボート部といっても競技が主眼のクラブではなく、かなりちゃらんぽらんにやっていたらしい。春の花見の頃になると桜の咲く土手でボート部の仲間と春の花見とよくしゃれこんだものだと談話として載っていた。いわゆる生来の坊ちゃん育ちでほとんど生活の苦労もなくやって来たようだった。経済界以外の知り合いも多いらしく、とくに絵描きに知り合いが多いらしく、これも何かの雑誌で読んだのだが絵も好きだが絵描きという人種が好きなのだと話している記事を読んだことがある。それがどういう意味なのかはわからないが浮き世離れをしたことが好きなのだという意味なのだろうか。 そういえば滝沢が訪ねたこの社長室の片隅にはわけのわからないアフリカの民芸品のようなものがたくさん飾られている。 それもこの若い社長ちょっと変わった傾向を示しているのだろうか。変わっているといえば彼が川柳大会というのを開いたことがあることも滝沢秀明は覚えていた。あれはちょうど七月の終わりのころ、ちょうど花火大会がさかんに開催されていた頃に催された。墨田川に船を浮かべて当世の風俗を川柳にして詠むという遊びを彼が催した。それは去年のことだったろうか。若い頃のボート遊びといい、船が好きな男だった。 「今日、伺った要件はですね」 「ちょっと待って、早坂くん、ガンガーに予約はとってあるかい 青山平太は後ろの方に控えている女性秘書の早坂遼子の方に振り返りながら尋ねた。 「社長、おひとりで十一時からの予約がとってあります」 「こう見えても忙しい身体なんでね。食事もゆっくりとできないよ。早飯早なんとか芸のうちってね、あはははは。前もって席を予約してあるんだ。早坂くん、もう一人分、ガンガーに予約を入れておいてくれないかい。インド料理なんだけど、結構、おいしいよ」 そのインド料理屋は青山平太のビルのある坂を下りきって、ちょっと行った場所にあった。店の入り口に大きくガンガーと書かれている。店の中からは独特のインド音楽が流れているのが聞こえてくる。 大会社の社長がなせる経済的余裕か、当然というべき個室が用意されていた。 「社長さん、いらっしゃい」 変なインド人が出てきてグラスについだ水を置いていった。まるで高校生の文化祭でおこなわれているちゃちな模擬店のようだったが青山平太自身は結構気に入っているようだつた。それからすぐランチセットのようなものが出てきた。 「福沢朗さんをご存知ですね」 「ええ、知っていますよ」 「どのくらい親しかったんですか」 「親しかったって、彼が一体どうしたんですか」 「死にました。今のところ何らかの事件に巻き込まれたのか、福沢さんが何か恨みを買って殺されたのかどうかということははつきりわかりません。今、福沢さんの身辺を洗っているところなんです」 「そうですか。少しも知りませんでした」 「それで福沢さんについて少し知りたいことがあるんです」 変なインド人がインド煎餅を持ってやって来た。 「しばらく呼ぶまではここに入って来ないでくれないかい。それから誰かが来てもここに入れないでくれ」 「はい、わかりました。社長さん」 「今、調べていることがあるんです。青山さんは七福神祭りというイベントを主催していますね。それの司会者を日本テレビの女子アナの中から選んでいますよね。そのことについてお聞きしたいんです」 「ええ、でもそれがどうしたというんですか。あれは関西を活気づけるためのイベントなんですが。それが殺人事件とどういう関係があるというんですか。あれはたんなるイベントですよ。ただそれだけ」 「まわりの人間にとってはあのことが何故、何であんなことが事件に結びついたのかということは結構あるんですよ。七福神祭りも主催者のア小山さんご自身はご存知ないかもしれないがいろいろと御利益があるんですよ。そこには複雑な利害関係が輻輳していることもあります。前の前の七福神祭りの司会者だった安達泉子はあれが縁で福賽建設の社長夫人におさまりましたし、あの祭りの放送のあとに年末特番が控えていますね。テレビ関係者に聞きますと来年はそっちの方の司会を務めるということが暗黙の了解になっているらしいんです。年末にやっているあの探訪福福来来という番組ですよ」 「福福来来ですか。あの番組なら私も見たことがありますよ。確かあれは日本テレビの看板番組でしたね、結構、人気のある人たちが出ていたな。僕ぐらいの人間でも距離感なく見られる内容だったけど、刑事さんはどうなの」 「いや、僕の言いたいのはあの番組が出演者にとって結構欲望を刺激する手段になっているということですよ」 滝沢秀明はカレーの中に入ったマトンの肉をスプーンで拾い上げながら上目遣いで青山平太の顔を盗み見た。 「刑事さんはまだ若いのに、犯罪について、というよりも人間社会の置く底について詳しいな」 その言葉の調子には滝沢を馬鹿にしているようなニュアンスが含まれていたが滝沢は感情を害さなかった。 「お褒めにあずかって光栄です」 「確かに欲も悪くも欲望というものが人間を犯罪に走らせるものには違いないね、いい方向に向かえばいい結果を生み出すものだが」 「福福来来という番組がそもそも今回の事件の元凶だとは僕も思っていません。ただ何らかの事件の動きを加速させるための外力になっているんだと思い、青山さんのところに伺ったわけです」 青山平太は大会社の社長らしい余裕のある物腰でしゃべり始めた。いや、目の前にいる滝沢秀明がまだ二十歳ぐらいの青年だと見くびっているからだろうか。 「むかし、僕が今の君よりももっと若かった頃、中学生の頃だったかな、エレキギターが欲しくてたまらない時期があったんだ。僕の家ではだいたいのものが置いてあったからね、家の駐車場には真っ赤なフェラーリが置いてあった。こどもの頃にはよくこっそりとその運転席に乗り込んで運転している気分になったものだよ。家の中にはほとんどないものはなかった。だからこれと言って欲しいものもなかったんだ。でもどういうわけか覚えていなかったんだけどエレキギターが欲しくて欲しくてたまらなくなった。その頃エレキギターなんてことをやるのは不良だと言われていたから家族に言っても誰もとりあってくれなかった。何しろ、祖父は明治の頃は貴族院の国会議員までやっていたからね」 「おいおい、年寄りの思い出話かよ。貴族院議員なんて言われてもなんのことかわからないよ、僕みたいなヤングには」 滝沢秀明は内心、そう思った。 「その今はなくなってしまつた祖父が僕の側にまわってくれたんだ。僕にエレキギターをかつてくれると言ったんだ。ただし、条件があって一銭もやらないから、日本一周をやってみろと言った。それだけの金を集められるならわざわざギターなんて買ってもらう必要もなかったんだけど、日本一周をやり遂げた。いい思い出だったよ。だから欲望というものもそれほど悪いものではないかもしれない。人間を動かす心の動きを欲望というんだろ」 「おいおい、意志というものも人間を動かすだろう」 滝沢秀明は心の中でつぶやいた。 「それにだね。そんなことが犯罪に結びつくなんて考えられないよ。安藤泉子さんが白馬にまたがつた王子様を射止めたといってもまた、別の問題じゃないの」 「いえ、僕は七福神祭りの効能よりも別の問題に興味があるんです。七福神祭りの司会者は日テレの女子アナがつとめることになっていますが、日テレの方の担当者は誰だかわかりますか。実際、どんな経緯で選ばれるものなのでしょうか」 「そんなことを聞かれても僕にはわからないさ。全く僕とは違う会社の中での出来事だからね。それはもちろん、二三人の候補がいて、どうしても決まらなくて、そのうちの誰かひとりに決めなければならないと日テレの方で言ってくれば僕も参加するかもしれないよ。そして最終的に決まれば僕のところに挨拶には来るよ。でも僕も忙しいから会ったり会わなかったりだよ」 青山平太のその言葉を滝沢秀明はそのまま鵜呑みには出来なかった。 青山平太が関西の財界の名うてのプレーボーイでいつもある劇団に所属している表面上は清純派でとおっているある女優の芝居のチケットを大量に買い込んでいるというのは周知の事実である。またそのチケットを大量に買い込むというのも彼と彼女のあいだに肉体的関係があるからだとか、ないとか、まことしやかな噂が流れていた、もちろん滝沢はそのことは噂でしか知らないし、事実かどうかはまだ確認したことがないがこの大会社の社長には好青年がそのまま年をとったような好印象と脂ぎった欲望が同居していた。 「でも青山さんも男なんだから、きれいな女性に会うのは楽しいんでしょう。それに才知もある女性たちばかりだから。青山さんに会ったら気の利いたお上手のひとつも言ってくれるんでしょう。僕なんか、人の家の裏口から裏口を渡り歩いて人の隠し事をあばくようなことばかりやっていますから、そんないい思いは一度も経験したことがありませんよ。四日前の犯罪現場で福沢朗氏の死体のそばに女子アナウンサーの何人かの人たちが集まってきたんですが、犯罪捜査に来たんだということを忘れるくらいに舞い上がってしまいましたよ」 滝沢はなかばひがみを込めてそう言った。 「誰がいたの。女子アナって」 「ほらほら、のって来たぞ、このすけべ親父が」 多岐さ世話は内心ほくそえんだ。 「角田久美子さん、山王丸かずえさん、古市幸子さん、みんながみんなある人物の悪口を言っていましたよ。死んだ福沢朗氏の死体を取り囲んで、ある人物の弾劾をしていたようなものでした。でも結局、魚住りえさんが助け船を出したのでいちおうその人物の嫌疑は保留ということになっているのですが」 青山平太の持っていたスプーンの動きが少し止まったように見えた。青山平太はそこにずらりと並んだ女子アナの姿を見てほくそ笑んでいるのだろうか。しかし、その口元にはゆがんだような力が加わっている。 「日テレ側との連絡は僕の大学の後輩で噛んだ明とい男がやっている。彼と僕のふたりで事実上決めると言ってよい」 「じゃあ、その人と青山平太さんのふたりの一存でほとんど決まるんですか」 「ほとんど決まると言っても、何も僕の好みで決めているわけではないよ。何となく総意を汲み上げていくという」 「総意の汲み上げかたというのはどうするんですか。それはいろいろな人の意見を聞くということですか。じゃあ、そのことでいろいろな人に会うんですね」 「まあ、そういうことになるかな。でも会うと言ってもうちの秘書さんや、もっと若い社員にあの女子アナウンサーを知っているかと聞いて、好感度をはかることぐらいだよ」 「じゃあ、今度の人選で誰がいいとか、積極的に話しかけてくる部下の人もいたりするんですね」 「それはなきにしもあらずだが。誰がみんなの弾劾に会っていたというんだい」 「非常に興味を持っているようですね」 青山平太は自分からの意思で何かを話したいようだった。重要参考人を何人も取り調べたことのある滝沢秀明はその雰囲気を感じた。 青山平太がテーブルの上にのせてある両手の指をからめた。まるで懺悔の説教僧の前にいるとが人のようだった。 こんなときには自分の刑事という職業意識を捨ててただ側のせせらぎに耳をよせる旅人の心境になればいいということを滝沢秀明は知っていた。 「その弾劾を受けていたのは羽鳥慎一郎くんじゃないのかい」 「青山さんは羽鳥慎一郎氏を知っているんですか」 滝沢秀明はもう事情聴取のこつを忘れていた。 「何も言わないところを見るとそのとおりなんだね」 青山平太とあのにやけた二枚目の羽鳥慎一郎はどうやって結びつかない。 「こんなところで彼の名前が出てくるとは思わなかったよ」 「なぜ、羽鳥慎一郎氏のことを知っているのですか」 「それに答える前に福沢朗くんのことから話そう。最初から君をあんまりびっくりさせると困るから」 青山平太の口調は真面目なのか、ふざけているのかわからなかった。 「七福神祭りの司会者だけどあの大役をつとめた女子アナにいろいろと利益があるという話は前から聞いていた、誰かの玉の輿に乗るという話は、まあ、個人的な話だから僕がとやかく言う筋合いではない。でも、そのあとにくる番組、展望福福来来の司会者に来年はなるというのは日本テレビの中でも暗黙の了解らしいね。後輩の神田明がそう言っていたよ。何しろ展望福福来来は日本テレビの中でも看板番組だからな。いわゆるあの司会者になることは日本テレビの顔になることだとやはり神田明は言っていた。それの前の段階だから七福神祭りの司会者はそれなりの第一歩ということになるんだろう。でも、いつからそうなったのか、よくわからないよ。なんとなく、そういうふうになっていったらしい。七福神祭りを始めたのは今から七年前だけどそもそもこの発案者は亡くなった福沢朗氏だったんだ。刑事さんにとっては意外な話かも知れない。でも本当なんだよ。姫神淳子さんの後援会長を僕がつとめていることは知っていますか。彼女のお芝居の千秋楽の打ち上げパーティで福沢朗氏とははじめて会ったんだよ。姫神さんに紹介されてね」 「大晦日でも正月の三が日でも最初にテレビに出てくるのは明治神宮じゃない。何か関西の方の神社が最初に出てくる方法はないかということになり、摂津の西宮神社の恵比寿様を使わせてもらって番組を作ることになったんだ。もちろん西宮神社が恵比寿様の総本山ということがあるからだよ。亡くなった福沢朗氏にはヒントを貰ったこともあり、七福神祭りの司会者を選ぶときには彼の意見も参考にさせて貰った。でも誰もそのことを知らないはずだよ福沢朗氏が誰にも言わなければという前提がつくけどね」 「じゃあ、福沢朗氏にたびたび会われたのですね。そして福沢朗氏は司会者の人選においては影響力があったと」 「僕以外の人間のなかではこのことに深く関わっていたのは彼かもしれない。刑事さん、マトンのカレーは食べ終わったみたいですね。何か頼みましよう。そうだ、シシカバーブにしましょうか。後から誰かがこの部屋に入ってくるのははなはだ困るから、シンさん、ちょっとこっちに来てくれないかい。刑事さんは結局何のためにここに来たんですか。もしかしたら、羽鳥慎一郎氏と福沢朗氏の確執を調べに来たんじゃないですか。僕にも薄々、想像はついているんですが、やっぱりそうなんでしょう。ふたりが同僚の森富美さんを奪い合っているということは聞いていました」 滝沢秀明は森富美の名前を聞くと少しその顔色が濁った。 「社長さん、もって来ましたよ。シシカバーブ」 青山平太をお得意さまにしているインド人は滝沢秀明と青山平太、それぞれの前にその皿を置いた。 「紅茶も持ってくるね」 「なるへく早く持ってきてくれ、シンさん」 対面しているふたりのしばらくの沈黙のあと、インド人は肉を香辛料と独特のソースで味付けをしたそれを持ってきた。そしてインド人は出て行った。 滝沢秀明は青山平太がもっといろいろなことを隠し立てしているだろうと思った、そしてそのことを話す気になっているだろうということも感じとっていた。いつもは親しくしているらしいインド人がいるあいだもそわそわしていたからだ。 「ふたりとも森富美さんにそんなに夢中だったんですか」 青山平太はぽつりと言った。 「それは今、調べていることです」 「そのことで変だと思ったんです」 「何がですか」 「福沢朗氏が七福神祭りの司会者に誰かを推薦してくるということは今まで一度もなかったのに今回の人選にあたっては森富美さんを選んでくれとわざわざ頼みに来たからですよ」 「今までそういうことは一度もなかったんですか」 「ええ、一度も」 そこで青山平太は少しむずかしい顔をした。それは若い少壮の経営者らしからぬ顔だった。 「じゃあ、今度のお正月には森富美さんがその司会者をつとめるのですか」 滝沢秀明は遠い世界の出来事のように感じた。華やかな世界で選ばれた人たちが演じる絵空事のような舞踏会、その中でひとりの女を取り合うふたりの男の確執、世の片隅で何足もの靴を履きつぶしながら、決してよの脚光を浴びることもない秘密捜査員の滝沢にとっては関係のない世界だった。 「ええ、それで今、少し悩んでいるのです。まあ、もうひとつの悩みに較べれば大した悩みではないんですが」 「どんなことです」 「七福神祭りの司会者は日テレだけではなく、わたしたちの企業にとっても世間の人たちの印象を決める大事な存在なんです。だから私生活も謹んでもらわなければならないんです。それで一応素行調査をさせて頂いています。当然、森富美さんについてもその手の調査をさせていただきました」 いちおうというのは言葉だけでかなり詳しく調査したのだろう。 「それでどういう結果が出たのですか」 滝沢秀明はその言葉を発するとき胸がどきどきした。 「正直言ってわたしは森富美さんに対してあまりいい印象を持っていません」 「素行調査というとどんなことを調べた・・・・・」 と途中まで聞いて滝沢秀明も心の中でことがないがあっと思った。うら若い乙女、滝沢自身は見たことがないが美しい女性らしい。素行調査といえばあれしかないだろう。 「ずばり男関係です」 滝沢秀明は何か肩の荷を下ろしたようなほっとした気持になった。 「私があまりいい印象を持っていないというのは、まだ結婚前の若い女性ですから結婚を前提につき合っている男性がいるのはおかしくないのですが・・・・・・・。どうもそうでない男性たちとつき合っているようなのです」 *************************************************** 「さっき、青山さんも亡くなった福沢朗氏や羽鳥慎一郎氏の名前を挙げられましたよね。あのふたりではないのですか」 「違います」 かまをかけてその男たちの名前をひきだそうにも滝沢秀明にはその準備があまりにも乏しかった。何しろ写真でさえ、森富美の姿を見たことがないのだから。 「その人たちの名前を教えて頂けますか」 「いえ、これは教えることができません。わたしの会社は探偵事務所ではないのですから」 福沢朗と羽鳥慎一郎をいいように操っていた女、その他にもそんな男たちがいたのか。 滝沢秀明の森富美に対する印象もますますある方向で固まっていった。 「わたしの調べた印象ではどうもその人物たちも森富美さんにいいように、彼女の利益になるように利用されているみたいなんです。それで彼女を七福神祭りの司会者に選ぼうかどうかと迷っているところなんです。男というものも、あまり鼻の下を伸ばすとろくなことがないという証のようなものですな。刑事さんも森富美さんに会ったことがあるんですか」 「もちろん」 滝沢秀明は見栄を張って答えた。 「確かに美人には違いないが・・・・」 青山平太は何かを言おうとしたが滝沢秀明が複雑な表情をしているのを感じて口をつぐんだ。 「とにかく、福沢氏が森富美さんを強力に推してきたんです。わたしには何故だかわからなかったんですが、福沢朗氏は森富美さんを狙っていたんですね」 「森富美さんがうまく操っていたというのは日テレの中の人物なのですか」 「そのことについても答えられません」 「じゃあ、たぶん、日テレの中の人間なんですね。僕が確実にそんな人間の中のひとりの人物の名前を知っていますよ。その人物のことで青山さんにお話をうかがいに上がったんですが、同じ、アナウンサー室の同僚で羽鳥慎一郎という人物です。彼こそが他の女子アナからいっせいに弾劾されていた人物なんです」 滝沢の言葉を聞いた青山平太は一瞬複雑な表情をした。そしてそのあと人間の感情を越えた諦念にも似た崇高な表情が一瞬のあいだだけだったがよぎった。 「そうでしたか。福沢朗氏と羽鳥慎一郎が森富美さんを奪い合って確執を演じていたんですか」 青山平太は心の中で深いため息をついているようだった。 「実は羽鳥慎一郎も森富美さんを今度の七福神祭りの司会者にするように僕のところに頼みにきたんですよ。そのうえ僕が頼み込んだから彼女が七福神祭りの司会者に選ばれたんだと彼女に話してくれとまで頼まれたのですよ。わかっています。わかっていますよ。なぜ、なんの面識もない僕のところまでわさわざやって来て、羽鳥慎一郎は僕にそんなたのみごとをするのかということですね。じつは、彼は僕の身内なんです」 この一言には滝沢秀明も驚いた。 「びっくりしないでください。これは身内の恥なんですが。刑事さん、このことは誰にも口外しないと約束してくれますか。このことは誰にも知られたくないのです」 「もちろんです。僕は週刊誌ネタを探しているわけではないんですから」 「その言葉を聞いて安心しました。地位が高いと総会屋だとか、なんだとか、いろいろとゆすりたかりをしてくる人間も多いのでね。刑事さんにはすぐには信じてもらえないかも知れませんが、羽鳥慎一郎は実は僕の腹違いの弟なんです。刑事さんは何年生まれですか」 「一九八二年です」 「じゃ、刑事さんは知らないかも知れないが、常田夏美というジャズ歌手を知っていますか。今はアメリカにいるんですが、その人が羽鳥慎一郎の本当の母親なんです。父親の方は私の父親の青山孝義です。二十数年も昔のことですからそのあいだの経緯について詳しいことは僕にはわかりません。とにかく彼は父と常田夏美のあいだに生まれた僕の腹違いの弟なんです。羽鳥慎一郎もそのことを知っています。だから僕のところに来たんだと思います」 あのにやけた二枚目の羽鳥慎一郎にはそんな秘密があったのか。そして福沢朗と羽鳥慎一郎の森富美を巡る確執も本当だった。そう、古市幸子の言ったことは本当だったのだ。そしてさらに思いがけない収穫を滝沢秀明はえることが出来た。森富美が適当に振り回している人物が福沢朗と羽鳥慎一郎のほかにもいるということだ。青山平太は口をにごして言わなかったが、どうやら、日テレの内部にいるらしい。これで森富美という女が相当な女狐だということははっきりした。滝沢秀明はなぜかほっとした気持になった。 **************************************************************** 青山平太のビルでの捜査を終わって、滝沢秀明は満足した。一回の捜査でこんなにうまく裏をとれることはめったにないのだ。だいたいいつも骨折り損のくたびれもうけということが多いから、福沢朗、羽鳥慎一郎、森富美らの三人についてこれらの貴重な証言がとられるとは思ってもみなかった。これで彼らの人間関係の一端はとらえることができた。 たぶん、亀井えり警部たちの元に戻っても彼らに対して大きな顔をしていられるだろう。 今度のやまとは関係がないが彼の関わった事件の関係者が滝沢に会いたいとい約束があった。その時間まで一時間ほどの余裕があった。つい一週間前に有名なマジシャンが来日して大阪城を消すという手品に興味を持っていたので、そのことが書いてある雑誌を日本橋の丸善に捜しに行こうと思った。手品と書いたがその大掛かりな仕掛けから今は手品とはいわないようである。イリューシン、それは昔のソ連の飛行機の設計者の名前か、滝沢はなぜそんな名前を覚えていたかというとスパイ撮影用の飛行機でそんな名前、イリューシン五型とか七型とかそんなものがニュースで取り上げられたことがあるような気がした。今は幻影とか幻覚を意味するイリュージョン、そんな名前で呼ばれる大掛かりな手品について書かれた雑誌を日本橋の丸善で買って帰ろうと思った。 数寄屋橋の交差点に出ると相変わらず人通りは多かった。昔、ここにあった日劇のビルは今はここにない。日劇ミュージックホールなどという建物があったのだ。そこでロカビリーと呼ばれたエルビス・ブレスリーをまねたロックンロ「ルの殿堂があって若い女の子のメッカとなっていたらしいが、もちろん滝沢ひで開きがそんなことほ知るよしもない。数寄屋橋から歌舞伎座の方へ行く道をぶらぶらと歩いた。三越前の十字路で左に曲がって日本橋り方に歩いて行くつもりだった。 おおきな時計のある宝石屋の大きなガラス窓をはめ込んだショーウィンドーの前に来るとガラス窓の向こうの店の中では店の中の人間が大きなクリーム色の布をつかつて何かを゜表現しているデコレーションを作っていた。こんな一等地の人通りの多いところにショーウィンドーを所有しているからだろうか。普通の店のだったら自分の店の商品の宣伝用という明確な目的があるのだろうが、ここの場合、その要素が希薄なような気がした。何というか町並みにあわせるために飾り付けをしているような印象を受けた。滝沢秀明はこの宝石屋の大時計が大好きだった。むかし読んだ江戸川乱歩などの冒険探偵小説などに出てくる場面を想像できるのはこの大時計がまさにぴったりだった。もちろん時計だけでそのイメージを作っているのではなく、その大時計をはめこんである宝石屋の建築様式のレトロな感じと相まって、この印象を与えているのだろうことは想像がつく。滝沢ひで開きの思い出の中では小学校の正面玄関の上の方にもこんな壁時計がかけられていた。それがいつのまにかなくなって大きな時計というと講演に置いてある時計ぐらいしかなくなってしまった。銭湯の看板絵のようなものである。きっと工業技術の進歩により、時計が大量に安く供給されるようになったからだろう。 むかしは小学校の正面に飾られていた壁時計のように宝石屋の正面についている時計を見てひとびとはみんな時刻を知ったのだろうか。 もうひとつ好きなものは森永の広告塔だった。それは今はなくなっているのだけれど、ふた昔前にはよく映画の背景に使われていた。とくに空想科学小説を映画化した宇宙ヒーローものの冒険活劇では空を飛ぶヒーローがその広告塔を背景にして重力から開放されて大空を飛んでいた。そこにはもうひとつ建物が出てきた。道を隔てて向こうに建っている、ピサの斜塔のようなかたちをした円筒形の建物で斜めに建ってはいなかったが、周りの壁面がすべてガラス張りになってい。ガラスを通して中の店舗が見られるようになっている。滝沢秀明は大きなショーウィンドーの前に立って、その建物を見ている。三愛というアパレル関係の会社のビルだということを彼は知っていた。その社長はアイデア社長で銀座の真ん中にビルを建てるのだから人目について大きな宣伝効果のあるビルを建てようということになり、それが現実化した。そし現在もそのビルは銀座の名物になっている。滝沢秀明が信号待ちをしているあいだ、そのビルのほうを見ていたのは、そのビルに興味があったからではない、彼の視線のさらにさきの空中に向けられていた。そのガラス張りの向こうの空にアドバルーンがうかんでいた、アドバルーンなど最近はほとんど見たことがない。 珍しいと思った。アドバルーンの側面には近日中に来日する有名なマジシャンの公演の宣伝文が書かれていた。三愛のビルの横の建物には電光表示板が設置されていて今日のニュースが流れている。FRB連坊準備制度会議長が公邸歩合の引き下げをほのめかしたというようなニュースが電光掲示板の上を走っていた。 「滝沢刑事じゃありませんか、ここで誰かを待っているんですか」 *********************************************** 急に声をかけられて滝沢秀明は驚いて振り返った。決して銀座などでは会うはずもない人物がそこに立っていた。振り返った滝沢秀明を見てにこにこしている。 「十和田湖町から、いつ出てきたんですか」 「ええ、ちょっと用事がありまして、いつでしたか、大変お世話になりました」 「でも、こんなところで福留さんに会うとは思いませんでしたよ」 十和田湖畔で温泉旅館を経営しながら和井内貞行の事跡の継承をして郷土史家ながらテレビ局の魂胆で埋蔵金のオーソリティに仕立て上げられようとしている福留がそこに立っていた。警視庁マイナス一課の秘密捜査員の身分から離れて十和田八幡平国立公園の中を奥入瀬川の軽登山を試みた滝沢だったが、山を甘く見て、危うく遭難しかけるところだった。それを助けてくれたのが山に山菜採りに来てた福留だった。滝沢秀明は福留の旅館にしばらく逗留したのだが、その間にある事件が起こった。その事件は福留の立場をきわめて危ういものにした。その事件を解決したのが滝沢秀明だった。ふだん捜査マイナス一課で扱っている事件にくらべれば赤子の手をひねるくらい簡単な事件だった。しかし、それによって福留は滝沢秀明に全幅の信頼を置くことになった。それは二年前のことだった。 「そうだ、そう言えば福留さんはテレビに出ていたでしょう」 滝沢秀明はある日埋蔵金のオーソナリティーとしている人物をブラウン管の中でみつけて、それが知っている人物だったのでびっくりした。 「ええ、恥ずかしながら、いつの間にか、埋蔵金の研究者ということになってしまったんです」 「その関係で東京に出てきたんですか」 「そうなんです」 「東京にいるということはまたテレビに出る予定があるということですか」 「ええ、そうなんです」 福留は少し恥ずかしそうに笑った。 「すっかりと埋蔵金探しの人間と思われているのです」 「十和田湖町にいたとき、何か埋蔵金のことでお話を聞いたことがあったと思いましたが」 「埋蔵金のことでしたっけ」 福留はそのときのことを思い出そうとしているようだった。 「ああ、ある人物のことでしたね。その人のことをしらべているうちに埋蔵金の端緒をつかんだのです」 すると福留はうっかりと口を滑らしたという顔をしたが、滝沢秀明はそのことに気づいたので言葉をついだ。 「心配しないでください。このことは誰にも口外しませんよ」 「それで、これからこの資料を持って遺伝古代史研究の第一人者の平琴さんのところに行くところなんです」 そう言って福留は自分の持っているかばんを心配そうに抱えた。かばんの中にはよほど大事なものが入っていると見える。滝沢ひで開きはその心配そうな表情から一緒について行こうかと言いそうになった。 遺伝古代史研究の平琴と言えば滝沢秀明聞いたことがあるようなないような名前だったが、雑誌でその遺伝古代史研究という名称は聞いたことがある。DNA鑑定から古代史を研究するという読んで字のごとしの研究方法だった。 何を不安に感じているのか、福留の表情には少し不安な様子がありありとみえる。その元凶は福留が左脇にかかえているかばんの中身が心配なのかもしれない。 「こんなところで話していてもなんですから」 福留は急いでいるようだった。 「また、いつか、ゆっくりとお話しましょう」 福留はそそくさと去って行った。その後ろ姿は不安そうだった。 *************************************************
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