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「おはようございます!」
俺は今夜が楽しみで仕方なく、いつにも増して元気に挨拶をしながら宿泊しているホテルのロビーを抜けた。
「宇治さん、おはようございます!」
すると、皆も負けんばかりに大きな声で明るく挨拶を返してくれた。スペインでの撮影が始まって早1週間が過ぎ、皆の顔つきは初めに比べて緊張感が良く抜けて、とても穏やかになってきていた。
勿論、その中には鮎川の姿もあった。俺は鮎川に「おはよう」と合図のようなものをアイコンタクトで送ると、それに気づいた彼女はぺこりと軽い会釈をした後、狡くも悪戯っぽくウインクで挨拶を返してきた。
今夜のことは二人だけの秘密。それを確かめ合うかのような互いの仕草。それだけでも嬉しくて、俺は一気にフワフワと浮かれてしまった。
しかし、そんな俺をよそに彼女は寝起きで髪がボサボサになっている松川といつの間にかじゃれ合いをし始めていた。
松川の手に、鮎川の手が自然に触れる。初めて会った時、俺に触れられて咄嗟に避けた彼女の手が…
心臓のどこか奥深くでメキメキ、と醜い音が聞こえてくるような気がした。
知っている。
この感情は間違いなく「嫉妬」だ。
「樹?イ~ツ~キってば!!」
ふと我に返ったのは、実和監督の俺を呼ぶ声が耳に入ってからだ。もう何度も俺のことを呼んでいたらしく、監督にペチンとデコピンを一発見舞われた。
「痛っ!!」
「着~替~え!あとメイク行って!もう、なにぼさっとしてんの!今日は撮影さっさと終わらせる日なんだからしっかりしてよ」
久しぶりに監督のお叱りを受けた。
「すみません…考え事してまして」
「はは~ん」
なるほどね、と意味ありげにニヤリと笑みを浮かべると、監督は俺の腕を引き皆から少し離れたところへと連れ出した。
「ちょ、監督…今度は何ですか…」
俺の言葉を全く耳に入れず、監督は俺の耳元にスッと顔を寄せた。
「…あんた、惚れたね?」
「っ…!!」
図星だった。
俺は声にならない声を漏らし、紅潮し火照り始める頬を必死に両手で冷ましにかかった。
「ふ~ん、やっぱりね。私の思惑通り」
「え…?思惑通りって…どういうことですか」
俺はさらに近づいてくる監督からパッと離れて、じっと監督の目を見つめた。
「そのままの意味よ。こうなることを予想して、キャストを組んだの」
「で、でも…俺には妻がいるって事は…」
「勿論、承知の上よ」
「じゃあなんで…!」
俺はますます監督の考えていることがわからず、ただ問い続けた。
俺は結婚しているということを、公には知らせていない。しかし、長年お世話になっている稲山監督親子にだけは、その事実をきっちりと伝えていたのだ。
監督は急に真面目な顔つきになった。
「今は教えない。…とにかく、作品上二人は恋人役なんだから役に徹して。いい?決して公私混同だけはしないで」
「…わかりました」
俺が項垂れ返事をすると、監督はすぐにいつもの明るい表情を取り戻した。
「よし!じゃあ、もう絶対に皆の前であんな顔しないでよ?役にも影響出ちゃうしさ」
「やっぱり顔に出ちゃってました…?」
恐る恐る聞くと、聞くまでもない、と監督はゲラゲラ笑った。
「恋心、嫉妬、それから憎悪…役者たる者、この三つの感情に踊らされてはダメよ。特に樹、あんたは本当に顔に出やすいんだから」
「うっ…気を付けます…」
「はーい、それじゃあ着替えとメイク行ってらっしゃい!…あ、あとそれから…」
意味深に一息ためると、監督は色っぽく口角を片方グイッと上げた。
「頑張って、色々と」
その一言を聞いて俺は更に照れくさくなり、逃げるようにその場を走り去った。後ろから、応援してるわよ~!と陽気な監督の声が聞こえてきたのも構わずに。
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