Episode 2

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 ホテルに戻ってシャワーを浴び、着る服に30分も迷っているうちにあっという間に約束の時間が近づいてきていた。  (はや)る気持ちを抑えきれなかった俺は、危うく靴も履かずに宿泊している部屋から飛び出るところだった。慌てて靴を履き、手に持っていたジャケットを引っ掛け、全身鏡でこれでもかというほどしっかりと身なりを整えて部屋から退室した。  待ち合わせ時間まであと20分。ここを出るには少し早いような気もする。しかし、鮎川からは何故か待ち合わせは現地がいいと伝えられていた。  ――階数は違えど、同じホテルに宿泊しているのに。  どうしてだろうか。本当に些細な事ではあるが気になった。  ほんの少しモヤモヤとした気持ちを抱えながらホテルから外に出ると、先程まで紅に染まっていた空がいつの間にか群青色へと移り替わっていた。  夜空に散りばめられた星々をぼうっと眺め、俺は大きく息を吸い込んだ。鮎川とは数週間も仕事で毎日一緒に過ごしてはいるが、その期間中に全くの二人きり、というようなシチュエーションはほとんど無かった為か、俺はかなり緊張していた。  その時、無性に煙草が吸いたくなった。欲のままポケットから携帯灰皿を取り出し、つい先ほど買ったばかりの煙草に手を掛けたが、やっぱり今吸うのは良くないという思いが欲を打ち消した。  鮎川は煙草の匂いや煙が苦手のようで、撮影の休憩中に喫煙所の前をただ通り過ぎるだけであっても煙たそうに顔をしかめ、そそくさと立ち去る姿を見たことが幾度かあったのだ。  俺は、普段持ち歩いているものとは別のまだ煙草が沢山入った紙製のシガレットケースをくしゃっと握りつぶし、近くにあったペール缶のゴミ箱に投げ捨てた。  ――ヘビースモーカーで煙草を我慢するのも苦手な俺が、ここまで来たか…  鼻で自分を軽く嘲笑い、俺は約束しているサングリアバーに向かうため足を進めた。  煉瓦(れんが)で造られた小洒落た橋を渡り、川沿いに並ぶいかにもスペインらしいゴシックな建物に沿ってプラプラとしばらく歩いていると、鮎川から電話がかかってきた。 「あっ!もしもし、こちら鮎川の携帯電話でございます。…宇治さんの携帯でお間違いありませんでしょうか?」  電話越しの鮎川の口調が普段のものとは比べ物にならないほど堅っ苦しく、俺は吹き出した。 「ふっ…ふふふ…左様でございます、宇治の携帯でお間違いありません」  それが堪らなく面白かったので、すかさず真似をして返すと、電話の向こうからいつもの明るい彼女の笑い声が聞こえてきた。  その声色が一瞬で穏やかになったのが手に取るように分かった。 「よかった~!初めて電話かけるから、ちょっと緊張しちゃって。…あの、もうすぐ着くので連絡を入れておこうかなと思いまして…」 「わざわざありがとう、俺ももうすぐ着くよ。…今どの辺りにいる?」  ――『河川の近くです』  その声が電話口から、そして近くから二重に重なって聞こえた。  咄嗟に辺りを見渡すと、傍で走っている道路を挟んだ向こう側の歩道に、長く艶やかな髪をハーフアップに纏め、イブニングドレスのような美しい深緑のワンピースの上からセピア色のストールを身にまとう鮎川の姿が見えた。  そのあまりの美しさに俺は持っていた携帯電話を片手から落っことしそうになったが、グッと固唾を飲み込み何とか持ちこたえ鮎川の方へ大きく手を振った。 「アユちゃん、こっちこっち」  そう呼びかけ、その声でようやく俺の姿に気が付いた鮎川はパァッと明るい表情を顔に浮かべ、俺に合わせてヒラヒラと何度も手を振ってきた。  ――この時、この瞬間の彼女の―きっとこれ以上も以下もないだろう―最高な笑顔を、俺は一生忘れたくないと心の底から思った。
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