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鮎川と落ち合って程無くして目的地であるバーにたどり着いた。どうやらそのバーは地下にあるようで、そこに続く階段を赤、緑、青と色とりどりのネオンライトが鮮やかに彩っていた。
「わあ…とても素敵な場所ですね…!」
「ほんと、綺麗だね」
階段を降りながら俺の後ろを歩く彼女の方へ振り返ると、鮎川は右、左と首を動かし、うっとりと周りを見回していた。最後の一段を下り終えると、木製の、しかしガッチリとした扉が自動で開かれ、中へ俺たちを迎え入れた。
バーテンに案内され、俺たちはバーカウンターの席に隣同士肩を並べて座った。少しでも近づけば今にも腕と腕が当たってしまいそうなほどに、その距離は近い。
「宇治さん、何飲まれます?」
しかし、そんなことなどお構いなしに鮎川は平然とメニューを広げ、「何て書いてるか全然わかんない!」と見慣れないスペイン語と格闘しては楽しそうに笑い、俺の方にスーッと身を寄せ近づいてくる。
彼女からふんわりとレモングラスの香水の良い香りが漂い、俺の鼻先を擽った。
「と…とりあえず赤ワインベースのサングリアにしようかな…」
「いいですね、じゃあ私もそれにしよっと」
そう言うと、鮎川はカタコトの英語でエクスキューズミー!とカウンター越しにいたバーテンを呼び、注文をしてくれた。彼女の英語能力は、聞いている限りでは皆無に等しかったが、彼女の少し大袈裟なジェスチャーと持ち前の明るさで現地の人との会話がすんなりと成立してしまっていた。
きっとそんな人柄なのだろう、俺は彼女のそういう所にすっかり惹かれていた。
間もなく注文した果実酒が届き、カチンと二人でグラスを重ねた。グラスを傾け美味しそうに酒をグイグイと流し込む鮎川を横目に、甘く、そして少しほろ苦い酒の味を俺はじっくりと噛みしめていた。
他愛もない話をしながら、酒を飲み進めてもう4杯目になろうかという頃だった。
「ねえ、宇治さん」
ほろ酔い気味のとろんとした鮎川の瞳が俺の目を真っ直ぐに見つめる。どうしたの、と聞くと彼女はふふ、と笑い俺から顔を背け正面のカウンターの方へ視線を移した。
「宇治さんって、やっぱり彼女とかいるんですか?」
サイドの髪で横顔が覆われ表情こそは見えなかったが、リップグロスで真っ赤に染まった彼女の唇は固く一文字に結ばれているのがわかった。
俺はぎくりとした。俺には彼女どころか配偶者がいる。でも、もしかすると鮎川は俺に少しでも気があるのだろうか…
「どうしてそんなこと聞くの」
そんな淡い期待を抱きつつ、俺はいつもの狡い狡い彼女に少しでも仕返してやろうと少し冷ための返事を返す。
そうすると、彼女は俺に顔を向けないまま再び静かに笑った。
「だって、宇治さんのような素敵な男性って絶対彼女いるじゃないですか」
「素敵って…またまた。…でも、本当にそう思う?」
「うん。絶対いるね」
少しずつ酔いが回ってきているのか、彼女の口調は徐々に砕けたものになっていく。それが、今まで見たことのない新しい彼女を発見できたように思えて俺はとてつもなく嬉しかった。
そして、しばらく心地の良い沈黙が流れた。バーに流れるジャズピアノの音楽がすん、と心の中に染み入るように入ってくる。隣の彼女を見ると、同じように快さそうに目を閉じ音楽に合わせて、ゆらゆらと身体を揺らしていた。
――「いないよ、彼女なんて」
俺は無意識に口走っていた。すると鮎川はほんの少し驚いたように目を見開いたが、何も言わずにグラスを手に取り、残りの酒を一気に飲み干した。
これが俺が初めて彼女に吐いた、大きな嘘だった。
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