Episode 2

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「鳴海!!」  俺は、何事もなかったかのように食器を洗い続ける鳴海の手をグイッと引っ張った。 「お前がやったのか」  怖気づく鳴海に構わず、腕を握る手に力を込める。徐々に怒りが込みあがってきた俺は、唇がちぎれてしまうのではないかというほど、グッと強く下唇を噛んだ。 「ごめんなさい…」  鳴海は自分がやった事をすんなりと認め、泣きながら謝ってきた。 「…大体、どうしてこの家にぼんじりがいるんだよ!」  ぼんじりは結婚する前から飼っている俺の愛犬だ。  しかし、夫婦で暮らすこの家で飼っている訳ではない。俺が台本を読んだり、舞台や映画の芝居の稽古をすることを目的に建てた一軒家にて、住み込みで働いてくれているマネージャーにほとんど世話をしてもらっている。ぼんじりが鳴海になかなか懐かず、そのことで毎日鳴海と揉めてしまうからだ。 「長い間、ぼんじりに顔見せてなかったでしょ?…だから、お互いに寂しい思いをしてるんじゃないかと思って、マネージャーさんに連れてきてもらったの」 「その心遣いはとても有難い。でも自分の言う事を聞かないからと言って、ぼんじりをあんな風に閉じ込めたりするのは有り得ない。しかも、押し入れにぼんじりがいる事を知っていて知らないふりまでしただろ」 「本当にごめんなさい…そこまでするつもりはなかったんだけど…」 「…もういい。台本も覚えないといけないし、ぼんじりを連れてあっちに行く」  食事を皿に残したまま片づけ、待ってと泣き(すが)る鳴海をよそに別宅へ向かう準備を始めた。  人懐っこいぼんじりが、あそこまで鳴海に懐かないのには何かわけがあるのだろう、と昔から思っていた。その理由が今日になって(ようや)く分かったような気がした。  どうかしてる。気が付かなかった俺も悪いが、あまりにも酷すぎる…  俺は本気で怒っていた。普段は喧嘩をしても別邸へ行くことなどほとんど無かった。しかし、今回は違う。  これはある意味、好機(チャンス)なのではないかという考えが脳裏に(よぎ)ってしまったのだ。  荷物一式をまとめ終え、俺は鳴海をどうにか振りほどいて一人書斎へと向かった。そして、机に置きっぱなしにしていた鮎川からもらった押し花を手に取った。向こうに着いたら一番にこれを飾ろう。そう思いながら、大切にそっと鞄に詰めた。 「鳴海、俺は今日からしばらく向こうで暮らす。そっとしておいてほしい、だからその間は会いに来ないで」 「そんな…嫌です…!!ごめんなさい…今回のことは私が悪かった…だから…」 「…忙しいんだ。なるべく連絡も控えてほしい」 「イツ…!!」  玄関で靴を履き、車のカギを取ってぼんじりを腕に抱くと、鳴海がフラフラと俺に近づき肩に頬を寄せてきた。 「帰ってくるよね…?すぐに帰ってくるでしょ?」  いつしか体験したような見送りの光景だった。思い返すと、それは今回の映画の顔合わせに出かける時の見送りの場面だった。  ただ、あの日と変わってしまったのは、あの時の鳴海と今の鳴海の涙の訳と、俺の気持ちそのものだった。 「…ごめん、行ってくる」  鳴海の問いには答えず、俺はそっと鳴海から離れた。 「待って…待ってよ…行かないで!!私から離れていかないでよ…寂しいの。お願い…分かってよぉ…」  耳の奥まで響くほどの痛切な鳴海の嗚咽と少しの罪悪感を残し、俺は本宅を後にした。  当分、きっとここに戻ることは無いだろう。  そう、心の片隅で思いながら――――
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