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そこまで書いたところで俺はペンを休め、マネージャーが別宅へ来るのをただ待った。
備忘録を見返し、鮎川と出会ってまだたったの2ヶ月しか経過していないという事実に驚く。数字にしてみれば、それはかなり短い日数だが、俺にとってはこの2ヶ月という月日がとてつもなく長く感じた。
――色々あったな。
本当に色々あった。俺がここまで本気になった女性は、鮎川が生まれて初めてだったと言っても過言ではないし、失恋をしてこんなにも深く傷心したことなんて今までに一度たりとも無かった。
…いやいや、所帯持ちが何を言っているんだ。そもそも初めから俺は、今更恋なんてしても良い身分じゃなかっただろう。
もしかするとこの玉砕は、そんなだらしない俺に対する戒めなのかもしれない。
泣き尽くした事による酸欠の所為か、頭がガンガンとひどく痛んだ。それに伴い、ぼうっと少し朦朧とし始める意識の中、ふと口恋しくなった俺は煙草を一本吹かした。口の中に、じわりと渋味が広がる。
苦い。
日頃から嗜みすっかり舌に馴染んでいるはずの煙草が、今日はやけに苦く感じた。
一人寂しく感傷に浸っていると、別宅のカギが突然ガチャリと音を立てて開いた。
「宇治さん!!大丈夫ですか!?」
渡しているスペアキーを使って家に入ってきたマネージャーの平塚が、心配そうにリビングに駆け込んできた。
「外から見た時、電気点いてなかったのでびっくりしましたよ…!」
「ああ、悪いな。もう大丈夫だ…」
「でも宇治さん、めちゃくちゃ顔色悪いですよ!!少しお休みになった方が…」
「いや、俺は今から本宅へ帰るよ。…またぼんじりのこと頼むな」
「そ、それは構いませんけど…1人で帰られるおつもりですか!?」
「うん」
「ダメですよ!!今の状態じゃ運転は…」
「大丈夫だって。…こっちの家の事、よろしくな」
頑なに俺を放そうとせず、いつまでも引っ付いて回る平塚をなんとか振り切り、フラフラとした足取りで玄関まで辿り着いた。靴を履こうと靴箱の方へ目をやると、全身鏡の隣に大切に飾ってある、鮎川からもらった白薔薇の押し花の額が目に入った。
――今はもう、必要ないか…
ほんの一瞬頭を掠めた「持ち帰ろう」という思考を、心を鬼にしてブンブンと強く頭を振ってかき消し、額を別宅に残したまま、俺は車のカギだけを手に玄関を飛び出した。
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