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やがて撮影開始時刻になり、監督がスタジオへやってきた。
監督は俺たちの様子を察してか、室内に入ってくるなり撮影を30分後に始めると周りに伝え始めた。
俺に縋りつき、フルフルと身体を小刻みに震わせている鮎川を支えながら監督の方を見やると、監督はこちらにグーサインを送ってきた。
その様子を確認した俺は強く頷き、再び鮎川の方へ視線を戻した。
「アユちゃん、こっちへ」
俺はそっと鮎川の手を取り、人目が気にならないスタジオの隅へ彼女を連れた。
暫くして鮎川は泣き止み、それから俺に今まで何があったのかを全て打ち明けてくれた。
鮎川の話によると、松川とは3ヶ月ほど前から本当に交際をしているそうだが、それは鮎川の意思とは全く無関係での付き合いのようだ。スペインの撮影で、一緒に現地の舞台を見に行ったことをきっかけにそうなったらしい。
初めて松川から交際を申し込まれた際、今は多忙だからそのようなことは考えていない、と鮎川ははっきりと断った。だが、諦めの悪い松川は何度も何度も懲りずにしつこく迫った。そして信じられないことに、しまいにはどうしても付き合わないのなら殺してやる、とまで脅してきたそうだ。
「その時のあの人の目が本当に怖くて…断りきれなかったんです」
「まさかそんなことが……話してくれてありがとう。…ごめんな、俺はてっきりアユちゃんが松川とは上手くいってるものかと…」
「いえ、そう思われても全然不思議じゃないはずです…だって私」
そこまで言うと、鮎川の瞳から再び涙がブワッと溢れ出した。
俺は鮎川の肩を支え、話の先を待った。
「…演技を、していたんです。ずっとずっと―――」
「演技?」
「はい。…私、本当はあの人のことなんてこれっぽっちも好きじゃない。私のことを縛りつけて、それでも思い通りにならなかったら八つ当たりして、罵倒して…ひどい時は暴力に力を任せて…!!」
そこまで言い終わると、鮎川はほら、と履いていたロングスカートを膝小僧の辺りまで捲り上げた。スカートの中からは、数カ所ほど痣ができた痛々しい両脚が姿を現した。
「ッ…!?これは酷い…なんてことだ…!!」
俺は怒りに震えていた。
鮎川の怒りや憤りはこれ以上のものだろう。鮎川は唇が噛みちぎれてしまいそうなほど、下唇を強く噛み締めていた。俺は思いがけない事実に驚きを隠せず、それ以上何も言葉が出てこなかった。
鮎川は続けた。
「何度も何度も叩かれた…辛かった。苦しかった。それでも、演技をしなければ…あの人を‘愛’さなければ、私は本当に…殺されてしまう…」
「そんな…馬鹿な!!いくら何でもアイツがそこまで…!!」
「しますよ!!あの人はおかしい…狂ってます!!」
ほとんど悲鳴に近い声をあげた鮎川の目は本物だった。
その瞳の奥に、怯えや恐怖の色が浮かんでいた。
「…それに、宇治さんに近づくなって言ったのもあの人なんです」
鮎川は静かに呟くと、両手で顔を多い、力無くヘナヘナと床に座り込んでしまった。
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