1人が本棚に入れています
本棚に追加
終わりの始まり
「龍之進…龍之進」
遠く、遠く、ふわふわとした、心地よい囁きだ。
夢なのか、現実なのか。
声のする方に目をやる。空気が揺らいでいる、緩やかな渦をなしながら。
渦はゆっくりと龍之進へと近づいてくる。
靄が大蛇のように纏わりつき、離れない。
全身を覆い尽くす。
ガクン。
後頭部が抜け落ちていく感じがした。
ズトーン。
谷底に落ちていく感覚に襲われた。
漆黒の闇に。
薄皮が剥がれるように落ちていく。
ふわっと体が浮いた、真綿の雲に包まれるように。
次の瞬間、強烈な閃光が音もなく目を覆った。白い閃光は、急速に渦の中心に吸い込まれ、朝陽が水面を照らす如く、優しく白い世界を形成し始めた。
光の球体が現れた。
核に人影が。
周りを後光が包み込んでいく。
「なんと、高貴で穏やかなんだろう」
龍之進は、その心地よさに酔いしれた。
何が起きているのか…。
「龍之進…龍之進」
誰かに呼ばれている。目を覚まさなければ。
重い瞼を押し開けると、見知らぬ僧侶らしき者が居た。
目を凝らしても、輪郭のすべてが霞んで見えた。
「我は、大言厳法師と申す」
なんだこの包容力、安心感は。落ち着いて気づいたことがある。大言厳法師と名乗る人物は、宙に浮いている。
この違和感のなさは何だ?
龍之進は、摩訶不思議な感覚に包まれたまま、彼の話に聞き入った。
「そなたにはまだ理解できぬであろうが、足元を見るがよい」
今まで気づきもしなかったが、龍之進も浮いていた。その足元には…
はぁぁぁぁああ…
ミイラ化した男が、背を大木に寄りかかり、朽ち果てていた。
「驚くは、仕方あるまい。それが、そなたの今の姿じゃ」
「わ・わ・わたしは…そんな…まさか…死んでいるというのか?」
「そうじゃ、受け入れがたしも無理はない」
「信じられない、いや信じたくない。ほら、今、こうしてあなたと…」
そう、龍之進は、紛れもなく宙に浮いている。ということは…はぁぁぁ、これが現実なのか?自覚もなく、息絶えたということか?
「酷なようだが、その亡骸に触れてみよ」
そう言われても…。法師が小声で何かを唱えた。すると恐怖心や躊躇いが消しさられた。
手を近づけてみた。手が震える感触に反して、空気を掴むように亡骸を摺り抜けてた。木も土も葉も、全てに感触がない。
認めざるを得なかった。
肉体を失い、霊的存在になったことを。
これが私の人生か、儚いものだ。
変わり果てた亡骸を見ていると失望の笑いが、くすくすと込み上げてきた。
虚しい、虚し過ぎるではないか…。
暫し呆然とし、動けなかった。
如何程時が経ったのか、要約、自らの立場を受けざるを得なかった。
「さて、そなた、どうなさるかな」
「どうなさるって、どうにもならない。それとも、あなたがどうにかして下さるのか?」
龍之進は、行き場のない自らの存在に、少々苛立ちをみせていた。
「そなたが望むなら、選択肢はある」
「選択肢?」
「このまま霊界に赴き、転生する道。霊的を放棄し、魂として半永久に我らと共に過ごす道」
「意味が分かり申さん」
「分からぬは自然の理。肉体を持つか否かじゃ」
龍之進には、まったく意味が分からなかった。法師は、続けて言った。
「肉体を持てば実感は得られるが、老いや病い、不慮の事態などあり、時間が限定される。我ら、魂の世界では、時間の制約は受けない。時空を行き来することは、然程の労力ではない。肉体と霊体の融合を直接的、間接的に関与し、操作することができる。困難な難題はあるが、それゆえに固有の暴走を防ぐための強い掟はある。適正に扱えば、苦にはならぬ。肉体があるか否か。生きるとは、どこを起点にするかで変わるゆえにな」
「法師、先程から違和感を感じ申すが、私が生きた時代の言葉と異なるのですが、何不自由なく、理解できるのは、如何なることか」
「時空を行き来してると申したな。我は、そなたの生きた時代より遥か未来の時代を棲息帯にしておる。それゆえ、そなたが我らと歩む時に惑わぬよう、未来の言葉を交えておる。そなたの許容範囲を配慮しながら、そなたの言語中枢を調整しておる。言語は実体のある者が使う記号のようなもの。我らは魂で通じ合う。言わば、感覚で通じ合うゆえ、我らにとって、言語は箪笥の肥やし同様なのじゃ」
龍之進は、初めて聞く事柄も、感覚として理解できているのを感じていた。
「私が、魂気を緩やかにそなたに送り続けておる。それが、実を結び始めた証だ」
魂気は、法師の経験を本流とし、余波として放たれていた。龍之進は、その育成余波を全身に浴び、思考パターンが法師の思惑に導かれている、と感じていた。
「法師、あなたは常人ではない力をお持ちになるのはわかります。しかし、その力で私を洗脳されているのではないのですか?」
「そうじゃな、そう思われても仕方ないわ。よって、常に選択肢をそなたに与えておる。選ぶのは自由。多少の力の影響は受けるであろうが、その点には十分配慮しておる。あとは、そなたが私を信じられるかだ。信じられなければ、私はこの場を去る。どうじゃ」
龍之進は、疑問を呈したこと自体、恥ずかしい思いがした。法師の放つ余波は、信じ合う頼もしさ、温かみを惜しみなく伝えてくれていることを感じていたからだ。
「なぜ、私なのですか?」
「そうじゃな、それは私にも説明しがたい。私とて、大きな力に導かれておる。その力は指示を伝えてくる。その力は、私たちを裏切らない。別件でこの時代に来た。その時、指示波が届きそれに導かれ、辿り着いたのがそなたじゃ。指示波には必ず意味がある。私はそれを信じて行動した、としか説明できぬわ」
龍之進には、分からないことが満載のはずだった。
しかし、疑問に感じることは不思議に直様、理解できた気がした。
何もかも知っているかのように。これが法師の言う育成余波と言うものか。
学ばずして学んでいる。法師の知識の一部を共有しているのか。
分からないことも悩むことのない安心感が龍之進を覆っていた。
「そうでしたか。しかし、選択する前に…」
この言葉で法師は、龍之進の知りたいことを悟った。
「分かった、そなたが私の言うことを素直に理解するは、私と魂を共有しておるからじゃ。そして、いまそなたが一番知りたいことは、そなたがなぜ死んだのか、じゃな。それを知るには、生い立ち、未練など整理到そう」
龍之進は、死を受け入れたものの、現世への心の葛藤を拭い去りたかった。
大言厳法師が小声で経を唱え、手を振りかざした。その瞬間、龍之進は、見知らぬお堂の廊下に立たされていた。
「ここは、そなたが倒れておった近くにある、比叡山根本中堂なるぞ」
法師が指先をすっと下から上に動かすと、ゆっくりと龍之進は上昇し、壮大な琵琶湖を一望する高さまで到達した。
「こんなことができるのか、悪くない」
「雑念は捨てるのじゃ。無心になれとは申さぬが、雑念は、決断の邪魔以外何者でもないゆえにな。そなたが見たかった琵琶湖じゃ。堪能せい」
龍之進の目には涙が溢れ出ていた。悲哀な運命を思ってか、琵琶湖の崇光さなのかは計り知れなかった。法師の命ずるまま、龍之進は廊下に座禅し、光、風を枝葉の揺れで感じ、心を静寂に融合させた。頃合をみて、法師は凛とした言葉を発した。
「では、参るぞ」
大きく周回していた靄が急速に、龍之進を包み込んだ。珠となった靄は、歪んだ空間を強烈に静かに突き破った。一気に視野が広がった。武家屋敷がそこにはあった。縁側に若者が座っていた。龍之進、自身だった。
1612年(寛政2年)が浮かび上がり、字幕のように龍之進の目前に現れ消えた。
「これから、ことの発端となった時間へと、そなたを導く。魂が同調すれば、戻った時間より未来の記憶は隔離されるゆえ、都合のいい、やり直しなどできぬからな。我らと共に生きると致して、その都度の現世に生きる人と関わる、魂としてな。その際、己の歴史は少なからずや必要になる。生い立ちとは、良くも悪くも己の存在感を実感する大きな要因なるゆえにな。そのための過去への立ち入りだ。要所のみの展開じゃ。今の魂は記憶機能としてだけ作用する。宜しいかな」
龍之進は感慨深げに、もうひとりの自分を見ながら、小さく頷いた。法師が経を唱えると、今の私と過去の私が重なり合った。
空気を感じる。
深呼吸をしてみる。
胸が膨らむ。
葉の、土の、家屋の匂いがする。
腕に触れてみる、握ってみる。
「生身」を感じられる。当たり前のことが、なんて新鮮に思えるのだろうか。しばらくして、スーッと体が軽くなったように感じた。
「さて、時空を超える魂界の掟に、その時代に干渉しないこと、がある。よって、特定される場所や個人、時間などの情報は隠蔽され、ニュアンスで見せられる」
法師の言葉の後、龍之進の脳裏と言うべきか心にナレーションが染み入ってきた。縁側に座る若者の名前は、高城龍之進。将軍家の書籍番的役割を担い各国から集まってくる書籍を選別し、欲する者に推奨する仕事。剣術とは無縁の事務職に就いていた。母とは幼い頃に死別、父も流行病で最近死去し、天涯孤独に。周囲に支えられ、14歳で家督を引き継ぎ、見習いを経て、翌年、本役となっていた。定時から定時の判を押したような日々。元々、人と連むより、読書を好む性格が災いして、書庫に篭もり、1日を過ごす。殆ど人と話すこともなく、過ごす日も少なくはなかった。
映像が、映画の冒頭のように始まった。
梅雨が明け、夏の日差しが眩しさを増してきた頃だった。
暇な帰り道、日和も良いことから、趣向のひとつと、軽い気持ちで試みた寄り道が、龍之進の運命を揺さぶり始めることを、その時は知る由もなかった。
脇道に入り、また脇道へ。
時には行き止まり、時にはぐるっと回って元来た道に。こうして散策するにつれ、見慣れた城下町が、新鮮な彩に溢れて感じられた。
風そよぐ風鈴の音色。
行商人の売り子の調べ。
子供たちの無邪気な笑い声。
見聞きするものすべてが心を躍らせていた。
夕飯の匂い、遠くから響き聞こえる刻限を知らせる鐘の音。待ち人のいない龍之進にとっては、心地よい音色だった。
今日はもう少し、遠出をしてみよう。そう思ったとき、仕事終わりの若い職人がはしゃぎながら、何処かへ、急いでいた。
龍之進は興味本位に、彼らの後を付けることにした。
時折、風に乗り{おたえ}とか{おしず}とか、おなごの名前が聞こえてくる。さらに、身振り、手振りを交えて、あ~でもない、こ~でもないと何やら楽しそうだ。目的地に着くのが待ち遠しい雰囲気が手に取るように感じ取れた。
「着いた着いた」
そこは、朱塗りの門の塀で囲まれた特殊な一画だった。付いて入ろうとすると、貧相な男に行く手を阻まれた。
「ここは、おめぇみたいなガキの来るところじゃねぇ、とっと帰んな」
手の甲であっちへ行けと言わんばかりに追い払われた。思わず無礼者と言いそうになった言葉をぐっと押し殺した。龍之進は日頃から、相当若く見られる童顔だった。
門の外から中を覗くと、道を挟んで向き合うように格子戸のある家屋が立ち並んでいた。縁日のようなその場所には、格子戸越しや出入り口付近で男女がじゃれあうように絡んでいた。にこやかにおなごに連れ添い、家屋に消えていく者、振り切るようにしかめ面でその場を擦りぬける者。物見山の者、多種多様のやりとりが見てとれた。
入るな、と言われれば入りたくなるのは世の常。
ここが、噂に聞く遊郭か。
と気づいても、龍之進には男女が遊ぶ処としか認識がなかった。どう遊ぶのかなど、想像もつかなかった。書籍役と言っても、春画とは全くの無縁。興味もない。とは言っても、{色事処刑}なる本があるようだが、龍之進が目にすることはなかった。先輩たちが、隠れてこそこそ、盛り上がっていたのは幾度か見たことはある。今になって、その内容への好奇心が堰を切ったように湧いてきた。
考えても仕方がない。探究心に任せて、塀の周りを行ける範囲で探索してみた。塀の戸板の隙間から見える様相は、どれも同じ。店の中で行われていることなど伺い知れない。期待を裏切り続けられていくにつれ、「自分は何をやっているんだ」という虚しさに押し潰されそうになっていた。そんな時、とある裏木戸に行き着いた。どうやら、廓関連の住まいのようだ。
紅白の派手な安物の着物が竿に微かに靡いいていた。垣根越しに裏庭と縁側の一部が見えた。垣根沿いに扉があった。御用聞きの出入り口なのだろう。ここは龍之進にとって、心ときめく一画に思えた。
微かな気配がした。家屋の奥から誰かが来る。女郎と呼ばれるおなごか?龍之進は得体の知れない獣に出会うような期待感に胸を高鳴らせていた。現れたのは、幼さが残る下女らしき者だった。幼いと言っても、龍之進より少し下か?龍之進は、勝手に大人の女を想像していた。思い込みは厄介なものだ。幾多の生地を縫い合わせた着物は、お世辞にも、気を惹かれるものではなかった。現実とは、こんなものだ。夢見る場所で、ありのままを見た気がした。先程までの言い知れない興奮は、一気に覚めた。この一件から、寄り道遊びにも飽き、ぼ~と縁側で空を見上げる毎日が続いた。
雲はいい。悠々といきり立つ入道雲、力強さを誇示するかのように、堂々とした振る舞いで形を変えていく姿に、亡き父の姿を重ね合わせていた。時は過ぎ、雲は力強さから優しさへ。白き雲は終焉を迎え、曇天が支配する季節へ…。目に凍みる寒さに耐え、白き綿は、耐え難い痛さを孤独で蝕まれる心に容赦なくぶつけてきた。除夜の鐘をひとつひとつ数え、新たな年を迎え、目に青葉、桜咲く季節へ。何の為にと、考えたくなるほど、安易に時を過ごしていた。生真面目さだけが龍之進の存在を誇示していた。
桜の季節は、一夜ごとに町を華やいで魅せた。
小さな裏庭にも申し訳ないほどの春が訪れていた。いつものように縁側で本を読んでいた。そこに、にゃ~にゃ~と何かを訴えながら迷い猫が入ってきた。目が合うと、だるまさんが転んだ状態に。目線を外さないでいると、しばらくして、にゃっと一声あげ去っていった。その時、「暇か、ば~か」と言われたような敗北感に押し潰されそうになった。
「このままじゃ、だめだ。何か目的を持とう」
大きくなくてもいい、その日、暮らすのに十分なものでいい。そう思いたったのはいいが、何から手をつければいいか見当もつかない。平凡な過去を辿り、思いついたのが、あの寄り道探索だった。再開してみたはいいが、二度目とあって、好奇心に火がつかない。ただただ、歩き疲れる毎日だった。ある日、あの時の若者たちが、あの時のように、まるで蘇ったような光景に出くわした。
そうだ、あの娘はどうしているのだろう?そう思った瞬間、龍之進の足は、あの裏木戸の垣根へと急ぎ向かっていた。
早く着け、早く着け。待ち遠しい、早く着け。
不思議な期待感が、一足ごとに膨らんでいった。
はぁはぁはぁはぁ。
体の制止に対し、胸は膨らみ、萎みを繰り返していた。
「誰?誰ね?」
声の主は、あの娘だった。
「あ・ああ・あの・怪しい者では…」
「十分怪しいかよ」
「あ・いや・その、ちょっと…」
「ちょっと何ね」
「急いでいたのはいいが走り慣れていなくてこのざま。済まないが水を一杯頂けないか」
「悪人じゃなかとね…ちょっとまっとりなし」
「済まない」
娘が、垣根越しに茶碗を差し出してきた。
「欠けとるけん、気いつけや」
茶碗は、飲み口の一部が三角に凹んでいた。龍之進は、一気に汲まれた水を飲み干した。
「う~、うまい、はぁ」
その反応に娘は、無邪気に笑った。龍之進は、何かに束縛されていた心が解放され、爽快感を得ていた。
「おみね、おみね、誰かいるのかい」
「旦那様じゃ。見つかったら怖いとよ。はよ、いきんしゃい」
「わかった、ありがとう」
後ろ髪を惹かれるとはこのような思いなのか。ほんの短い時がこれほどに愛おしく思えたのは初めてだった。
どう道を辿って帰ったかは、殆ど覚えていなかった。布団に入り、目を閉じれば、娘の笑顔が浮かんでくる。
眠れない。早く、陽よ、昇れ。
一刻も早く会いたい…会いたい、会いたい。
何度も寝返りを打つ。庭に出て、滅多に振らない木刀を振ってみる。目が冴える。ああ何て、もどかしい、陽はどこにいる。叩き起して連れてきたい。本を読むも、ほかのことを考えようとしても、無駄な抵抗だった。
空が白白と明けてきた。なんと皮肉なことか、勤めに出る頃には睡魔が牙を剥く。おかげで、居眠りをして、叱られる始末。周りの者には、おなごか、おなごか。生真面目にも春が来たか、と冷やかされる嵌めに。何も言わずとも雰囲気を醸し出していたのに違いない。恥ずかしくなり、その場を立ち去った。
帰宅時に、娘に会いに行くも、会えず仕舞いの日が四・五日続いた。会えない時間が胸の高鳴りを育てると聞いたことがある。龍之進には、娘に忘れられる恐ろしさの方が気掛かりだった。今日、会えなかったら諦めよう、そう思うと足取りは重かった。その路地を曲がれば…
「あんた、なんてことすんだよ」
という罵声が飛び込んできた。恐る恐る覗き見すると、おみねが首筋にお粉を塗った女に叱られていた。おみねの側には竿が外れ、洗濯された襦袢が落ちていた。運悪く、夕立の後で地面が濡れており、洗濯の努力が水の泡と消え去っていた。おみねはひたすら謝っていた。それでも、女の罵倒は収まらず、続いていた。女は女将に呼ばれ捨て台詞を残し、その場を立ち去った。おみねは、膝を抱えて泣いていた。
「おみねさん」
龍之進は、思わず声を掛けてしまった。自分でも驚きの行動だった。
「おまんはあん時の…」
「あの時は、ありがとう」
「…なぜ、おらの名を」
「あの時、男がそう呼んでいたから」
「あっ。でも、どうしてそこにいんしゃっと」
「おみねに、ちゃんと礼がしたくて…」
「そげんなこと、よかよ」
理由など何でもよかった、話せれれば。そういう意味では、おみねの失態は龍之進にとって好都合だった。龍之進とおみねは、双方簡略的な自己紹介をした後、たわいな会話を弾ませた。話せば、話すほど、打ち解けて、距離感は急速に縮まっていた。
おみねは、別世界で生きている。
ほんの短い時間だったが、お互いを認識し合うのには充分だった。おみねには自由にならない時間が多い。それをわかった上で、定刻を決め、会う約束を交わした。龍之進もおみねも、同年代の異性と話す機会に恵まれていなかった。そんなふたりにとって、この出会いは、喜ばしい出来事だった。
また、おみねに会える会えるんだ。
龍之進は毎日のように、幼い逢引の機会に期待し、出向いた。毎回とは行かない迄も、できる限り会っていた。本来なら文を託し、その返事をもらう。出会った証を残したかったが、おみねは読み書きができなかったので諦めるしかなかった。おみねが欲しいという物は、できる限り与えた。と、いっても物として残せば、どこでばれるか危うい。そこで、饅頭や菓子など、胃袋に隠蔽できる物を選んだ。時には、持参した手土産みを二人で食べたりもした。
隔離された世界と自由な世界。
垣根越しの変則な密会。
ばれるか、ばれないかの危険な関係は、男女の恋に発展するのには、都合のいい条件だった。そんな関係が一ヶ月、二ヶ月と続いた。のちにおぞましい展開が待っていようとは、龍之進もおみねも知る由もなかった。
物陰から、ふたりの密会を覗き見する男がいた。おみねの居る廓の主人、佐吉だった。佐吉は、女を金儲けの道具としか考えない、札付きのならず者だった。ある日、龍之進は、書籍買い付けのお役目をおおせつかり、大坂(おおざか=上方)へ出向くことになった。断りたかったが、お役目とあれば仕方がない。重い気持ちでおみねに会った。
「おみね、今日はあらたまって話がある」
「なんだね?そんな浮かねぇ顔ばして」
「実は、お役目で上方に行かねばならないのだ」
「嫌だ…。でも仕方ねぇだな。いつ帰ってくるだね」
「一ヶ月程先になると思う」
「そんなに…寂しくなるだな」
「ああ、寂しい。出来るだけ早く帰ってくるよ、待っててくれ」
「早く、帰ってくるだ、寂しいけん」
そんな会話を盗み聞きしていた佐吉は、妙案を思いつき、にやっと笑った。
龍之進が、上方に向かって三日程した頃、おみねは佐吉に呼ばれた。
「おみね、お前も年頃だ、そろそろ店に上がるか。人気者になって、さっさと借金を返して、自由になれ」
「…」
おみねの覚悟は、出来ていた。ねぇさん達の世話をするうちに、自分が何をするのかは理解していた。しかし、いまは龍之進が心の中にいる。身分の違いも分かっている。叶わぬ恋だとも理解していた。涙が止めどなく溢れできた。おみねは、自分の置かれた境遇を妬ましく思った。
「そんなに嫌か」
「そうじゃねぇ…」
「好いた男でもいるのか」
佐吉は、態とらしく、鎌をかけた。
「…」
おみねはふいをつかれ、戸惑いを隠せないでいた。
「知ってるぞ、時折、若い侍と会っているのをな」
おみねは、驚いて言葉を失った。叱られる、殴られる…恐怖で体の震えが止まらなかった。
おみねは、離れの蔵の納戸で寝起きしていた。時に不手際を犯したねぇさんが折檻を受け、その苦痛のうめき声で眠れないでいた夜のことを思い出していた。
「いいさ、年頃だからな」
佐吉は、含み笑いした。思いがけない優しい口調におみねは、恐怖と安堵の狭間で、あまりの緊張感で意識が朦朧としていた。佐吉は、おみねを優しく抱き寄せ、頭を撫ぜながら言った。
「おみね、可哀想だが、それは叶わないことだよ。お前は、お女郎さんになる宿命なんだ。諦めるこった」
おみねは、聞きたくない現実を突きつけられ、体中の生気が抜けていくのを感じていた。最早、おみねに正しい判断などする気力など、微塵もなかった。
女を誑かす悪知恵ならお手の物の佐吉は、如何におみねが騙されているか、過去の話を交え、優しく優しく、諭した。
おみねは、心の中にどす黒い血が、湧き上がるのを感じていた。
妬み、辛み、怒り、復讐心などの悪意が、骨の髄まで浸透していく。己の全てが得体のしれない強い力によって支配されていくのを感じていた。
鉛色した雲は、心も覆い尽くす。
その雲はやがて左右に引き裂かれ、暈を被った太陽が現れた。その太陽の霞んだ光は、おみねを照らし始めた。
その日から佐吉は、事ある毎におみねに優しく接した。観劇や綺麗な着物、うまい飯などを与え、決して裕福ではないが、貧乏な生活から何不自由のない蜜の生活へと、おみねを導いて行った。おみねにとって、何もかもが新鮮で刺激的な世界だった。
「もう、下女の生活などには戻りたくない」
翳りある陽光に炙られ、おみねの性根に「欲」が心に浸透し、日に日に幼かったおみねは、女の色香を開花させていった。おみねにとって、いまや佐吉は最も頼りになる男になっていた。佐吉の機嫌さへとっていれば、毎日が楽しさに満ちたものに変わりつつあった。その思いを悟った佐吉は、頃合いだと感じ、おみねに話を持ちかけた。
「おみね、お女郎には二通りある。知っているか」
おみねは、猫のように佐吉の胸に体を預け、しおらしげに「はい」と答えた。
「俺は、お前を花魁に仕立てたいんだ。器量も気立てもいい、お前なら成れる。俺が言うんだ間違いねぇ」
「私が花魁に…」
「そうだ」
佐吉は、さらに畳み掛けた。
「花魁になれば、侍なんて屁だぜ。それが、色町の掟さ。大名だって金持ちの商人だって、ここでは逆らえねぇ。お前を虐めてきた姉さんたちを見返してやることもできるぜ」
おみねは、決心した。(おらが花魁に…。客や店の不満をおらにぶつけてきた姉さんたちがおらに跪く…)花魁になって世間を見返してやる、と。
おんな心と秋の空。
そう決めると決断は早かった。淡い恋心など、取るに足りないものになっていた。
「任せるとよ」
おみねは、しっかりとした眼で佐吉を見据えて言った。
「任せておけ」
佐吉は、計算高い女へと育て上げるのはお手の物だった。おみねも例外に漏れず術中に嵌めていった。
「おみね、幾ら俺が花魁にしてやると言っても、そう簡単になれるもんじゃねぇ」
「どうすればいいだ?」
「花魁になるには支度金など、それなりに金が要る」
「また借金だか?」
「そうじゃねぇさ、お前には金蔓があるじゃねぇか、金蔓が」
「…龍之進様のことかえ」
「察しがいい、そうだ、任せろ、俺にいい 考えがある」
佐吉は、おみねを引き寄せ、耳元で筋書きを吹き込んだ。その筋書きが、如何に正当なことか、身分違いや商売女を本気にさせて弄ぶ男の本音や騙された女の末路などを交えて説いた。
いづれ、おみねの心中に燻るでろう罪悪感の芽も摘み取っていった。
いまのおみねは、佐吉が作り出した一端の悪女と化した以外の何者でもなかった。龍之進が上方から帰ってきた、ほぼ一ヶ月を経て。
何も知らない龍之進は、手土産を持ち、意気揚々でおみねとの再会に心を躍らせていた。
おみねの変貌に当初は、戸惑いを覚えていた。
しかし、会いたい、会えた気持ちは、小さな変化を忘れさせるのに充分な高揚感だった。おみねは佐吉との打ち合わせ通りに、今までの関係を保ち平然を装っていた。
以前との違いは、こそこそ、会っているスリル感は姿を消し、半ば公認のように自由に会えていた。
その変化に疑問を呈した龍之進は、おみねに聞いたことがある。おみねは、日頃の仕事ぶりが高く評価され、好き勝手に使える時間が増えた、と返答してきた。
真面目を絵に描いたような両親に育てられた純真無垢な龍之進は、疑う気持ちを持ち合わせてはいなかった。
以前にも増して、楽しい時間は過ぎていった。
再会を果たしてから一ヶ月が経った頃、おみねが深刻な顔で、話があると切り出してきた。
「龍之進様、もう、おみねは・・・おみねは龍之進様に会えません」
突然の告白に、龍之進の頭は、木槌に打たれたような衝撃を受けた。
「なぜだ、なぜだ、おみね」
垣根の隙間から手を差し入れ、両肩を掴み、揺さぶりながら、何度も問うた。おみねは下を向いて何度も頭を左右に振っていた。おみねはやっと、重い口を開いた。
「実は…実は、ついに店に上がらないといけなくなった。そうすれば、客や旦那がついて、もう会えなくなる。もういや、こんな所…」
おみねは、大粒の涙を浮かべて泣いていた。廓(くるわ)の女の宿命。
「どうすればいい、どうすればいいんだ」
人生経験すら貧弱なのに、特殊な世界の掟など分かる術もなく、戸惑うばかりの龍之進。
落ち着きなく、視線が彷徨う龍之進を、おみねは垣間見ながら、佐吉の筋書き通りに演じてみせた。
大約すると、こうだ。
おみねは店に上がらなくてはならない。それを避けるには、借金と利息、違約金を払わなければならない。そして、その期限が間近に迫ってるという、よくある話だ。
だが、それでよかった。
佐吉は、龍之進のことを調べ上げていた。世間知らずで、親しい友人、知人もなく、相談される心配もないことを。
おみねは、自分の運命の儚さ、そこに龍之進という灯りを見つけたこと、できれば、それを手放したくないこと、でも自分ではどうにもならないこと、などを、涙ながらに龍之進に訴えた。
龍之進は、焦り、その焦りが冷静な判断を塗り消し、苦渋で難問の袋小路へと闇深く、陥っていった。龍之進の頭の中は、思考という機能は崩壊し、ただただ、「どうしればいい、どうすればいい」と繰り返すだけの空虚なものになっていた。
龍之進の頭の中は、完全に崩壊していた。
初恋という、恋の病いに犯されて…。
見ていた映像が中断し、法師の声が聞こえてきた。
『そなた分かるか、言葉には用い方によって「言霊」の力が発揮される。言葉の霊と書いて言霊だが、本来は、言葉の持つ魂の力を言う。
例えて言うなら、陶磁器や仏像などの彫刻などに「魂」を入れるというが「霊」を入れるとは言わぬ。一球入魂とは言えど一球入霊とは言わない。「霊」は身勝手な思いを相手に押し付ける。恨み、辛み、誘いなどがあげられる。 「魂」は、悟るものだけに悟ってもらえればいい。
「気づけよ、この意(思い)を」というように、邪念なき念を込め、心に訴えかける。あくまでも、其の者に判断を委ねさせる。
「決断させられる(他力)」と「決断する(自力)」とは、おのずとその決断力の強固さは変わってくる。おみねには、才能があったということ。
自分の意図を押し付けるのではなく、あくまでも、あなたが決める、決めたんだと思わせる方法を活用しておる。当然ながら、自分で決めさせた方が、大胆な行動をとらせることができるということだ。
この際じゃ、もうひとつ、付け加えておこう。南無阿弥陀仏の世界観に「他力本願」がある。世に誤解されておるようじゃが、この他力とは、「他人の力」を意味するものではない。骨身を削って努力したあとは「仏様」にお任せするということじゃ。他力とは仏の力をお借りするという意味じゃ。そなたを案内しようとする空界とは、「魂の世界」。「魂の世界」の主体元力はこの「言魂」に大きく関わるゆえ、あえて、中座させた。それでは、続きをご覧あれ」
と告げて、大言厳法師は、朽ち果てた龍之進の魂を過去へ戻した。
俯瞰から見ていた肉体のない龍之進の魂は、吸い込まれるように、垣根の側で狼狽える高城龍之進へと戻った。
呆然と佇む龍之進におみねは、最後通告のような強烈な一矢を放った。
「龍之進様ごめんなさい。龍之進様を泣かせて…。すべてはおみねが悪いんよ。叶わぬ夢を見た、身の程知らずのおらが…」
泣き崩れるおみねを見て、龍之進は追い詰められていた。おみねを助けたい一心さが、龍之進に決断を促した。
「ようこそ、魔界の世界へ…イヒヒヒヒ」
低い重苦しい囁きが…。
何かに導かれる様な気がした。そこにあるのは、風が木々を揺らす葉音だけだった。声の主が魔界の住人の餓鬼であるなど龍之進は、知る由もなかった。
その声で、龍之進の中で、何かが吹っ切れた。
おみねを助けるために龍之進には、考えがあった。躊躇いもあった。
自分自身で決めたことよ、後悔はすまい。
と、自分を奮い立たせていた。
「おみね、要は金があればいいのか。それで、助かるんだな」
「いけんよ、いけん。何をしんしゃと」
一瞬、おみねの良心が、素の姿をみせ、方言が出た。
演じるおみねは、言葉を選んでいた。偽りの罪悪感を払拭するために。慌てて、おみねは言い直した。
「だめ、だめです。何をなさるつもりですか?」
「気にかけるな」
龍之進の腹は決まっていた。その後、おみねより、必要な金数と期限を聞き出し、一目散に家路を急いだ。自分でも驚くほど行動的に動いた。金策などしたことのない龍之進は、手当たり次第に、金策のために走ったが何ら担保もない若い龍之進に、容易く借金をさせてくれる所など、あるはずもなかった。
「結局、何もできない…、啖呵を切ったくせに。これが現実というものか」
落胆して途方にくれていた龍之進は、路地を曲がった所で商人らしき人物と
ぶつかった。その拍子で、商人らしき者は、持っていた風呂敷包みを落とした。
「済まぬ」
「こちらこそ、お侍様に気づきませんで」
「先を急ぐ、済まなかった」
「もし、お侍様。お節介のようで御座いますが、お顔の色が悪う御座います。袖触れ合うも他生の縁と申します。私めでお役に立てることが御座いませんでしょうか」
途方に暮れ、宛のなかった龍之進は、藁をに縋ると言うよりも、捨て鉢まがいにその商人らしき男についていくことにした。
その男は、高級そうな料亭に、お詫びという理由を付け、龍之進を招いた。
龍之進にとっては、初めての体験だった。緊張と、この男は何者だという不安で、固まっていた。
「まあまあ、そう、固くなさらずに、宜しければ、無礼講といきましょうや」
商人らしき男は、龍之進の態度をみて、完全に手中に収めた様子だった。
男は、海山物問屋を営む、近江吉右衛門と名乗った。吉右衛門は、自分の生い立ちを自己紹介代わりに話してきた。
自分が一人で成功したのではないことを忘れぬようにと、貧しい者への奉仕もしていると話していた。
龍之進は、一途の灯りを見た気がした。理由はともあれ、金策に遁走していることを話した。吉右衛門は、渋い顔をしてこう言った。
「それは、無理で御座います。お侍様は金の貸し借りを甘く見すぎておられます。私共も商売で御座います。金を貸せと申されるなら、その担保をというのはごく当たり前のことで。それより、お侍様は、正直に全てを話されておりませんなぁ。商売は信用でおます。まずはお互いの信頼関係を大切にしないと…。さぁ、お話なされ、包み隠さずに、さぁ、さぁ、さぁ」
龍之進の心は、ざわざわと音を立てていた。侍として、家柄、役目柄などの誇りを剥ぎ取り、ただただ女を思う一人の男と変えていった。
龍之進は恥を忍んで、すべてを吉右衛門に話した。
一通り話したら、急に楽になった。畳の目を見ながら、話していた龍之進は、顔を上げ、吉右衛門を見た。先程より増して渋い顔をしていた吉右衛門、重そうな口を開いた。
「お侍様、それは無理な話で御座います」
「何故で御座る」
「お侍様は若いから、世間というものを理解されていないご様子」
龍之進の眉が険しくなったのを見て、慌てて吉右衛門は話を続けた。
「お怒りはご最も、お気に障ったのは、ほれ、この通りお謝り申します」
と言って、吉右衛門は座ったまま、半歩下がり土下座をした。その姿勢から、龍之進を見上げるようにしながら、体を起こして、厳しい顔でこう言った。
「お怒りを収めて、お聞きくだされ。女郎相手にそのようなことをなされては、今の役職は解かれるかも知れまへん。増してや、そんなおなごを嫁になどしたら、周りが許しませんぞ」
「然らば、どうせよと言うのか」
「おなごを取るか、今の地位を守るか、で御座います」
龍之進の決心は、固まっていた。おみねの為に、何もかも投げ出す覚悟は、できていた。恋は盲目。一途になればなる程、視野は、狭くなるもの。
「侍など捨てても良い、おみねと一緒に生きられるのなら」
「本当に、それで宜しいのですか、何もかもお失くしになる覚悟があると」
「あります、ありますとも」
しばらくの沈黙のあと、吉右衛門が言った。
「厄介ですな。私は、厄介な問題とは関わらないようにしております。お店は私のすべて。どんな禍が降り掛かるやも知れませんからなぁ。でも、困っておられるのを見放すのも厄介なことですなぁ。うん、それでは、こう、致しましょう。私の知り合いに整理屋がおります。その者を紹介致しましょう」
「整理屋、ですか?」
「普通に生きていれば、関わることはないでしょうな。簡単にいえば、お取り潰しになったお店の整理や、世間に知られたくない金策を請け負う商売と申せばよいのか、ま、その者に任せておけば、うまくやってくれるでしょう」
「ぜひ、お願いする」
「それでは、早速、ご手配、致しましょう」
吉右衛門は、住所を聞き、夕方、人目につきにくい刻限に整理屋を向かわせる約束をして、龍之進と別れた。
陽が暮れ、行灯に明かりを入れた頃、静かに裏木戸を叩く音がした。縁側で得体の知れない整理屋とやらの訪問を、不安混じりで待っていた時だった。
「高城龍之進様で、あっしは、市助と申します。おおみ…いや、吉右衛門様よりの使いで参りやした」
市助は、近江吉右衛門から、店の名前を伏せておくように言われていた。
龍之進は、恐る恐る裏木戸を開けた。そこには、市助と名乗る男と、ふたりの恰幅のいい男がいた。その傍らには、荷車が二台、用意されていた。
「ここでは、人目が…中へ入れてもらっても宜しいでっか」
市助は、きょろきょろと周りを見渡し、人目を気にしている様子だった。
「ごめんなすって。さ、おめぇたちも早く、入んな」
市助は、裏木戸から入った後も内側から外を確認して、裏木戸を閉めた。
「早速ですが、時間がありやせん。吉右衛門様から詳細は聞いております。私ら、お困りのお方に、内々で金策を請け負う者で御座います。表稼業とは言い辛い商売ですから、値踏みの方は、お任せ頂けますように。いやいや、吉右衛門様からのご紹介で御座います。目一杯、勉強はさせて貰います」
龍之進にとって、裏の仕事をしている者と接するのは初めてのことだった。もっと厳つい者を想像していたが、どこにでもいるような華奢な商人風だったことに半ば安心感さへ覚えていた。
市助たちは、手際よく金目の物と不要なものとを仕分けし、手際よく荷車に載せていった。市助は、手下に運搬をさせながら、せっせと帳簿に値踏みした物を書き込んでいった。作業が始まると見る見る間に部屋の品物が片付けられていった。
彼らは俗に言う夜逃げ屋を裏稼業として営んでいた。
見慣れた住まいが息絶えようとしているのを眺めていると、改めて自分がもう、戻れない道に踏み入れた心細さを感じ、自然と小刻みに体が震え、血の気の引く思いに龍之進は、襲われ始めていた。
「確認なんですがね、本当にいいんですかねぇ、すべて換金してしまって…。これだけはという物がありやしたら、お手元へ…」
「いや、結構。未練はない」
龍之進は市助の説明を遮り、自らの決心を確認した。
市助は「始めるぜ」と声を掛けると、慣れた手つきで、供のふたりが家の中の物を手当たり次第に運び出し始めた。その間、市助は、龍之進に注意事項を伝えてきた。
要約すると、持ち帰った物を値踏みしたのち、換金分は明日の夕刻にこの場で貰えるということ。値がつかない物は破棄するということ。江戸を立つ上で、朝一、通行手形を自分の分と、付き人1名分を用意すること。宮本勝五郎という役人に話は通してあるから、私からの紹介だと言い、いくらか包んで渡せば、通行手形は夕刻には受け取れる手はずになっていること。心労でも何でもいい、理由をつけて休職願いを出すこと。あとは、この部屋の目に付く所に、これは、神隠しや失踪ではなく、自分の意思で、家を引き払ったということを書いた文を置いておくこと…など、詳細な説明を受けた。
手際のいいふたりによって、見る見る家財道具、着物などが運び出され、最後に市助が、自らの着物の袖を腕に巻き、刀を抱え、龍之進の前で立ち止まった。
「これも、いいですかねぇ」
との問いに、龍之進は、小さく頷いた。
幸か不幸か家宝などと呼ばれる物などなかった。愛着はあっても、引き渡すのに何ら未練はなかった。闇の中で微かな行灯の明かりを頼りに、すっかり、家の中は片付けられた。何もない部屋は不気味さと広さを感じさせていた。市助が一旦外に出て、満足げに戻ってきた。手に刀を持って。
「龍之進様、失礼を承知の上で、申し上げます」
刀を持って現れた市助に一瞬たじろいだが、それ以上の危険は感じなかった。
「龍之進様、お侍であることを捨てられる覚悟があると、吉右衛門様からお聞きしております。そのお腰の物も必要ないんじゃねぇですか。いいですかねぇ、お預かりしても」
「確かに、もう必要はないな」
「とはいえ、明日、丸腰では。宜しかったら、竹みつですがどうぞ」
「かたじけない」
「注意事項を必ず実行されますように。では、明日の夕刻、この裏木戸にあっしが参ります。それでは、あっしらはこれで」
龍之進は、空を見上げた。満天の星が、冷たく瞬いていた。
綺麗に片付いた部屋を見ると、虚しさより、清々しさが感じられていた。
落ちる所まで落ちたな。
なぜか、笑いが込み上げてきた。それと同時に、大粒の涙が溢れ出てきた。結局、一睡も出来ず、夜を明かした。
龍之進は、市助に言われた通りに動き、普段通りに振舞った。気もそろろに夕刻まで過ごし、帰路についた。これといった思い出らしき、思い出もない道のりも、この日ばかりは、感慨深く思えた。
陽が暮れ、行灯に明かりを入れた頃、裏木戸から声がした。市助だ。
「申し分けねぇ、急いでいるもんで。これが、金数です。身請け分と旅費になるようにと頑張りやしたが、十五両にしかならなかったもんで。すいやせん。それじゃ、急ぎやすんで、あっしはこれで、じゃ、お体に気をつけなさって」
一方的に話すと、市助は一礼して、足早に立ち去った。
龍之進は、手にした十五両を見て、これが今の己の全てかと思うと、情けない気持ちに打ち惹かれた。金数を十両と五両に分け包み、懐に入れると、旅支度を済ませ、おみねのもとへと急いだ。道なりはすっかり日が暮れていた。
廓の裏口についた頃には、男女の声が賑やかさを醸し出していた。おみねは、約束の時間より少し遅れて現れた。
「龍之進様」
「おみね、これを」
龍之進は、十両をおみねに渡した。
「ありがとうございます。これで龍之進様と一緒になれるんですね」
「さぁ、夜もふけている。道中が大変だ。早く渡しておいで。人目に付くといけない。私は、約束の場所に先に行って待っているよ。場所はわかるな」
「はい。すぐに渡して、追いかけます」
「それじゃ、先に行く」
ふたりの置かれていた状況は、常に人目を憚るものだった。それが、ふたりの関係であり、もはや習慣めいたものになっていた。
絶望と夢の狭間で、夜道を目的地へと龍之進は、急いだ。その時、懐から、布包が落ちた。簪だった。新たな旅立ちの証として、おみねに渡そうとしたものだった。
会ってからでもいい、そう、思った。しかし、必ず現れるという自信は何故か持てなかった。博打のように思えていた。龍之進は、その不安に押し潰されそうになり、居てもたってもおられず、引き返すことにした。
虫の知らせ?
胸騒ぎ?
苛立ちに似た喪失感を龍之進を包み込んでいた。会えなければ、遊郭の出入り口付近で待てばいいと思っていた。
裏木戸に着いた。
声がした。
そっと覗いて見た。
行灯の灯りに照らされた縁側に座る人影が見えた。佐吉とおみねだった。一瞬、我を疑った。でも、紛れもない現実だった。おみねは、佐吉の膝に体を委ねていた。佐吉の右手は、おみねの胸元に滑り込み微かに動いていた。おみねの頬は昂揚していた。
「思ったより、簡単だったわね」
「ああ、馬鹿な小僧だ。今頃、期待して、愛しいお前を待ってるぜ」
佐吉は、羽交い締めしたおみねを左右に揺さぶった。
「言わないでよ、これでも少しは胸が痛んでいるんだから」
「そんな奴が、こうして胸を揉まれるか」
「ばか」
龍之進の頭の中には、絶望感という蛆(うじ)虫が無数繁殖していた。
夢だ、夢だ、これは夢だ。
夢なら早く覚めろ、こんちくしょうめ…あぁぁぁ。
「本当に悪い人ねぇ、私からだけでなく、あの商人からも、がっぽり手数料をふんだくっているんでしょ、本当にワルなんだから」
「嫌いかい」
「もう、意地悪」
「こんな時、侍だったら、お主も悪じゃのう、とか言うんだろうぜ」
「ばか」
「あはははは」
ふたりの高笑いは、龍之進の精神を完全に崩壊させた。
自暴自棄になった龍之進は後退りし、尻餅をついた。
一刻も早く、その場を離れたかった。
立ち上がると、無我夢中で走った。
走って、走って、走り続けた。
涙が溢れ、前が見えないのもお構いなしに走った。
うおぉぉぉぉ~
内蔵が引き裂かれるような苦悩の叫びは、闇夜に溶け込んでいった。
「いま、何か聞こえなかった?うぉ~って」
「何も聞こえねぇぜ。犬の遠吠えじゃねぇのか」
「そ・そうね…気の…せいね」
おみねは、龍之進の声を聞いたような気がした。
場面が、歪んだ。
朽ち果てた龍之進の魂に大言厳法師の声が入ってきた。
『龍之進よ、この場面を覚えておくがよい。これが「分岐点」となるゆえ』
場面が再び歪み、映像が再開した。
闇夜は、何事もなかったように静寂に支配されいた。
龍之進は、幾度も躓き、倒れながらも、必死で走り続けていた。走って、走って、走り続けた。このまま息絶えてもいい、そう思いながら、喉を空して無心で走り続けた。次第に意識が遠のくのを感じつつ…。
腰骨から何かが天に向かって抜けていくように、す~と軽くなり…龍之進は、腰から砕けるようにその場に倒れ込んだ。
瞼に白い光が滲んだ。
鳥の囀りが聞こえる。
現世か涅槃か、分からなかった。
日差しが眩しい。
生きていた、肉体は…。
どこをどう走ったのか、見渡す限り、木々に覆われていた。川面に顔が映る。何十歳も老けた顔に見えた。どれほど時が経ったのだろうか?懐の違和感に手をやった。簪に当たった。あったはずの木箱はなかった。胸を引き裂く出来事が、悪夢として蘇ってきた。
やりきれない。
落胆よりも自虐的な思いに身を焦がしていた。
簪が憎かった。
騙した者への思いか、騙された己への愚かさを嘆いてか…。何かに当たらずにはいられなかった。当たったところで何も解決しないことは、百も承知の上。それでも、心中のもやもやを晴らさないでいられなかった。日差しを遮る鉛色の雲のようにおみねと佐吉の笑い声が耳から離れないでいた。
「ばかやろ~」
振り絞った力で簪を川に投げ捨てた。何の悪戯か、その時に限って、さぁっと陽が差した。くるくる舞いながら遠ざかる簪の飾り金具が、キラッと光った。その光でさへ憎い。まるで、「ざまぁみろ、身の程知らずの世間知らず」と小馬鹿にされたように思えた。いや、正しくは、自問自答のつぶやきだったのだろうことは、分かっていた。でも、認めたくなかった。認めれば、自分自身を本当に見失う気がしたからだ。
「まだ、生きろと言うことか、生きていて何があると言うのか」
龍之進は、排他的な笑が浮かぶのを抑えきれなかった。
おみねへの恨みというより、自分の愚かさ、浅はかさに打ち敷かれていた。他人を恨むのでなく、騙された自分の愚かさを恥じる男だった。
川辺に仰向けになり、大空を呆然と見ていた。
生きる術?
いや、価値が消え去るのを唯唯、待っていた。真っ青な空を背景に、白い雲が徐々に形を変えて行く。
ゆっくりと、ゆっくりと。
雲は、何を目的に、何を生きがいに形を変えるのか。
いや、そもそもなぜ、形を変えるのか。
変えたくて変えているのか、変えさせられているのか。
何処に向かって突き進もとしているのか。
ときには早く、ときには留まるように。
風が吹いている。
胸元を旋回するように吹き抜けていく。
あの天にも風が、吹いているのか。
さすれば、あの雲の形を変えるのは、進めるのは、いま頬を撫でている風と同じなのか。脈絡も何もない、禅問答のような発想が頭の中に渦巻いて離れなかった。
川で顔を洗った。
粘り気のある得体の知れない感触が、指に纏わりついていた。
洗っても、洗っても、それは取れないでいた。
洗う気力が失せた。
懐から包がふたつ、落ちた。
ひとつは、旅費の五両。ひとつは通行手形だった。
「共の者、一名か。通行手形なのに、共のか。誰でもよければ、無意味じゃないか。これぞ、侍の特権か。いまとなっては、必要ない」
そう思い、不要な手形を川に流した。
紆余曲折の極みなり。
そんな言葉が、ふと浮かんだ。何だ、それは…。なぜか、考える事が馬鹿馬鹿しくなり、笑いが込み上げてきた。
手形は、目を離したことにより、何処かへ消え去っていた。
人は、どう足掻いても大筋の運命には逆らえない。
時の流れは、立ち止まろうとも、突き進もうとも、等しく過ぎる。そう考えれば、運命はやはり、変えられないということか。
川には、激流もあれば穏やかな流れもある。
大雨や大風が吹けば、一変する。
土砂崩れや新たな川筋ができ、見る景色が変わる事がある。しかし、川は上から下へ流れ、枠さへ外れなければ、大海にたどり着く。
雲は枠がなく、自由に姿を変えられる。その先に、大海のようなものはあるのか?この世とは、自分をどこに置くかで、川にも雲にでもなれるのではないのか?よくわからない、よくわからないが、それでいい。
これからをどう生きるかで、何かが大きく変わるかも知れない。変えてみたい、自分の力で。このまま女々しく尽き果てれば自らを否定して終えるではないか。生かされている?そんなことはどうでもいい。何もしないで終えさせるのが腹立たしく思え始めた。
生きる気力には色々あるだろう。仙人のように霞を喰って生きるという奇想天外な生き方でもいい。人と関わるなら、煩わしさを快感に変えればいい。存在価値など他人が決めることではない自分で決めればいい。
そう思うと、生きる望みが見えてきたような気がした。と言っても、どこへ向かうか。その時、唯一、出向いたことのある上方が頭に浮かんだ。京の都もいい。しかし、裏言葉や格式、よそ者を拒む土地柄は、無口な龍之進には合わない。上方では、お構いなしに人の生活に踏み込んでこられた。病でふせっていた時、勝手に入り込み、看病してくれた。愛すべきお節介だ。それは、人情という物を実感できた体験でもあった。
「そうだ、上方に行こう」
龍之進に新たな指標ができた。取り敢えず、行ってみよう。仕事が見つかなければ、寺子屋でも開けばいい。幸い、書物なら多岐に渡って読んだ。その知識でも町人相手なら、何とかなるのではと考えた。
懐には五両ある。上方までは三両は掛かる。雑費を算段してギリギリか。節約と生きるための工夫を余儀なくされた。それでも、それが今、明日への執着心の糧となっていた。
太陽や星の位置を頼りに、川を下り山奥から、街道に出て上方へ向かった。これからのことは、道中折々に考えればいい。半ば世捨て人同然、焦る必要はないのだから。
旅を続けていると様々な人に出会う。
いい出会いは、空虚な心の癒しになっていた。天上天下唯我独尊か、私もお釈迦様を見習うか。
龍之進は、努めて明るく振舞うことに決めた。明るくしていれば、人と知り合い易いことを道中で学んだ。
旅の恥はかき捨て、一期一会。遠慮など要らない。場数を踏み、それなりに人との接し方が様になってきたような気がする。
人は変われる、変われるんだ。そう、自分に言い聞かせていた。
尾張を過ぎた辺りから、懐具合が寂しくなってきた。気持ちをいくら強く持っても、寂しさが魔物のように襲いかかってくる夜がある。そんな時は、飲めない酒で、悪夢から逃れた。自暴自棄になり、どんちゃん騒ぎもしてみた。無計画に浪費したつけが襲いかかってきていた。
どんなに苦しくても罪だけは犯すまい、と決めていた。盗みなど犯せば奴らと同じになる。それだけは、最後の意地として守り続けた。腐っても武士だ。
その誇りにしがみつくしか、いまの龍之進には、自分の存在を確認できないでいた。
琵琶湖に差し掛かった。
比叡山に強く惹かれた。遠回りになるが、登ってみたくなった。壮大な琵琶湖を俯瞰で見たかったからだ。
空腹は、書物で得た知識を活かし、山菜採りや仕掛けを用いて、獣や魚を獲り、凌いだ。もうすぐ山頂という頃、豪雨に見舞われた。大木に身を寄せ、背負っていたゴザを頭に被った。比較的大きな葉をつけている枝葉を探し、切り取り、集め、重ね、蓑替わりにして雨をできる限り防いだ。
聞こえてくるのは、雨が葉を叩く、激しい音だけ。変わり映えしない風景を、ただただ、眺めるだけの時間が過ぎていく。
龍之進にとって、最も怖い時間だ。何もすることがない時間は、自然と過去の嫌な記憶を呼び覚ましていた。
気を紛らせるようと考え事をしてみる。しかし、目的もなく考えれば変なことしか考えが及ばなかった。
いくら緊急避難と言えど、枝葉をもぎ取ってしまった。凄く、残酷なことのように思えた。ここは植物が平穏に暮らす領域。そこに立ち入ったのは私だ。人間だから何をしてもいいなど、そんな道理は通らない。そう、思えてきた。そう思うと龍之進は、木々に、申し訳なく、済まなかった、済まなかったと繰り返していた。木も生きている。私という無法者が断りもなく、体の一部をもぎ取ったんだ。
ああ、なんと身勝手な行いなのか。自分さえ良ければいいのか。
静寂なはずのこの領域に降る雨音は、龍之進にとっては己への怒り、戒めのように感じていた。
ひとり旅を続け、人情に触れ、どうも私は、信心深くなっているようだ。と龍之進は感じていた。
空腹と寒さで、体が震えだした。このままじゃだめだ。体力を温存しなければ。体をめいっぱい小さくし、熱を逃がさないようにした。体の疲れを癒すためにも寝ることに専念しよう。そう決めた時ほど眠れない時間が過ぎていった。
雨は、一定の音を刻んでいた。
何も考えることがなくなると怒りの雨音が、いまは、睡魔を呼び込む子守唄に聞こえた。何時か経ったのだろうか、目覚めた時は、雨が止んでいた。
しかし、そこは、漆黒の闇だった。山の中、足元も滑る、動くことは危険だ。獣の心配はない。もう一度、寝ることにした。それしかなかった。再び、目が覚めた。激しい雨音によって。あぁ、また、動けない。空腹と寒さは、もう限界に達していた。
起きてしばらくすると、全身の震えが止まらなくなった。唇が小刻みに振動し、歯が上下に無意識に動き、ガタガタと鳴っていた。
登るんじゃなかった。天候を甘く見すぎた。 後悔先に立たずか…。睡魔が襲ってきた。無意識の睡魔だ。危険だ。いま、寝れば死を覚悟しなければならない。必死に絶えた。問答、鼻歌など思いつく限りの、意識を保つ手段を試した。起きていれば辛い。寝れば、楽になる。楽になるは、違う意味だ。危険を意味する。
そう思い、耐えて、耐えて、耐えて、た・え・・て・・・。
龍之進の意識は、蝋燭の炎が風に揺らぐ様に、大きく揺れ始めた。蝋燭からは、一筋の灰色の煙が静かにのびていた。
「あやつ、息絶えたか」
と、悲しげに、大言厳法師がつぶやいた。
龍之進は、無味乾燥な世界観にいた。
夢の中なのか、山が桃色に染まり、深緑に覆われ、雪に抱かれる。そしてまた桃色に染まり、深緑を愛でるを幾度か繰り返したような…。
不確かな時間の経緯は季節の色あいでしか分からなかった。何かを考える、何かを思うということもない。ただただ、時間が過ぎている。ただただ、一点を見つめているのみであり、それが苦痛でもなく、動こうとすることもなかった。空腹とか、暑い、寒いがない。不思議な世界に龍之進はいた。
白い光の渦が覆い被さってきた。
龍之進の生前の魂は、朽ち果てた肉体の側を離れないでいた。
ここからは異空間の話である。
「どうじゃ、これが、そなたのここに至るまでの縮図じゃ、お分かりかな」
「なんと哀しい生き様なんでしょう。なんと寂しい16年間なんでしょう」
しばらくの沈黙の後、不意な疑問が浮かんできた。
「法師、私の言葉使いが可笑しいのですが?ほら」
「言ったであろう、言葉は生き物のようなもの。時代に寄りて変わるものよ。こうして通じておるではないか。大儀はない。慣れれば問題もない、自由に話せ」
「確かに違和感がない」
魂界では意思疎通は、波長のようなもので行う、以心伝心である。
龍之進は、数百年を旅する法師の言語中枢を借りて話している。意思のみで話すのはまだ、龍之進には叶わないことだった。
法師は、現代の言語を取り入れていた。龍之進の違和感はそのためだった。
「さて、話を進めるぞ。そなた、この世に未練はあるか」
「未練と申されても…」
「あるようじゃな」
龍之進は、何も言えずにいた。
「あるとすれば…恨み…いや、それはない、自業自得ゆえ…そうか、おみねのその後が気がかりか?優しいのぉ。裏切ったおなごをな」
「裏切られた。もっと、私が世間を知り、おみねを理解していれば、他の道があったのではと思うと…」
「お前という奴は…宜しかろう。さすれば、ここに{ふたつ}のおみねの未来を見せてしんぜよう」
「未来ですか、それもふたつとは?」
「未来は、展開により、無数に変化する。ホームレスが億万長者になるようにな」
「ホームレス?億万長者?」
「細かいことを気にかけるな。自然と馴染んでくる故。空界の住人ではないそなたにはまだ申せぬが、様々な「分岐点」の選択によりて、未来は変わる。その中から、再現で記した、おみねが選択した「分岐点」から始まる生き様、その両極端のおみねの未来をじゃ」
「して、そのおみねの未来とは?」
「良かろう、簡略化して、映像で見せよう。そうじゃ、そなたもその場に連れて行こう。さすれば、心の機微も感じられるであろうからな」
「連れて行くって、私はもう実体がないのでは」
「つべこべ言うでない。いまの状況をそなたが、理解できるなど、はなから思っておらん。いまは、私を信じる心だけで良いは」
龍之進は、法師の言葉を謙虚に受け止めて「はい」と素直に返した。
「では、参るぞ」
法師が経を唱えると、白い世界が渦を巻き、歪み始めた。その渦は、龍の姿となり、大きく口を開けたまま龍之進を飲み込んだ。
龍之進は、龍の口より入り、ダッチロールしながら五臓六腑らしきものを通り抜けた次の瞬間、龍の尾からス~と抜け出たような感覚がした。
そこは、とある一室だった。布団があった。質素な化粧台、小物が少し、生活感が希薄な部屋が現れた。驚いたのは、この光景を見ている自分の位置だ。
天井の片隅にいる。これは一体…、これが霊体というものなのか?
何やら人の気配がする。男女が、もつれるように部屋に入ってきた。おみねか?おみねだ。年の頃は22歳ほどか?会話は聞こえない。男にぞんざいに扱われていた。男に媚びて身を委ねていた。画面が歪み、場面が飛んだ。
「もめたのか?」出て行く男におみねが、何かをぶつけていた。座り込んだおみねが、何かをつぶやいてる。思わず近づいてみた。おみねの頭に手を伸ばしてみた。ス~、やはりな、すり抜けたか。おみねは、怪訝な顔で虫でもいたかのように、手で追い払った。触れると、何かを感じさせられるのか?
「いまから、おみねの心の声を聞かせてやろう」
と、法師が言った、がおみねの言葉は聞こえない。しかし、聞こえる。確かに聞こえる、いや感じると言うのが正しいか…。
「これが、おみねの本心の声じゃ」
「これから見せるは、対局にある、もうひとりのおみねだ。対局と言っても、残念ながら、おみねの運気勢の力では、束縛と自由とまで如何ぬわ。それを踏まえて観るが良い」
と、法師は付け加えた。そして、おみねが空耳を聞いた場面へと戻った。
「そ・そうね…気の…せいね」
おみねは、龍之進の声を聞いたような気がした。おみねは、思った。
{佐吉が言った通り、私を騙すのに失敗した。騙すつもりが、騙された、その敗北感だと?いや、いや、ちがう、ちがうわ。あれは、断末魔の叫びよ。絶対にそうよ。私を騙したのは、龍之進様でなく、佐吉?でも、ねぇさん達も、龍之進様に騙されていると…いや、いや、たかが十両位で、そもそも、花魁になんてなれるわけないじゃない。じゃ、あの十両は何?単に佐吉が龍之進様から、騙し取ったお金じゃないの?きっとそうよ。そうなんだわ。あああ、何てことをしてしまったの…私。下働きから逃れたい気持ち。店には上がりたくない。でも、いつかは上がらなければならない現実。そこに夢のような生活が…。あぁぁぁなんて馬鹿な私。こんな、こんな簡単なことが、何故、分からなかったのよ、私の馬鹿…あぁぁぁ龍之進様、ごめんなさい}
そう思った瞬間、おみねは儚い夢芝居から覚めた。覚めてみて思ったことがある。ここで私が、花魁になりたい、分け前をよこせ…などと騒ぎ立てれば、どんな危害が加えられるか知れない。この場から逃げなければ。幸い佐吉は金を手にして上機嫌だ。おみねは必死で、機嫌を損ねない理由を考えた。
お酒、いやいや、酒など用意したら、酒の相手をさせられ、酔いが回ればどんな暴挙に出てくるかもしれない。だめだだめだ…自然にこの場を切り抜けなければ。抜けれればなんとかなる。何かないの何か…。
いつもの自分、いつもの自分と頭の中で誰かに囁かれた気がした。
あっ、そうだ。いつもねぇさん達に用事を言いつけられる。そうだそうよ、言いつけられたことを忘れていた。それを思い出したことにしよう。それでこの場からは、離れられる。その後のことは、それから考えればいい。そう思うと、おみねの行動は速かった。
「あっ、いけない、ねぇさんからの頼まれごとを忘れていた」
「忘れごと…。そんなのいいじゃねいか」
「そうはいかないわよ。後で、陰で苛められるのは私よ。だめだめ」
「花魁になったら…」
佐吉が言い終わるのを待たずに、おみねはその場を離れた。
「まぁ、いいか。あいつの手助けで、がっぽり儲けさせて貰ったからな。少しぐらい自由にさせてやるさ」
佐吉は、調理場から酒を持ち出し、縁側に胡座をかいた。右手に杯を持ち、ちびちびやり、左手は小判を肴代わりに眺めて、にやにやと至福の時を過ごしていた。おみねはその頃、布団部屋に忍び込み、時間をやり過ごしていた。 何時か経った頃、おみね、おみね、と微かに呼ばれているような気がした。 夢うつろな空間を彷徨っていた。その声が大きくなった。はっとして目が覚めた。うたた寝をしていたのだ。
「はい、ただいま」
おみねは、慌てて声のする方向へ駆け寄った。おみねの人相は、龍之進に初めて会った頃に戻っていた。あたかも、もののけから解き放たれたように見えた。それは、まさに餓鬼によって操られていた、おみねの魔界からの解放だった。
翌朝、佐吉は少し、驚いた。おみねが、自分を見ても、何ら反応もせず、以前のおみねに戻っていたからだ。もっと驚いたのは、また、訛りが出ていたということだ。佐吉は、当分の間、様子を見ることにした。何もなければ、そのままやり過ごそうと思っていた。それから、何事もなく、極々普通の日常が一週間ほど過ぎたて行った。
おみねは、眠れぬ夜を過ごし、翌朝には、なにごともなかったように店先を掃除していた。前日のことは、不思議なほど覚えていないが、何かいい夢をみた感じがして、つい鼻歌交じりの掃除になっていた。
そこに、恰幅のいい、ひと目で仕立てが良いとわかる着物を着た初老の男がおみねの前で立ち止まった。その男は、お付の者をふたり、従えていた。
「何かようかね、掃除の邪魔とよ」
おみねは、仕事を妨げられ、腹立たしそうに初老の男を睨みつけていた。
「気の強い娘じゃな」
おみねは、無言で初老の男を睨み続けていた。
「お前、この店の者か」
「そうだ」
「よし、決めた。店主に会いたい。案内しろ」
おみねは、なんて横柄な爺だ。店主を呼べだと。きっとおらぁを叱りつける気だ。面白くねぇ。腹が立つ、受けて立ってやる。おみねは、事の次第を佐吉に伝えに行った。おみねから事の次第を聞いた佐吉は、煙たそうに店先に出向いた。
「なんでぇ、俺に用か?戯言ならきかねえぜ。とっと帰んな」
「いい話をもってきたんだがねぇ」
「いい話?」
佐吉は、怪訝そうに思ったが、金の匂いに敏感に反応し、取り敢えず、話を聞いてみることにした。
「店先では何だ、まぁ、中で話とやらを聞いてやろうじゃねぇか」
佐吉は、初老の男を店内に招き入れた。初老の男は、お供の者を店先で待たせたまま、躊躇なく、づかづかと店の奥に消えた。おみねは、臨戦態勢で話の結末を待っていた。その間、情報収集と暇潰しを兼ね、お供の者に色々と話しかけたが、一切無視されていた。ふたりが店内に消え、かれこれ四半時が過ぎようとしていた。時折、笑い声が聞こえてきていた。
「おみね、おみね、ちょっとこっちに来い。いや、来てくれないか」
と、上機嫌の声で佐吉が、おみねを呼び寄せた。
「なんだね、旦那さん」
おみねは、困惑気味にふたりの前に鎮座した。
「おみね、あのな…」
佐吉が、興奮気味に話そうとしたのを初老の男が遮った。
「私から話そう、そうさせてくれ」
「そうですかい、では、お頼み致します」
おみねは、佐吉の態度の豹変に鳩に豆鉄砲状態だった。
「おみねって、言うのか」
「そうだ」
おみねは、佐吉の媚びている様子を見て、初老の男に興味を抱き始めていた。その初老の男から、思いがけない、申し出があった。
「おみね、お前を花魁にしてやる」
と、その男が笑って言った。悪意を感じない、穏やかな笑顔だった。おみねは、佐吉の顔を{また、おらぁを騙すのか}と睨みつけた。佐吉は、慌てふためきながら{ちがう、ちがう}と首を左右に激しく振った。さすがに、舌先が乾かない間で、それも同じ手口で…。そこまで佐吉が、馬鹿ではないことを、おみねは分かっていた。しかし、悪戯心もあり、確かめずにはいられなかった。これで、はっきりしたことがある。これは、佐吉の企てでないことが感じ取れた。そして、この企ての主犯が、この初老の男であることが分かった。
おみねは、この初老の男に佐吉のような小悪党的な匂いを全く感じなかった。寧ろ、壮大な思惑で物事を動かしているような、器の大きさを感じていた。{おもしれぇ、とことん付き合ってやるべ}と、おみねは思った。
佐吉とおみねのやり取りは初老の男の気にかかるものだった。
「なんだね、こそこそと。何かあるのかい?」
と、不思議そうに初老の男は言った後、気にもとめない素振りで
「話を続けて良いかな」
そう言って、ふたりを相互に見て、仕切り直した。
「おみね、お前を花魁にしてやろう」
「おみね、おめぇは何てツイているんだ。俺は未だに信じられねぇや」
佐吉は、興奮を抑えきれないでいた。
「まぁまぁまぁ、落ち着いて、佐吉さん、これじゃ、全然、話が進まないじゃないか。静かにしてくれないかな」
「すいやせん」
佐吉は、申し訳なさそうに小さくなっていた。それを見て、おみねは笑いを押し殺していた。それと同時に、この初老の男の偉大さを感じ取っていた。
「これで三度目じゃぞ、もう遮るな」
そう言って、初老の男は、佐吉を睨んだ。
「それでは、話を続けるぞ。お前を花魁にしてやる。おみねが望むならな」
「断ったらどうするね」
「こら、おみね」 思わず佐吉は口を挟んでしまった。
「佐吉さん!」
佐吉は、男に睨まれて益々、小さくなった。
「おもしろい娘じゃ。断れば、この話はなかったことになる」
「なら、話せ」
「よし、聞け」
初老の男は、おみねとのやり取りを楽しんでいた。
「私の裁量でお前を育て上げる」
「はえぇ話、あんたの妾になれってことか。そんなら、まわりくどい言い方をせず、はっきり言え」
「そうじゃない。残念ながら、あっちの方は、とんと役立たずでな。でも、まだまだ、おなごへの執着心は衰えんでな。話しているだけ、時に触れるだけのために、こうして、廓に足を運んでおる」
「それで、楽しいのか。おらぁには、まったく、わからん」
「わからんだろうな。まぁ、男って奴は、死ぬまで色事師でいたい。そう、思っておけ」
「…分かった。でもよ、そんなら尚更、おらぁを花魁にしたって無駄じゃねぃか」
「無駄じゃない。そうだな、簡単に言えば私の道楽の道具になれってことだ」
「おらぁ、道具になるのかね」
腐っても人間だ。それを道具扱いしやがって、おみねは、急に腹がった。
「まぁ、聞け。私は幸運にも、金には困らん生活をしておる。遊びという遊びを尽くした。自分がおなごと出来ないからと、付き人に女を宛がい、目の前で交合させ、それを酒の肴にしたこともある」
「見かけ道理、悪趣味な御仁だ」
「まぁ、そう言うな。男にとって目に見える威厳がなくなれば、それはそれで虚しいもんでなぁ」
「ふん、そう言うもんかねぇ。まぁ、いい、それで」
「やっては見たものの、刺激がない。困ったもんだ」
「おらは、困らないけどな」
「まぁ、聞いてくれ。何をやっても面白くない、直ぐに飽きる。これは結構辛いもんでな」
「お生憎様。おらぁ、飽きるほど何かをしたことがねぇもんで」
「私がさせてやる。そこでだ、新たな刺激を探していた。そこにお前が現れたわけだ、おみね」
「ほら、本音が出た。おらぁに変なことをさせて、喜ぼうって算段じゃねぇか」
「変なことか?確かに変なことかも知れんな。でも、おみね、おみねを花魁にしたいというのは本当だぞ」
おみねは、初老の男の言うことが、計り知れなかった。でも、不思議と悪気がしなかった。
「でも、なぜ、おらぁなんだ。他にもいるだろうに」
「私にも、なぜ、お前なのか、分からん。しかし、私はこの直感で財を築いてきた。その直感が、言うんだ。こいつだってね。私の遊び心に火がついた。どう遊ぶか考えた。すぐに、思いついたよ」
{私にも、なぜ、お前なのか、分からん。この直感}は、大言厳法師の悪戯・画策だった。この初老の男は、この江戸の安泰を築く南功坊天海と深い関係を持つ者。大言厳法師がこの初老の男に憑依し、龍之進・後の龍玄が南功坊天海に憑依する、そのお膳立てのような物だった。法師が魂を置く空界では、分岐点に影響を及ぼす人物を仕立てることが少なくない。歴史を多少歪めても天災が数合わせの如く微調整を行う。特に法師は、空界の中でも異端児。多少の掟破りは譲渡手段と考える者だった。龍玄(龍之進)を手に入れる為、施した歴史の歪曲だった。そもそも、法師も天界の示唆で龍玄を育て上げることになった。それを法師は後にそのことを知った。魂界の戯れに付き合ったものだった。徳川家康を天下人にするのに足りないものを天海を差し向けることで補った。それは龍玄の修行の場ともなった。その話は、天海のお話にて。
「なんだね、それは」
「その辺に転がっている石ころを、私の力で翡翠に化けさせる。下女を花魁に化けさせる。その過程の興奮とくりゃ、想像も出来ない、ああ、わくわくする。こんなに愉快なものはないだろう」
「おらぁ、石ころか。そうだな、おらぁ、石ころだ。このまま、佐吉どんのもとにいたっていつか、たくさんの男の慰みものになるだけ。恋などしたって叶わないだろうし、下手すりゃ、一生ここからでられねぇ…」
おみねは、自分の置かれた立場を奥歯で噛み締めていた。
「あんたの言っていることは、分かった。分かったことにしてやる。それで、おらぁのことばかり話して…ところで、あんたは何もんだね」
「おおそうか、まだ、言っておらんかったか。済まん、済まん。私は、越後忠兵衛と言う。海山物問屋を営んでおる。と言っても、いまは、船を使って各地の骨董品や産物を江戸へ。江戸のものを地方へと手広くやっておる」
「越後忠兵衛さんか…。よし、決めた。あんたの道楽に付き合ってやる」
「そうか、そうか。思いっきりの良さも気に入った」
「それで、おらぁ、何をすればいいんだ」
「了承はこれで得た。それでいいな、おみね」
「それでええよ」
「佐吉どんも宜しいな」
「旦那さんのお気の済むように。おみねは旦那さんにお任せします」
「おらの質問に答えないのか?」
「ああ、後で詳しく説明するから待っておいておくれ。先に大人の話をしなければなりませぬからな」
「ふん、ガキ扱いしやがって。まぁガキだから仕方ねぇか」
越後忠兵衛と佐吉の間には、おみねが知らない所で話がついていた。条件は以下の通りだった。
一、おみねを百両で身請けする。その上で、佐吉に預ける。
二、おみねの管理・決定権は、すべて忠兵衛にある。
三、連れ出しも、廓の掟の範疇で自由。
四、おみねの客は、忠兵衛の許可を得て決める。
五、おみね、専用の部屋を設ける。衣食住は、忠兵衛が手配する。
六、おみねが、いじめに合わないよう佐吉が責任を持つ。
七、おみねの保護と家賃を月極で忠兵衛が佐吉に支払う。
八、おみねが儲けた収益は、おみねと佐吉で分配する。
九、さらに身請けされているので、新たな身請けはなし。
但し、公には、身請けされていないことにし、その秘密を厳守する。佐吉にとっては、この上ない条件だった。
これらは、四半時と短い時間の中で、越後忠兵衛の一方的な案であり、それに佐吉は同意していた。条件もさながら、豪商の越後忠兵衛と知り合えた事ことは、佐吉にとって、大きな後ろ盾を得た気になっていた。
「私から、おみねへの条件だ」
「道具に成る以外、まだあるのかね」
「ある。いや、おみねと話して、思いついた」
「なんだね」
「お前にひと目惚れした。もちろん、外見じゃなく、内面の強さにな」
「うるさい」
まぁ、外見のことは自覚しているが、わざわざ、正面切って言うな。と、おみねは照れながら怒ってみせた。
「済まん、おみねと話していると、なぜか気が楽になるでな。自分でも驚いておる。どうやら、この私が、お前にやきもちをやきそうな。わははは」
「わはは、じゃねぇは。悪ふざけは好かんとよ」
「済まん、済まん。…謝ってばかりじゃの。これだけでも、おみねを世話する価値はある」
「忠兵衛はんは、ほんに変わりもんだわさ」
三人は打ち解け、その場は、和やかな笑いに包まれていた。
「さぁ、変わりもんの忠兵衛はん、条件って何さ」
「そうじゃ、そうじゃった。おみねはまだ、男を知らんわな」
「それがどうした」
「本来なら、私がおみねの床入れ相手になりたいところだが、それは叶わぬ。とはいえ、他の男に奪われることなどは考えたくもない。そこでだ、この条件を受け入れれば、約束事の成立じゃ」
「何なね、条件って、もったいぶるでねぇよ」
「私も、今さっき思いついたでな。それはな…それはな…」
忠兵衛は、急に口ごもった。
「あぁぁぁ、いらいらするとね。役に立たんでも、ついとるもんがついとるんじゃろ。さっさと言いなし」
「これ、おみね」
佐吉は、青くなって、おみねを制した。
「構わん、そこがいい、そこが」
「で、なんだね、条件って」
「それは…それは…」
「どうせ、言うなら、後でも今でも変わんね、さぁ、早く言えとよ」
「それはな、貞操帯をつけてくれぬか」
「貞操帯?何だね、それは?」
「異国の器具じゃ」
「器具?何に使うもんだね」
「女の貞操を守る器具じゃよ」
「貞操を守る?そんなこと出来るのかね」
「完全じゃないかもしれない。それで私の気は休まる。どうじゃ」
「それは、痛いのかね、おらぁ、痛いのは嫌じゃよ」
「痛くはないはずじゃ、少々、不便だろうが」
「どんなもの何じゃ、その貞操帯ってのは?」
「私もまだ現物は見たことがない。絵で見る限り、鉄か頑丈な革で出来た、腰に巻く器具じゃ」
「まぁいい、それを付ければいいんだな、よし、付けてやるわさ」
得体の知れない物だったが、忠兵衛の遊び心に乗っかろうとおみねの好奇心がそう決断させた。
「そうか。では早速手配しよう。手配に時間が掛かる。それまで貞操を守るんだぞ」
「おらぁを信じろ、信じるしかねぇだよ」
「私は、心配性でな。こうして話ていると、心配になってきたわ。おみねが、襲われるんじゃないか、暴走するんじゃないか…あぁぁぁ、だめだ、だめだ。初めておなごを好きになった時のようじゃよ」
「大丈夫かね」
「佐吉どん、どうかね。おみねを預からせて貰えないか」
「そりゃ、構わないが。そんなことをしたら、外の世界を知って、もう、戻りたないとか、おみねの気が変わるんじゃねぇですかねぇ。どうです、裏庭におみね専用の部屋を作り、花魁支度みてなもんを忠兵衛さんがなすっては。心配なら、鍵は忠兵衛さんだけがお持ちになればいい。世話も、忠兵衛さんが信用できる者を寄こされたら」
「それはいい、それじゃ、早速、手配しよう」
「おみねの部屋が出来る迄は、忠兵衛さんがお預かりになっては」
「それはいい、それはいい」
越後忠兵衛は、財力とコネをふんだんに使い、貞操帯とおみねの部屋の手配を共の者に言いつけた。そして、共の一人に耳元で何やら囁いていた。
忠兵衛と佐吉は、正式に約束事を書面にして交わした。おみねは、しばらくし、里帰りと言う事で忠兵衛が連れ出した。
忠兵衛と佐吉の計らいで、おみねが外の世界への希望をできる限り、抱かないように、籠屋を呼び、日が暮れての移動となった。
おみねは、かどわかしにあったような面持ちだった。忠兵衛の別宅に連れていかれたおみねの部屋の前には常に、忠兵衛が手配したくノ一のような目つきの鋭い女がふたり、鎮座していた。翌日、忠兵衛が訪ねてきた。見知らぬ男を連れて。
「おみね、どうじゃ、不自由はしてないか」
「何が不自由だ、監視つきで」
「ま、そう言うな。あそこにいては、経験できないことをしてるんだからな、許せ」
退屈と監視を除けば、天国だと、おみねは思っていた。
「今日は、おみねに受けて貰いたいことがある」
「なんだね、改まって」
「他でもない、約束事の件じゃ」
「まだ、何かあるのか」
「そうじゃない、確認じゃ。確認」
「なんだい、やっぱり、やりたいだけじゃないか。自分ではできなかからって、こんな爺に代わりをさせようって魂胆だな」
「落ち着け、ここにおられるのは了庵先生じゃ」
「おらぁ、病気か」
「そうじゃない、確認したいだけじゃよ。一度、心配し始めたら、とことん解消しないと気が済まない性分でな、悪く思うな」
忠兵衛は、悪戯ぽい笑みを浮かべて言った。あの時、共の者に耳元で囁いていたのは、この手配のことだったんだ、とおみねは悟った。
「で、どうすればいいんだ」
「了庵先生、どうすれば…」
「では、そうだな、この台の上に座ってもらおうか」
おみねは、怪訝そうに座った。了庵は、おみねの両膝に手を置いて、左右にがばっと勢いよく開いた。
「何すんだ!」
おみねは、了庵の突然の行為に驚きを隠せないでいた。
「何すんだって、お前が生娘か調べるんだろ。そうだろ、忠兵衛さん。おみねに伝えてないのかね」
「ああ、忘れていた。済まない。おみねを信じないわけではないが、私の性分なんだ。はっきりさせないと気が休まらないんだ。許してくれないか」
「構わねぇけど、何をどうするんだ、それをちゃんと言え。でないと、こっちとらも落ち着かねぇだ」
「そうだな、おみねの言う通りだな。了庵先生、宜しく頼みます」
「おみね、忠兵衛さんの気持ちを察してやらないか。わしは忠兵衛さんとは長い付き合いじゃが、これほど、おどおどした忠兵衛さんを見たことがない。お前のことは忠兵衛さんから聞いておる。聞いておるこっちのほうが恥ずかしくなるほど、忠兵衛さんの心は何も知らない少年のようじゃよ。笑っちゃいけないが、老いらくの恋ってやつみたいだな」
了庵が話している間、あの恰幅のいい忠兵衛が、そわそわとして落ち着きがない。おみねには、忠兵衛が可愛く見えていた。
「分かった。おらぁどうすりゃいいんだ」
「簡単なことじゃ、すぐに済む。お前が生娘か調べるだけじゃ。お前の道具が手付かずか調べるために、ちょっと、拝見するだけのことじゃよ」
「そんなの恥ずかしいじゃねいか」
「でも、忠兵衛さんの申し出を受けたんじゃろ。なら、従わねばな」
おみねは、黙って、納得するしかなかった。
「良いな」
おみねは、覚悟を決め、小さく頷いた。
「では、始めるぞ。痛くないから、体の力をお抜き」
気丈なおみねも、心臓が飛び出しそうな恥ずかしさを感じていた。
了庵は、改めておみねの両膝に手を当て、股を開かせた。そこは、幼さが残る顔とはちがい、もう立派な道具の様相を形成していた。
了庵は、障子の裏側で待機させてい女中に頼んでおいた湯の入った桶を受け取ると、その湯で丹念に手を洗った。
了庵は、「どれどれ」と言いながら、おみねの秘孔を開き、そこへ鳥の嘴のような器具を秘孔に差し入れるとぐりぐりと把手を回し、嘴の先を開けて行った。そこを覗き込みやす用に蝋燭の明かりを灯し、中を覗き込んだ。
「忠兵衛さん、良かったのぉ。わしがみる限り、おみねは生娘じゃ」
「そ…そうか、良かった」
「忠兵衛さんや、あんたの眼で確かめんか。わしはあんたの性分を熟知してるつもりじゃ。自分の眼で見ないと安心できんじゃろうて」
「忠兵衛さんも見るんけ、おらぁ、恥ずかしいとよ」
「あぁぁ、わしは、その…、あの…、 先生が言うなら信じる」
もじもする忠兵衛を了庵が、ぐっと引き寄せ、肩を押さえ、おみねの秘孔が特等席で見える位置に鎮座させた。
忠兵衛は、今まで幾多のおなごの秘孔を見たことか。なのに、まるで初めて見た時のようなときめきを感じていた。
了庵は、より忠兵衛に見えるように、嘴のような器具をそのまま忠兵衛に持たせ、体制を維持させた。了庵は、用意していた筒状の行灯をおみねの股間に入れ、秘孔を照らしてみせた。
「どうじゃ、これでよく見えるじゃろ」
忠兵衛は外見は見たことがあるが、その奥の奥を、こんなにじっくり見たことがなかった。了庵はその道具に指を入れ、道具の奥を指さした。そこには、出臍のような形態の肉の塊が、ヒクヒクと動いているのが見えた。
「忠兵衛さん、見えるかね。烏賊の口のようなものに、湯葉のような濁りがみえるじゃろう。その湯葉が白く、大きく簡単に開かなければ生娘と思って、まず、間違いない。本当の生娘の証は、その奥に膜のようにあるようじゃが、わしも実際には見たことがない。だが、蘭学書にはそう書いてある」
「あぁ、あぁ、信じる、信じるとも」
忠兵衛は、納得がいった満足気な笑みを浮かべていた。おみねは、そっと、目をあけた。そこには自分の股間に首を突っ込み、仲良く頭をくっつけ合って、楽しそうにはしゃぐ、初老の男たちがいた。
おらぁは見世物小屋か!と、思ったが、その無邪気さに愛おしさを覚えていた。忠兵衛は、草むらで珍しい昆虫を見つけ少年のように、目をきらきらさせていた。了庵は、そんな忠兵衛を、おみねの股間から離れさせた。そして、優しくおみねの膝を閉じ、着物を整えてやった。それから、十日程経った。越後忠兵衛と了庵が再びやってきた。
「十日もほっといて何してた」
「済まん、済まん。でも、踊り、礼儀作法、小唄など、退屈はしなかっただろう」
「本当に、こんなのが役にたつのかねぇ」
「おみね、私は、お前を花魁ではなく太夫に育てたい。京の都ではほんのひと握りの高貴なお方しか相手にしないような…。まぁ、願いじゃがな。太夫は無理でも教養があり高貴な花魁に育てたいのじゃ。中身のある女になれ。そうすれば、品らしきものもついてくるよってな」
「そんなもんかねぇ」
「そんなもんだ」
「そんで何かよ、ふたり揃って来たのは…あ、あれが手に入ったかと」
おみねは、あれを思い出そうとしたが、名称を思い出せなかった。
「そうじゃ、その通り。察しがいいな」
「馬鹿にしてんのか」
「まぁ、そう言うな」
「ご両人、本題に入ろうではないか。放っておくと、また、ぐだぐだやりそうだ。勘弁、勘弁」
「先生」
忠兵衛とおみねが、同時に言った。三人の笑いで、部屋が満たされた。
忠兵衛は持参した風呂敷包みを開け、例の器具を取り出した。
忠兵衛の店には、優秀な買い付け人が幾人かいる。常に、大名や裕福な商人が喜びそうな品を異国からまたは、全国を回って、調達していた。
忠兵衛は、自分がそうであるように、金持ちの道楽を満足させることも、商売にしていた。その中の喜三郎が一ヶ月前に長崎の出島で見つけ、買い付けた品物だった。それを、まさか自分が使うことになるとは、忠兵衛は、その時まで、思いもしなかった。それが、いま、ここにある。
忠兵衛は、喜三郎から入念に商品の取り扱い方を学んでいた。初めて見る形の品物だった。喜三郎からは、本来は鉄で出来ており、重い。それを強固な革で作製された貴重な品だ、と伝え聞いていた。
忠兵衛は同じ物、または改良された物を、定期的に仕入れるように喜三郎に命じた。衛生面、故障などに早急に対応するためだった。在庫がでても、売りさばく自信もあった。それだけ、金持ちゆえに陥る猜疑心が招く、独占欲、 支配欲をくすぐる商品だと確信したからだった。
「これを、おらぁが付けるのかね、不気味な形じゃな」
おみねは、しげしげと手に取って、観察し始めた。その間に、了庵が生娘の最終診察を行なったが、当然問題はなかった。
「まぁ、いいさ。さっさと付けてしまえ、気が変わらないうちに」
「それじゃ、つけるぞ」
それが合図の如く、おみねを立たせ、躊躇なく着物の裾を捲くりあげ、器具を履かせた。了庵におなご生活にこれ以上の不便ないように、取り付け位置の微調整を行わせた。
「これで、いいな、それでは仕上げだ」
了庵は、南京錠を取り出し、カチャと嵌めた。
「これで、ひと安心だ」
忠兵衛は、安堵の一息をついた。
「忠兵衛さん、おみねを独り占めしたいのなら、こんな手間を掛けずして、囲えばいいではないのか。何も、こんなことをする必要はない、と思うんじゃがのぉぅ…」
了庵は、二人の関係を見て、自然な疑問を忠兵衛に投げかけた。
「確かにそうだな。でも、それなら、単なる金持ちの道楽じゃないか。私はおみねを見た時、こいつは大輪の花を咲かせる、と直感した。しかも、廓という鳥小屋でだ。おみねの運命は廓で展開してこそのこと。廓の女が、まともに廓を出るには、年季を終えるか、身請けされるか、死ぬか、しかない。その中で、ひとりの女がどう生きるかを確かめたかった、というのが本音だ。それは、おみねもおみねなりに、理解してくれているはずじゃ、のう、おみね」
忠兵衛は、おみねがこのままでいたいと懇願してくるのではと、不安になっていた。もし、そう、懇願されたら、それでもいいと思うようになっていた。理解してくれている、というおみねへの問いかけは、忠兵衛にとって、賭けでもあった。
「おらぁ、このままでいい…」
「そうなのか、おみね…」
「でも、でも、おらぁ…やっぱり、このまま…」
忠兵衛は、覚悟を決めた。このままでいいじゃないかと。おみねにすれば、今の生活は、廓の生活とは比較にならないほど、幸せなはず。それを、自分の道楽で奪い取ることはない、珍しく弱気な忠兵衛がそこにいた。それほど、おみねとの関係が、短い期間に人間味を帯びていた。
「おらぁ、できれば、このままがいい。…でも、でも、おらぁ、確かめてみたいんだ、自分が、忠兵衛さんの手を借りたとしても、どう変わるか、変われるかを」
「おみね…」
忠兵衛は、おみねを強く抱きしめたくなる気持ちをぐっと抑えた。了庵は、何故か涙が溢れて仕方なかった。三人三様の思いが、静寂な部屋を覆い尽くしていた。しばらくして、忠兵衛が口を開いた。
「おみね、ありがとう、私の道楽に付き合ってくれて、ありがとう」
「礼を言うのはまだ早いとね。礼を言うなら、おらぁが立派な花魁、太夫になった時じゃろ、忠兵衛さん」
初めて忠兵衛、とおみねに呼び捨てされた。それが忠兵衛は、嬉しかった。
「おみねの気持ち、確かに受け取った。私の力の限り、売り方に尽力する。しかし、手前味噌の売り方はしない。おみねの誇りを守るためにな」
「ありがとう、忠兵衛さん。おらぁ、頑張るだよ」
ふたりの中に確かな信頼関係が、生まれた瞬間だった。
「さて、おみね、塩梅は如何かな」
おみねは、四股を踏んだり、屈伸したり試していた。
「違和感があるが、慣れるだろうて。使ってみなければ、分からないこともあるじゃろうて」
「そうだな、不具合があれば遠慮なく、言いなさい。できる範疇で対処するから、なぁ、忠兵衛さん」
ひとつの目標に向けて、ふたりの計画は、強固なものになっていった。
「これから、おみねの警護と世話係として、お絹を付ける。貞操帯は、衛生面と耐久性に問題がある。よって、定期的に交換が必要になる。それをお絹に任せる。ここだけの話だが、お絹はくノ一だ。訳あって、私が面倒をみていてな。義理堅く、信頼できる者だ。安心して、身を任せるがいい」
それから、二ヶ月ほどが経ち、おみねの専用の部屋が完成した。突貫工事だが、言葉使いや踊り、小唄、礼儀作法などを習得させていた。これからは、廓で時間管理し、おみねの花魁への道のりが継続して行われることになった。
おみねの仕立てに掛かっている頃、忠兵衛は、財力のある者たちに、面白い廓の女がいる、と関わりのある豪商や大名に風潮して回っていた。
忠兵衛の考えた売り文句は、「貞操帯の花魁」というものだった。そこには、開かずの扉を開けた者のみ至福が微笑む、思案するは至福を逃すことになりますぞ、と但し書きが囁かれていた。
男女の交わりが、廓の女の宿命というのを逆手にとった、刺激的な売り文句だった。誰もが、開かずの門を誰よりもの早く開けたい、と思うようになっていった。中には忠兵衛への恨みから挑む者も出来きた。
誰がおみねの貞操帯の鍵を開けるか、客たちの競争心と好奇心を充分に煽り立てていた。金のある者たちは競って、おみねを指名し、金のない者は誰がおみねを落とすか、巷の噂を賑わすのに事欠かなかった。
おみねの噂は、豪商や大名の口伝てで、瞬く間に全国津津浦浦にまで広がっていった。おみねの人気は鰻のぼりに高まった。人気が高まるにつれ、おみねを落とすことより、豪商や大名たちの図式は、意地の張り合いと化していった。忠兵衛の思惑通りだった。
人は、金を得ると権力を手に入れる。権力を手に入れれば名声を欲しがる。名声を得た者はその頂点を得たがる。その欲は、誰もを膝負かせたいという、優越感が成せる業だというこを、忠兵衛は身を持って知っていた。
いまや、おみねは、押しも押されぬ立派な花魁になっていた。客の中には強引に、貞操帯を外そうとする強者もいた。貞操帯の強固さに屈する者、護衛のお絹に屈する者、様々。その武勇伝もまた、おみねの人気の火に油を注いだ。
忠兵衛は、全国を仕事で飛び回り時を費やしていた。配下に任せればいい、勿論、そうした。しかし、顧客の驚く顔を見たさに自ら進んで全国行脚を楽しんでいた。
おみねは、いつものようにお座敷へと向かった。お付の者が、「おみね太夫のおな~り~」と声を上げ、障子をゆっくり開けた。
「ごきげん、よろしゅう」
おみねは、軽く一礼し、座敷に一歩踏み入れ、顔を上げた。そこには、驚くべき人物が、座っていた。
「あなた様は…あなた様…」
おみねは、言葉を詰まらせた。そこにいたのは、恩人とも呼べる越後忠兵衛だった。
「おお、立派になられて、うん、うん、まぁ、座っておくれ」
おみねは、付き人の手を借り、ゆっくりと座った。そして、異例ではあるが、お絹以外の付き人を所払いさせた。
「お久しぶりでありんす」
「ああ、久しぶりじゃな。お絹も良くおみね、いや、おみね太夫を守ってくれて、この通り礼を申す」
お絹は、自分への気遣いに、ひれ伏すように頭を深々と下げた。
「お人がわるう御座いまする。忠兵衛様なら、特別にお会いするのも叶たのに。ほんに、驚き申したえ」
忠兵衛は、特権を使わず、この場にいた。予約を入れて、もう、幾日が経ったのだろうか、やっとの再会を果たしていた。
「待つのも、これ、趣向なり。待たされれば、待たされるほど、おみね太夫の人気の凄さを感じておった。待たされる時間がこれほど、楽しいとは思わんかったわ」
忠兵衛は満面の笑みで、喜んでいた。
「忠兵衛様のご尽力、何とお礼を申し上げれば良いか、ほんと、この通りえ」
高価な髪飾りの重さの頭を気にしつつ、可能な限り、こうべを垂れた。
「いや、いや、おみね太夫の賜物よ」
「あちきは、存じてありんす。忠兵衛様が、諸大名や豪商たちに、あちきのことを良く言って頂いたことを」
「私は、私の仕事をしたまでよ。それにしても、見れば、見るほど、立派になられたなぁ」
「やめてくれなし、顔から火が出てしまいまする」
「いや、いや、私はこんなに嬉しいことはない。礼を言うのは私のほうじゃ」
「私は、忠兵衛様の言いつけを守っただけでありんす」
「言いつけ?私は何か言ったかな?」
「いややわぁ、お忘れでありんすか」
「済まん、済まん」
「あ、懐かしい。その済まん、済まん」
おみねと忠兵衛、お絹は人目のないことをいいことに大笑いした。
「初めてお店に上がる時の事。忠兵衛様は、こうおしゃったでありんすえ」
「何て言ったかのう、とんと覚えておらんわ」
「おみねのいいところは、天真爛漫のところだ。話し方、声の調べも良い。だから、身分の違いなど気にしないで、思ったことを遠慮なく、言えば良い。でも、いきなりは駄目じゃよ。良く相手を見て、観察し、馴染んでくれば、 少し少し様子を見て、身分の壁を崩していけ。帰り際には、幼馴染や友人と会ったような気分にして、帰ってもらえ、とな」
「そんなこと、言ったのか」
「そうでありんす、こうもおしゃたでありんす」
「まだ、何かいとったか」
「おっしゃいましたとも。身分も権力も手に入れた者は、ひれ伏されることに慣れてしまっておる。遊びにきてまで、そうされては、何ら日常とは変わらぬ。面白くない。ここは廓。この世で唯一、身分関係をひっくり返せる場所じゃ。公の場ではできないものも、密室ならできる。その利点を活かせ。人は、普段できないことをする時、興奮を覚える。これを怒る者がいれば、そやつは、偽物の成功者じゃ。相手にするな。厄介な問題を持ち込まれるだけじゃからな」
「よくもまぁ、そんなことを覚えておったのう」
「当たり前でありんす。これが、あちきの大切な心得となってありんす。 これがあったからこそ、今のあちきが、ありんす」
「そうか…そうか」
「そうですとも。それより、あれから、何年が経ち申した?」
「あぁ、何年じゃろか。年月の流れは、早いもんじゃなぁ」
「あれから、とんとご無沙汰で。如何されておしたんえ」
「相変わらずじゃ、まぁ、歳だけはとったがな」
「それなら、あちきも、とったでありんす」
他愛ない会話は、数年間の時間を一機に埋めていった。
「それで、忠兵衛様、今日、会いに来てくださった本当の理由を」
「ほう、わかるか」
「分かり申すとも。忠兵衛様の言う通り、人を観察して、学んだであ・り・ん・す」
「そうか、そうか」
忠兵衛は、成長したおみねを見て、心底喜ばしかった。
「それで、何でありんす。あちきに用事とは?」
「それは、他でもない。例の決まりごとの件じゃ」
「決め事、はて、何でありんす?」
「貞操帯じゃよ」
「それが、どうしたと言うのでありんす」
おみねにとって、貞操帯はいまや寝食を共にする、体の一部のようになっていた。
「おみねの成長を見て、もう良いのでは、と思ってな」
おみね太夫は、おみねに戻った。
「何言ってるがね、商売道具を外せと。外せば、おみね太夫が、ただのおみねになるがね。何、気弱なこと言ってるだね」
「しかし、私の我がままで…、そなたの女の幸せをもうこれ以上は…奪えん、そう、思ってな」
「そんなことはなかとよ。これに、どれだけ、おらぁは救われたか。いまは、お侍の刀と同じとよ。おらぁ、外さんとよ」
「おみね」
「感謝することはあれ、恨んだことなどないけん。嵌めるのもおらぁが納得して決めたこと。おらぁ、頑固やけそれは、受けられんとよ」
「おみね」
「おらぁ、決めてんだぁ。忠兵衛さんの目が黒い内は、外さねぇと。これを外すと忠兵衛さんが…忠兵衛さんが…」
「分かった、分かった。では、こうしよう。もし、私に何かあったときのために最も信頼する番頭に託しておこう、この鍵をおみねに渡すようにと」
「縁起でもねぇ。そんな弱気な忠兵衛さんは、嫌いじゃ」
「分かった、分かった、もう、泣くな。化粧が崩れるではないか」
忠兵衛は、おみねの決心に、女ではあるが男気を感じた。改めて、あの時、ひと目見て決めた、人生最後の道楽が間違っていなかったことを確信した。
それから、二年が経ったある日のことだった。おみねは、佐吉に呼ばれた。花魁支度前のすっぴんのまま、佐吉に呼ばれて部屋に入った。
「何でありんす、話って」
と、声を掛けると同時に、あの佐吉が泣いているのが、目に入った。おみねは直感で何があったのか悟った。
「おみね、おみね、忠兵衛さんが…」
現実を前にして、おみねはその場に泣き崩れた。そんなおみねに佐吉は、忠兵衛からの文を渡した。そこには、侘びや感謝やおみねへの思いが綴られていた。おみねの涙で文(ふみ)の墨文字が滲んで、読めなくなるほどに。佐吉は、泣き崩れるおみねの前に正座し、一枚の覚書を広げて見せた。
「おみね…長い間、お疲れ様であった。いまを持って、そなたを年季奉公明けとする」
と、言うと佐吉は、覚書を真っ二つに切り裂いた。
「おみね、これでお前は自由だ。少し遅いが、外の世界で女の幸せを掴んでおくれ」
「佐吉どん」
「楽しかったぞ、お前と忠兵衛様に出会えて、本当にな」
「…」
「さぁ、もう、お前は廓の女じゃねぇ。さっさと出て行きな。早う早う」
佐吉は、涙を拭きながら、おみねを追いやった。
「早う行け。表に忠兵衛様の使いの番頭の美濃吉さんが、待っている。あとは、美濃吉さんにすべて任せてあるらしいから、早う、行け」
お絹が、おみねの代わりに身の回りの片付けを行ない、おみねを先導し、美濃吉の元へ連れて行った。おみねは用意された籠に乗せられ、ある屋敷に連れて行かれた。放心状態のおみねは、言うがままに付き人によって、身支度をさせられた。身支度を整えたおみねは、再び、籠に乗せらた。連れて行かれたのは、大きなお寺の前だった。そこは、越後忠兵衛の葬儀会場だった。
忠兵衛からおみねのことを託された美濃吉は、卒なくおみねを商家の娘に仕立て上げた。おみねは、美濃吉から葬儀の作法、祭壇の前で泣き崩れない、言葉を発しないなどの注意を受けた。滞りなく、忠兵衛を見送ったおみねは、再び籠に乗せられた。
着いた場所は、洋館のような建物だった。そこは、忠兵衛が、かつて明智光秀を拉致して、天海として生きる覚悟をさせた場所だった。
異国の建物を真似て作らせた別宅の一室に美濃吉はおみねを招き入れた。そこには、全身が写せる姿見が用意されていた。
「旦那様からおみねさんに、これをお渡しするように、頼まれています」
と、美濃吉はおみねに鍵を手渡した。
「それでは、しばらく、ここでお休みください。半時ほど経った頃、お迎えに参ります。もし、何かあれば、戸の外にお絹を控えさせておきますので。では私はここで失礼致します」
おみねは、手渡された鍵をしみじみと眺めた。おみねにとって、この鍵を手にするのは初めてだった。器具の不具合や、衛生上、病いの時など外す場合は、すべて、お絹が行っていたからだ。おみねは、姿見の前に立ち、着物の裾を左右に開き、その両端を帯に挟み、裾を固定させた。下半身だけ、生まれたままの姿に。違うのは、長年苦楽を共にしていた、貞操帯だけだった。おみねは、感慨深く、鍵を鍵穴に挿し、回した。ガチャという音と共に貞操帯は、外れた。姿見には、本来の下半身がありのまま写されていた。その時、忠兵衛の文に書かれていた言葉が、忠兵衛の声で聞こえた。
「おみね、長年に渡り、嫌な思いをさせた。許せよ。さぁ、これで、名実ともに自由だ。今まで守り続けた貞操を、そなたの思う者に捧げるが良い。それが、せめてもの私の贖罪とさせてくれ。そなたが思う者がいれば、美濃吉に頼べばいい。力を貸してくれる。幸いにも、店の者は全国津津浦浦にいるのでな、役にたつと思うぞ」
おみねは涙ながらに、考えた。考えた末に、強烈な記憶が蘇った。
「あぁぁぁぁ」
おみねは、憑き物がとれたように、泣き崩れた。おみねの脳裏に浮かび上がった名前。それは、決して、忘れてはいけない男の名前だった。
「あぁ、龍之進様…」
おみねは、両膝を内側に畳むように、その場に泣き崩れた。場面が歪み、法師の声が聞こえた。
「龍之進の魂よ。よく聞け、おみねは、決して、お前のことを、忘れていたわけではない。お前に、ひどい思いをさせた、申し訳ないことしてしまったという、強烈な後悔の念が、退行現象をおみねにもたらしのじゃ」
「退行現象とは」
「簡単に言えば、己の精神状態を安定に保つのに、不都合な記憶を無意識的に消し去ることじゃ。本人の意思というより、脳が独自で判断する防御本能のことだ」
「脳?、防御本能?」
「もうよい、いずれ理解できる」
魂の自分の頭がファンファン熱をもつと、法師の言っていることが理解でき始めた。なるほど、言語中枢とやらを共有すると、その知識も、幾ばくか共有できるということか。なるほど、なるほど。と龍之進は心の中で、納得していた。
「そのようなことに、感心しなくてもよいわ」
「えっ、分かるんですか?」
「意識を共有しておる。言葉にせずとも、分かるわ」
うかつに、物事を考えられない、な、と龍之進は思った。
「あの場面を思い起こしてみろ。お前の叫びを聞いた後のおみねの行動を」
「あっ、そう言われてみれば、欲をかくと、佐吉に何をされるか分からないと考えた後のおみねですね」
「そうじゃ、変化に気づいたか」
「…、あっ、そうだそうだ。翌日、何事もなかったようになっていた。それと、言葉使いや性格が、私の知っているおみねに戻っていた」
「そうじゃ。お前への罪悪感が、おみねを壊しかねなかった。そこで、おみねの脳は、お前と会えないでいた一ヶ月余りの記憶を、脳の奥深くに封印したのだ」
「それで、佐吉も驚いていたんだ」
「それが、心の支えであった忠兵衛の死と、守り続けた貞操を、おみねの好きな者に捧げるが良い、という言葉によって、封印が解かれたのだ」
再び場面が歪み、洋館の一室にいる、おみねの元へと戻った。おみねは、泣き崩れたまま、龍之進の名を呼び続けていた。
「龍之進様、お会い…いたしたい。どこにおられるのですか。おみねは、おみねは、龍之進様のことを好いております。会って許しを乞いたい。許されるなら、これから先を一緒に過ごしたい。あぁぁぁ、龍之進様…」
「おみね」
思わず、龍之進の魂は、場面に飛び込み、 おみねの側に立った。
「あれ?」
龍之進の魂は、拍子抜けした思いに包まれていた。
「何だ、場面の中に入れるじゃないか」
すかさず法師が、笑って龍之進の疑問に応えた。
「場面に入れないなど、言っておらん」
龍之進の魂は、愛おしさからおみねを勢いよく抱きしめた。しかし、何の感触もなく、すり抜けた。
「分かったか、場面に入ったらとて、どうにもならぬわ」
と、法師は呆れた様子で龍之進の戸惑いを嬉しんでいた。
「何も出来ない、感じられない、では、側にいる意味がない」
龍之進の魂は、何も出来ない自分の立場にもどかしさを訴えた。
「わしが、魂のそなただけに接触してたと思うか。浅はかな。そなたの肉体が風化したのち、彷徨える魂に波長を合わせ、生前の過去に戻り、幾人かの人間の肉体を借り、そなたの真意を探っておったのじゃ」
「肉体を借りるとは?」
「誰でもと言う訳にはいかぬが、対象者と何らかの関係を持った者、持とうとしている者に、魂を同化させる。さすれば、その者の肉体を借り、生前と何ら変わらぬ五感を共有できるのじゃ。今のそなたには無理じゃな」
「貴方の元で修業すれば、おみねを抱きしめることができるのですか」
「できる。但し、生前の龍之進ではなく、誰かを借りてじゃがな」
「無理は承知です。その力をいま授かることは…」
「出来ぬ話じゃの。そもそも、そなたがおみねを抱きしめるのは無理じゃ」
「どうしてですか」
「そなたが、修行し、現世へと融界出来たとしても、その頃にはおみねは、現世におらんからの」
「融界とは?」
「現世の人間界と魂界の融合を意味する」
「そんな…そんな」
「何もかも、自分の思い通りにいくなどと思うな、おごり以外の何ものでもないわ。どうしても、思い通りしにしたければ、餓鬼になれ。餓鬼は願いを聞く代わりに、その者を魔界へと導く。結果として、その者も不幸になる。もしくは、その者が他の多くの者を不幸にする。餓鬼に認められれば、邪鬼として、現世で生きられるぞ。餓鬼の手下としてな。そなたがそれでもいい、と餓鬼に魂を委ねれれば、今でもおみねを抱けるじゃろう。その結果、おみねは修羅の道に入れられ、耐え難い苦しみを得るじゃろうて。お前が掛け替えのない喜びを得るのじゃからな。それでよければ、餓鬼を紹介してやるわ」
「申し訳ないですが、身勝手ですね」
「構わん。感情的になるわ、まだ、そなたが 霊魂であるがゆえのことじゃからな」
「霊…魂ですか」
「霊を浄化できぬ内は、生前の突出した感情がそなたを支配するゆえにな。浄化されなければ、浮遊霊や自縛霊となる。そなたの霊は私が責任を持って、成仏させてやるわ」
おみねの映像は既に跡形もなく、消え失せていた。
「さて、龍之進の魂よ、ふたりのおみねを見てどう思った。まぁ、どう思おうが構わんが。このふたりがどうなったか、知りたいであろう」
「はい」
「分岐点の選択で、おみねの人生は、全く異なったものになった。そなたとおみねの他界した時間が離れ過ぎておるゆえ、時間の共有ができぬがな。よって、結果のみを知るがいい。そなたの残留思念を解き放つためにもな」
法師は両手を大きく広げ、周りの空気を胸元に凝縮するように集めた。掌に集まった空気は、丸みを帯び、橙色の珠となった。それを、突き放つと二つに分かれ、しゃぼん玉のような玉の中に、それぞれのおみねが映し出された。その内のひとつが前に、移動してきた。一人目のおみねだった。
「知るが良い、これが、佐吉の罠に係り、自己嫌悪を悔いるも他の者のせいにして生きた一人目のおみねの顛末じゃ」
そこに映し出されたおみねは、幾多の男を愛し、騙され、借金を重ねていく。聞こえてくる言葉は「馬鹿やろう」「こん畜生、一昨日(おととい)来やがれ」などだった。
畳を叩く、物に当たる、泣き崩れる。その場面の連続だった。次に納戸のような暗い部屋に寝るおみね。咳込み、顔色は赤黒く、喉に白い布を巻いていた。強く咳込み、血を吐く。連続した咳込みの後、引き攣るように顔を歪めて息を引き取った。梅毒と結核。よくある遊女の結末だった。
映像が終わった途端、映像が映し出されていた珠は弾け消えた。
もうひとつの珠が前に出てきて、映像が始まった。その場面は、あの洋館の一室の続きだった。おみねは、番頭の美濃吉に龍之進の探索を願った。しかし、一ヶ月後に届いた知らせは、近江の国辺りからの消息が不明というもので、そのまま探索は終了した。
おみねは越後忠兵衛から、多額の金数を受け取っていた。その金数で探索を継続した。届いた知らせは、近江の国で琵琶湖を見たいと比叡山に入ったことまでは分かった。その後、付近の湯治場や宿に痕跡はなく、探索は行き詰っていた。
「龍之進様は、いまどこにおられるのですか」
おみねは、晴天の空を見上げていた。頬をつたう涙が、輝いていた。
おみねは、残った金数と忠兵衛から譲り受けた全財産を、駆け込み寺で有名な青蓮院に、全額上納した。そして、そのまま、尼僧となり、以後の人生を人助けと仏への道に捧げた。おみねの後半の人生は、龍之進への懺悔と後悔に一貫した。
「これで、龍之進様にお会いできる…」
と言い残し、笑みを浮かべて逝った。享年73歳、生娘のまま、波乱の生涯を終えた。映像を映し出していた珠は、静かに、消え去った。
「どうじゃった、分岐点での選択の大切さが、少しは理解できたか。本来なら、そなたの分岐点を見せるのが筋だが、私と共にするならば、関わるも者の辿った人生を見せる方が、分かり易いと判断した」
と、法師は言い、ふたりのおみねの成仏を唱えて、再現を終えた。
「ありがとう、御座います。これで思い残すことはありません」
「そうか。その顔つきでは、決心もついたようじゃな」
「はい。この魂、大言厳法師にお任せ致します」
龍之進の魂は、晴天のごとく清々しい顔立ちで、法師を見、頭を垂れた。
「そうか、確かに預かり申す」
「お願い致します」
「そなたの決心、揺るぎないものと受け取った。そこでだ、異例ではあるが、入界祝いなるものを与えようぞ」
「それは何で御座います」
「うん、他でもない。おみねの件じゃ」
「おみねで御座いますか」
「おみねの成仏を願った時、おみねの霊が話しかけてきてな。そなたに会えないか、というではないか。はてさて、このような懇願は、丁寧にお断りするのが常套ではあるが…そなたを私の一存で招き入れたのも異例のこと。ゆえに、魂界の罰を受ける覚悟で、叶えてやろうと思ってな。そなた、どうする。そなたが決めるが良い」
「そんなことが、そんなことが、出来るなら、是非ともお願い致したい。しかし、先ほど無理だと言われませんでしたか」
「そこはほれ、表があれば裏もあると言うことで、深追いするでない。いづれ分かる時がくるゆえ。と言うことで、まぁ、いい、乗りかかった船じゃ。 私も罰を受けるだろうが、最近、忙しく、休養したかったゆえちょうど良い休息になろうて…良し、決めたぞ。悪事を働くとするか、あははははあ」
法師は、神界霊界、融合融解、魂霊迎合、異体聖業、懇願成就と唱え、数珠を持った右手を差し出した。すると、白き空間に渦が巻き始め、龍之進に近づき、飲み込んだ。白き渦がどこかに吸引されるよに消え去ると、根本中堂の廊下に座らされていた。
「龍之進様…龍之進様…」
間違いない、おみねの声だ。
「おみね、おみね、おみねだね」
龍之進は、姿の見えない、おみねを必死で探した。
「お久しゅう、御座いまする」
龍之進の目前の空間が歪み、陽炎のような人影が現れ、徐々に輪郭が鮮明になっていった。そこいたのは、紛れもない、映像で見た二人目のおみねだった。先程まで、微かなかすれ声だったが、輪郭と同様に明確になった。
「龍之進様、おみねで御座います」
「おみねだね、おみねだね」
「そうで御座いまする」
龍之進は、小躍りしそうな感慨に満たされていた。
「法師のお計らいで、いま、こうして、お会い出来ておりまする」
「法師、改めてお礼、申し上げます」
龍之進は、感謝の気持ちでいっぱいだった。
「私は私の生涯を悔いてはおりません。ただ、龍之進様への仕打ちが胸を突き刺し、それが、心残りでした。改めて、浅はかな、私目をお許しくだされ、これ、この通りで御座いまする」
おみねは、立ったまま、ゆっくりと頭を垂れた。
「許すも許さぬもない。元はと言えば、私の浅さが招いた結果。私が思慮深かければ、他の道もあったであろうと思うとその方が、無念極まりない」
「それでは、おみねを恨んでなさらないと」
「あぁ、恨んではいない」
「嬉しゅう御座います」
そう言った後、おみねが、す~と滑らかに近づいてきた。龍之進はそれに合わせて、立ち上がった。側まで来たおみねの肩にそっと手を伸ばした。
感じる、感じる、おみねの感触を。
龍之進は、興奮を隠しきれなかった。
「私が、法師にお頼み申し上げたのを、快く承諾くださったのです」
「おみね」
龍之進は、夢にまで見た、おみねをいま 抱きしめている実感に酔いしれていた。
「苦しゅうございます、龍之進様」
「あ、済まぬ」
そう、言うと、力を緩めると、おみねは二・三歩、退いた。
「嬉しゅう御座います。改めて、私を抱きしめて戴けますか」
「あぁ、勿論。さぁ、私のもとへ」
おみねが、一歩踏み込んだ瞬間、周りが濃い灰色の曇天に覆われた。龍之進は何が起こったのか、周りを探りながら、おみねを引き寄せようとした。
まさにその手がおみねに触れようとした時、雷鳴が激しい音を唸らせ、電光が龍之進の側に落ちた。その凄まじさに思わず龍之進は目を閉じた。
再び、目を開けた瞬間、目の前のおみねの形相が、劇的に変貌していた。それは、まさに鬼の形相だった。
「何、何があったんだ、おみね」
「おみね、だと!軽々しく呼ぶな!わらわは、お前の精せいで苦渋を舐める人生を送らされたわ。この恨み、そなたを喰ろうて、晴らしてやるわ」
鬼の形相のおみねの口が大きく裂け、龍之進の頭上に覆い被さってきた。
「そなたを喰ろうて、わらわは、現世に転生するのじゃ」
龍之進は、自分でも驚く程、冷静でいた。そして、常軌を逸したおみねに言った。
「私を食らうて、そなたの気が晴れるなら、喰らうが良い。それで、新たな人生を得られるなら、喜んで喰われてやろうぞ」
おみねは、聴き終えるか終えないかの間合いで、
「この偽善者め、地獄へ堕ちろ」
と、鋭い牙を剥き出し、襲いかかってきた。
「因果なものよな」
それが、龍之進の最後の言葉だった。如何程の時が経ったのだろうか、まぶた越しに白い光を感じた。
「存在しているのか」
龍之進は、ゆっくり目を開いた。そこには、崇高な景色が、何事もなかったように、広がっていた。
「よくぞ、耐えたな。自己犠牲の精神、しかと見せてもらったぞ」
と、法師が満足気な笑みを湛えて声を掛けてきた。
「お人が悪う御座います」
「済まぬ。鬼を怖がるようでは、今後、務まらぬゆえにな」
「おみね、おみねは、どうなったのですか」
「後ろを見るがいい」
法師の指示で振り向くと、穏やかな顔のおみねが、立っていた。
「龍之進様、申し訳ありません。龍之進様に会いたいという願いを叶える代わりに、法師に頼まれたのです。それで…」
「もう、分かった。分かり申した」
「済まなかったな。どうしても、そなたという男を試したかった。私もふたつの罪を犯した。おみねの復刻とそなたの無許可入界。それだけに、確固たる確信が欲しかったゆえにな、悪く思わんでくれ」
法師は、確かに空界の掟を犯した。
空界が属する魂界には幾多の界があった。その話はまたの機会に。魂界の従事者を裁くのが雷界の従事者だった。法師は、幾度か制裁を受けていた。試したい気持ちを抑えられず犯した罪だ。その全てが今の掟への不具合を訴えての者だった。しかし、ずば抜けた育成者として才覚を発揮し、出世の階段を駆け上がっていた。良くも悪くも目を掛けられた従事者だった。
法師は、遠からず、審議にかけられ、何らかの罰を受けることを覚悟していた。それを犯しても試したいことがあった。それは無駄に長い育成期間の偏向だった。その為に龍之進を試したかった、自分の理論が正しいかを。
法師は策士であり、好奇心旺盛であった。その好奇心が、確立的な入界制度に疑問を感じさせずにはいられなくなっていた。
これが上手くいけば、空界の上層部にあたる 雷界に稟議をあげるつもりでいた。※雷界は元々、電界としていた。業を積んだ崇高な魂が天に龍がごとく登り、形成した世界。それを機に電の尾がとれ、雷となり、雷界となった。雷界は、天界、宙界以外の全ての総本界であり、規律を重んじ、捜査権を持ち裁きを行う裁判所の役割を果たしていた。
「そなた達を弄ぶような真似をして済まん。そのお詫びとして、ふたりに特別な時間をやろう」
「それは何で御座いますか」
「そなた達の切なる思いを叶えようぞ。そなた達が望めば、の話だが」
「してそれは」
「ふたり、結ばれたいか」
「それは、叶うのであれば」
龍之進は勿論、おみねも同じ思いだった。
「さすれば、結ばれよ」
法師が、神界霊界、融合融解、魂霊迎合、異体聖業、懇願成就と唱え、数珠を天空に投げた。数珠が飛び散り、さらに細かく分かれ、龍之介とおみねに纏わりついた。すると映像だったふたりが実物の者となった。それを確認した法師は、「邪魔者は失せる」と残し、姿を消した。
法師が立ち去っと後、龍之進とおみねは、静寂を取り戻した、根本中堂の廊下に立っていた。ふたりは、見つめ合い、抱きしめ合い、唇を重ね合った。
光の帯が、雲を突き抜け、差し込んできた。天国への階段と誰かが言ったの思い出していた。光の帯はふたりを包み込み、ゆっくりと、ゆっくりと、天へと導いて行った。濃厚に交わり合う唇に、お互いの幸せを感じていた。ふたりの思いが高なるにつれ、衣服が脱げ落ち、消えていく。一糸まとわぬ姿となり、絡み合いながら、螺旋を描き、天へと上がっていく。
胸と胸が、腰と腰が、うねり合う。龍之進の腰が、おみねの腰に埋め込まれていくにつれ、おみねが反り返る。腰の辺りから、幾多の桜の花びらが舞った。龍之進は、露わになった乳房を唇で覆った。唇は、乳房から首へ、首から額へと這う。おみねは、龍之進の胸に顔を埋めた。龍之進は、おみねの艶やかな髪を手櫛でときながら、自分の胸に優しく包み込んだ。ふたりの体は、重なり合い、徐々に融合していった。やがて、二つの体は一体と化した。本当の意味で、ひとつになった。
龍之進とおみねの溶け合うように一体化した体は、橙色の閃光を放ち、やがて球体となり、さらに輝きを増していった。球体は、積乱雲を抜け、真っ青な天を見上げる位置で止まった。
「よう来たな、龍之進。ここがお前の棲息領域となる、天照空界、こと、空界である」
「ここが、私の新たな生き場所か」
「そうじゃ、ここで、様々な流儀を修得するがよい」
「よろしくお願い、致します」
「さて、龍之進よ、いや魂の龍之進よ。そなたの魂はおみねの魂と融合した形となった。後に分離できるが暫くは、雌雄同体じゃ。主導権はそなたにある、がおみねもまた他の従事者が手に入れたい魂となる。その共用を求める者も現れよう。結界を結ぶがそれを解く強者も現れよう。それを受け入れるかはそなたが判断するが良い」
「はい」
「それでは、そなたに天照空界の一員として、称号を与える」
「称号で御座いますか」
「そうじゃ、称号は<龍>、名を<厳>とする。龍は、そなたの生前の一字、厳は私の配下を意味する。これより、流儀修得に励めよ」
ここに後の、龍玄が誕生 した瞬間だった。
「有り難く、お受け致しまする。骨身を削りし、精進致しまする」
「骨身とな、そのようなもの、比叡の山の肥やしになっておるは」
「そうでした」
ふたりは、打ち解け合っていた。
「のう、龍厳」
「はい」
「この空界のみならず、木も、水も、火も、土も、日も金も宙もその他、すべての界層、どこへ行けども縦社会だ。しかし、権力を振りかざし、牛耳られることはない。縦社会といっても、人間界と接した時点で解かれる。言わば、師弟関係の時だけじゃ。そなたの場合は、この私。そこで、我流派には敬語などというものは不要と致す。正しくは、敬語など使わずして、尊敬の念を通じ合える関係を良しと致す故。常識として持たねばならぬが、基本的にはないと思え。我流派は、世間でいう溜口を活用し、人身を掌握し、知らず知らずの内に相手の心中を掌握する術の一つと考えよ。大事は人柄じゃよ。溜口を受け入れやすいな。これが、人を操る、いや、動かす極意と捉えよ。私の経験から得た流儀じゃ。よって、これからは、言葉など選ばずに、思ったことを言えば良い」
「分かりました」
「そなた、早う人間界と関わりを持ち、そこで多くの<徳>を得よ。その徳の数により、名の<厳>は、改字され、十画を下回った時、一人前とみなされる。徳を減らせば画数が増える。師の段階になれば、好みで画数を増やした称号を名乗れる。空界は漢字文化が根強く、浸透している。よって、名を見れば、その者の力量を推し量ることができるということじゃ。ただ、そなたは、私の我が儘勝手で入界させたゆえ、他の者との接触がどこまで許されるか、 雷界の判断を仰ぐことになる。他と接触叶わぬの裁きになる可能性は大。寂しい思いをさせるが許してくれ。その分、時間の許す限り私がそなたの面倒をみるゆえ」
「お気遣いなく。元々天涯孤独。ですが今は、ここにおみねがおります」
と、龍厳は胸に手をやった。
「我々は、実体がない。それでは、不都合が多い。ゆえに偶像とはいえ、このように人型を用いておる。人間界では、見える者もおるが、見えぬが通常ということを肝に銘じておくがいい。おみねに関しては、そなたと生きることになる。それがふたりの合意じゃ。そなたが、力を付け、おみねが望めば、個別の魂として、その願いを叶えてやってくれ」
「わかりました」
「そなたは二十歳に満たずに息絶えた。なのに、おみねの生涯を見ることができた。なぜだか分かるか」
「時空を、越えた?ということでしょうか」
「そうだ、ただ違うのは、時間の概念じゃ。人間界の十二年が我らの一年。一年は一ヶ月となる。最初に会った時から、おみねの映像を見せるまでに、 実は六十年程が経っておった。それ故、おみねの生涯を見れたわけだ。その逆もできるがそれは自らが体験するがよい。遡れるのは四百年、未来には三十年。しかし、実質は三年か、これも体験して確かめよ」
「そのようなことが…」
「昔の者の中には、そなたのようなこれからとこれまでを行き来したような不思議な体験をした者も少なくない。しかし、彼らは我らのような者との繋がらりがなかった。いやあったやも知れぬ。ただ、継続した話を聞かない。だとすれば時空の狭間にたまたま嵌ったと考えるのがよかろう。その体験は、迷信や昔話、はたまた妖怪などの仕業として、後世に残されている。時空で言えば、浦島太郎の玉手箱かな。そなたがここへ来たのは、西暦でいえば千六百七十年近いということになる。私としてもこの世界の全てを知るものではない。ここにこうして生きているそれが全てじゃ。いらぬ詮索は身を滅ぼす結果に成やも知れぬ。それこそ、神のみぞ知るじゃよ」
「ここでは、私の歳は何歳とされるのですか」
「そうじゃな、そなたが江戸から大坂を目指した。その過程で、長期滞在もあり、魂が肉体から離れたのが、江戸を出て二年余り。そこから計算すると四歳半程か」
「五歳にも満たないと…」
「本来、魂の年齢は、呪縛解き放ちから、時計が動き始める。呪縛とは、著名人を除き、そなたの存在が、生きている者の記憶から消えた時、呪縛が解き放たれる。三回忌とか言うであろう。あの回忌とは残された者が亡くなった者への悲しみが和らぐ時間を表しておる。回忌が少ない程、早く転生できると言う理屈だ。ほれ、死んだ子の歳を数える、と言うのがあろう。あれは、この世をこの世とも分からず亡くなった者に早く転生させ、やり直させてやって欲しいと言う願いから、誰ぞやの口を借り、伝えたものだと聞いておる。数えるなは、心配を掛けない、行わない、残留を浄化せよの教えよ。その点、幸いにもそなたは、天涯孤独。友人と呼べる者もいなかった。おみね以外に。即ち、私も、言い方は悪いがおみねの死を待っていたことになる」
「まさか、おみねの命を法師が縮めたとか」
「それはない。我らに出来ることは、死神が管理する生命の蝋燭を操作することぐらいじゃな」
「どういう意味ですか」
「我らが関わった者、またはその者が強く望んだ時、その者に関わった者の中から、ひとつを選択し、幾らかを削ぎとり、風前の燈火に陥った蝋燭に付け替えること。上手く火が灯れば、その者は誰かの分だけ、延命できるということになる。勿論、死神が気付けば元の木阿弥じゃが、奴らとて、担当が多く、そこまで気がまわらないというのが現状じゃ」
「そんないいかげんな」
「まぁ、そう言うな。生死のやり取りを常とする死神にとっては、命など書類を右から左に受け流すのに等しいは。言ったであろう、立場が変われば、物の見方も変わると」
「そんな無慈悲な…」
「だから、儚いというではないか」
「…」
「生命体の数は、我らが推し量ることのできない世界の方々が、管理していると聞き及ぶ。そのやり取りは、まるで金融政策のように調整されていると聞く。彼らの意図に沿わない結果が、出れば、戦争や大事故、大地震や大型台風などの災害を用いて、大幅な調整を行っているらしい。完璧な世界ではない。人は人と接し、またその人が誰かに接する。無限の展開が広がる。そこに、餓鬼などの勢力が介入してくる。そうなれば、予測は予測。常に微調整を必要とすることになる。さらに、火の国、日本は八百万神がおられる。それだけ自由な発想が存在する、と同時に、それに反する餓鬼の発想も存在する。世の中は、八百万神に対し、餓鬼の数は極端に少ない。ただ、低級霊や邪鬼などは多い。この図式を例えるなら、こうだ。万人に降り掛かる災難は、病や怪我だ。病や怪我の被害の大小を、低級霊や邪気の力の強弱と例えよう。人は、手術や薬によって、病を克服する。医学の発展、進歩が、幾多の病を不治の病から、完治可能な病へと導いておる。他人を思いやる気持ちや良心が蔓延すれば、妬みや憎しみなどの悪意の発生を抑制できる。即ち、低級霊や邪鬼は克服できる範疇にあり、いまだに不治の病や殺人ウイルスなどの特異な存在が、餓鬼ということになる。人が生きるとは、発展、進歩を遂げること、それが、結果として、皆が住みよい世界を創造すると、我らは教えられておる。簡単に言えばな」
「頭の中が膨らむ気がするのですが」
「それでいい。私の一言一言が、聞こえる言葉でなく、その真意をそなたの脳へ送り込んでおるのじゃから。これも修行の一環じゃて」
「空界の修行とは学問を学んだり滝行のようなものではないのですね」
「だいぶ、分かってきたようじゃな。寝る子は育つと言うじゃろ~て」
「私は子供ですか…確かに私は、ここでは四歳半…ですね」
「魂年齢で言えば、零歳児かな(笑い)。済まん済まん。私の持てる知識の種をそなたに撒いておる。その種は、睡眠中に定着する。睡眠とは無になる時間。許容範囲を超えれば、欠伸がでるでな。遠慮はいらん、堂々と寝るが良い。それほど、吸収している証ゆえに」
「欠伸ですか…人間界の学び方とは、かなり違うというか、楽というか…」
「そうじゃな。空界では、この方法が合理的とされ、採用されておる。人は、高い知能を持つ生命体だ。それゆえに厄介なこともある」
「厄介とは、これほど楽なことはないと思いますが」
「楽、楽と言うな。人は、知識を得る場合、その者の経験や考えが、無意識・意識的に加味されてしまう。それが、元々ひとつの真意であったはずのものが、捉える者の考えが加味され、変化してしまう。真意が捉えるものによって変化してしまうという不具合は、共通認識の妨げになるゆえにな。それを防止するための術なのだ」
「言わば、伝聞と同じことですね。伝える者によって内容が変化してしまうと、いうことですね」
「そうじゃ。これは、私も知らぬ大昔に、神が幾人かを集められ、人が幸せになる経を伝えたと聞く。聞いた者は、それを多くの者に広めるために、それぞれの目的地に散らばった。その旅路の過程で、幾多の経験を良くも悪くも繰り返し、また邪気などの巧みな洗脳を受けた。その結果、幾多の宗教や経典が生まれてしまった。その反省から、空界では思念を直接植え付ける方法を とっておるのじゃ」
「私が知るだけでも、南無阿弥陀仏、南妙法蓮華経、アーメンなどがあります」
「それらは、元々ひとつの経典が変化してしまったものと聞く。元々の経典がどんなものだったのかは、知るすべもない。経典は、心の安らぎを得るもの。それを、教える者の都合のいい発想や利益が加味されて、広まることは嘆かわしい現実だ。本に心が痛むわ」
「確かに」
「勿論、元々の経が分からぬいま、我らの学ぶ教えが真の経などと奢ることはない。いいものはいい、不備は正す、その柔軟性は常に持つよう、心がけよ、よいな。人の教え、宗教に上下関係などないゆえにな。邪教には注視すればよい」
「して、その判別方法は?」
「簡単に言えば、常に自分が誰よりも優れていると、何ら根拠もなく風潮する者、神の生まれ変わりなどと言うのは疑って憚りない。日本の天皇制度はいい例かもしれない。天皇が神の生まれ変わりと言うのはいささかだが、少なくとも、千年以上継承している事実は、他に類を見ない。権力者による宗教への弾圧はあったとはいえ、ひとつのことを継承し続ける意識は、誇りに思うことに憚りないでな」
「不変、継承には、重大な意味が 含まれるということですね」
「なぜ、不変でよいのか、なぜ、継承されるのか、そこには、人が生きるのに大切な要素が含まれているのだろうよ」
「そうですね…中心人物が変わるたびに考えや風習が変われば、真実はぼやけて何が真実かもわからなくなります。継承する難しさ、誇りを経験することが民度の品格を築くのでしょうね、あれ…ふあぁぁぁ」
龍厳は、大きなな欠伸を躊躇いなくした。
「おっ、出ましたな。少し、詰め込み過ぎたかな。寝ればよい。寝る子は育つ。無意識で素直な気持ちで得た情報を、寝ることで、脳が整理し、知識、物の考え方として吸収する。睡眠は、心意の安らぎ、栄養なのでな。さぁ、寝ろ、寝ろ」
法師の言葉が、子守唄のように聞こえ、龍厳は穏やかな眠りに着いた。眠りの中で、法師によって撒かれた真意の種は、龍厳の脳に時間を掛けて、根付いていった。それぞれの真意は、プナシスによる回路によって、複雑に、多岐に渡り、結合、融合を繰り返していた。まるで、細胞分裂するが如くに。
ここに後の、龍玄が誕生 した瞬間だった。
天照空界のお話は、また後程、番外編とでも致しましょうか、それでは、良い眠りを願っております。
最初のコメントを投稿しよう!