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「では、よろしくお願いします」  脇に置いてあったカバンを持ち上げて、晃平は笑顔で頭を下げた。その拍子に抱えていた沢井野(さわいの)グループの封筒から書類が落ちる。散らばる書類に周りの人が笑いを堪えているのがわかった。 「はい。お気をつけて」  応対していた店長が書類を拾い上げ、笑顔で晃平に手渡した。 「すみません……僕、なんだかいつもやらかしてますよね」 「いえ。この間はスーツの背中に半額シールがついてたみたいでしたよ。それに比べれば」 「ホントですか! 初耳です」 「パートさんたちが、あんな可愛い子なら倍額でも買ってあげたいのにって笑ってましたよ」  モテモテですね、と店長に微笑まれ、晃平は苦く笑いながら事務所を後にした。売り場を通り、店舗を出る。晃平は掲げられたスーパーの看板を見上げてため息をついた。 「また今日も失敗しちゃったよ……」  高校を出てから五年。晃平は現在父親が経営する大手チェーンスーパーの本社に勤めている。社長令息とはいえ、すぐに重要なポストに就くわけではなく、新卒の晃平は現在管理部のエリアマネージャーとして働いている。けれど、もう冬だというのにこうして毎日ミスや失敗の連続だ。どこの店舗でも温かく見守ってくれているのがありがたい。 「今日は大丈夫だと思ったんだけどな」  一度くらい完璧に店を出てみたいものだ、とため息をつきながら晃平は駐車場へと向かった。社会人になったものの、低い身長のせいか華奢な体格のせいか、いつまでもスーツは似合わず、女性的でどこか幼い顔立ちは大人になってもそのままで、時折高校生に間違われへこむことも多い。いつまでもこんなふうに半人前な上、今日は特に朝からこんな調子で、きっと今日は夢見が悪かったせいだな、とぼんやりと昨日の夢を思い出した。そして胸がぎゅっと痛くなるのを感じて、それを頭から追い出すように首を振った。 「いまさら、なんで瞬の夢なんか……」  高校卒業前夜を再生するような夢は、晃平が時々見る夢だった。たぶん、人生のうちであれほど悲しい失恋はなかったせいだろう。  まあいい、今は仕事だ――そう思って晃平は車に乗り込んだ。助手席に放り投げていたタブレットPCを手に取り、次の予定を確認する。今日はもう一店舗廻らなきゃいけない。既に日が傾き始めた空を見上げ晃平がため息をつきながら鍵を差し込みセルを回そうとした。けれどいつもの音が鳴らない。不審に思い、二度三度と繰り返すが、車は沈黙を保ったままだった。 「古い車だけど……」  寿命にはまだ早いだろ、と思いながらも半ば諦め、それでもボンネットくらい開けてみるのがいいだろうと晃平は車を降りた。しかし、車に関しては全くの素人、セルフ給油もできない晃平にボンネットを開けてわかることといえば、その車が止まっているという事実くらいなものだ。ふう、とため息を吐いて、晃平はスマホを取り出した。会社に連絡して会社経由で車を回収してもらおう。その後店舗の方にも時間が遅れることを連絡して……と頭の中でこれからやることを唱えながら会社の番号を表示する。電話が管理部につながった、その時だった。 「動かねえの? セル廻る? 油入ってる?」  突然現れた赤茶の髪のつなぎ姿の男に、晃平はびっくりしてスマホを落としてしまった。その時画面に触れたのだろう、通話は途切れてしまった。 「だ、大丈夫ですから。お気になさらず」  手にはスーパーの袋が提げられていて、買い物帰りに興味を引かれて立ち寄ったという風情だった。油染みのついたつなぎと、足元は汚れたワークブーツで、どうみても会社勤めとは思えない。   晃平は言いながらスマホを拾い上げ、再び会社へと掛けようとした。けれど男は、そんな晃平を無視して運転席のドアを開ける。鍵を回し、うん、と頷く。 「あんた、これ、バッテリー上がってるよ。長い時間ライトつけっぱなしにしなかった?」  再びボンネットの中を覗きながら言う男の言葉に晃平は、そういえば、と思い出す。ここへ来る途中、バイパスを通った。その時ライトをつけたはずだ。しかし、走れば充電されるし、止まっていた時間だって、せいぜい一時間だ。 「バッテリーが上がるほどは……」 「そういうの繰り返してれば上がることもあるよ。ちょっと走って長く止めてっていう乗り方なら尚更」  そう言って男は顔を上げた。その瞬間、晃平は、あ、と声に出してしまった。男の方も同じだ。晃平は思わず視線を外して、自分のつま先を見つめてしまった。  今朝、夢で見たばかりの顔は、随分大人になっていたが確かに瞬だった。身長もあれから伸びたのだろう、あの頃より大きく見えるし、なにより薄かった体に外から分かるほどの筋肉がついている。あの頃よりも逞しく男らしくなった瞬が、あの頃と変わらない表情でこちらを見ていた。 「晃平? 晃平だよな?」 「瞬……」 「すっげー久しぶりじゃね? 高校でてから全然会えなかったもんなー。同窓会にもお前来なかったし。なんで? 忙しかった?」  二年前案内来ただろ、と瞬はあの頃と変わらない口調でまくし立てた。  なんではこっちが聞きたい。なんで瞬はあの頃のことを汚点と思わないのだろう。いくら男子校で男しかいなかったとはいえ、三年も男を抱いてたなんて瞬にとっては汚点だろう。一歩外に出れば星の数ほど女がいて、瞬くらいのルックスならば選り取り見取りというやつだったはずだ。自分に会えば瞬があの頃を思い出して嫌な思いをすると思ったから接触しないようにしていた。それがわからないほどバカだったかと、晃平は浅いため息を吐く。 「質問多すぎ。たまたま、日程がゼミの研修と重なっただけだ」 「ゼミ! 研修! 俺には無縁の言葉だな。そういえば、晃平ってK大だったよな。うちのクラスから進学者が出たって、松セン喜んでたもんな」  たしかに難関であるK大に合格した時、担任の松田は職員室で絶叫するほど喜んでくれた。そもそも晃平たちが通っていた高校はあまりレベルの高いところではない。晃平だって、高校入試当日に風邪などひかなければ行かなかっただろう。中学浪人にはしたくないと父親が金で入れた高校だったし、愛着もなかった。でも、よかったこともある。男ばかりで気が置けない仲間に囲まれる生活は心地よかったし、家を出て寮で暮らすことは晃平にとって羽を伸ばすことに似ていて自由だった。なにより、瞬に出会って恋を知った。無駄な三年では決してなかった。だから、本当は同窓会にだって行きたかったのだ。けれど、瞬に会うのは怖かった。――また、あの辛い片想いをしてしまうかもしれないと思ったら、怖かった。  現に今だって大人びてずっと男らしくなった瞬に、鼓動が早くなっている。 「瞬は、今もおじさんの工場に?」 「うん。もう五年目。はえーよな」  瞬が、そりゃ歳も取るよ、とため息を吐いた時だった。晃平の手の中にあったスマホがピリリと音を立てた。さっき突然切れてしまってそれから掛け直さなかったから心配したのだろう。相手は会社だった。 「あ、車の話なら、俺なんとかしてやるから会社にはそう言えよ」 「けど……」 「いいから。再会記念だ」  瞬はそう言うとつなぎのポケットから自分のスマホを取り出した。そのまま会話を続けて牽引の話をしている。この場合甘えた方がいいかもしれないと、会社には近くの工場で見て貰うと話し、電話を切った。
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