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「嬉しいな、晃平くんと二人で食事なんて」  ドレスコードでもありそうなフレンチの店の一角で、井垣は本当に嬉しそうに笑った。 「結構食べてると思うんですけど……昼とか」  その向かい側で慣れない食事に多少緊張しながら晃平が言った。井垣がまあね、と笑う。 「でも今日は少なくともおれは晃平くんのことを『恋人』だと思って連れて歩いてるからね。特別だよ」  だからワインも奮発したし、と井垣はグラスを傾けた。確かにワインを知らない晃平でも安くはないんだろうなとわかった。晃平の心はそれだけで沈む。それだけ想われているということは、悪い気はしない。けれど、それは嫌われるくらいなら、という話だ。こちらに想い人がいる以上、その気持ちに応えることはできない。 「井垣さん、僕は……井垣さんのこと、好きにはなれないと思うんです」 「そんなのは想定内だよ。おれが賭けてるのは、一緒にいることで生まれる情だ。おれを振り切れないくらい深い情が生まれれば、好き嫌いを超えた存在になれるはずだよ」  凄く好きではないけど離れられないなんて夫婦はざらにいるよ、と井垣が笑う。 「――ま、それはずっと先のことだと思ってるけどね。今はずるい方法をとってでも晃平くんと近づきたいんだよ」  井垣はそう言って細く笑んだ。自分でずるいと評価するのだから、井垣も必死なのだろう。自分を追い詰めたくないという気持ちはわかった。わかるけれど、晃平には応えられない。晃平の心の中は瞬で占められている。 「晃平くんも、今は慣れないかもしれないけど、きっとこれが日常になるよ」  井垣はそれだけ言うと、食べようよ、と笑った。 食事を終えて井垣と並んで歩く。井垣から、部屋へ行こうという言葉はまだない。せめて晃平の決心を待とうと思っているのかもしれない。二人は当てもなく歩いた。沈黙が重い。こんなことでさえ、瞬との違いを思い知らされる。晃平が心を決められないまま、やがて飲食店が立ち並ぶ通りへ出た。 「もう少し飲んでいこうか、晃平くん」  しばらく行った先で井垣が突然そう口にした。晃平が顔を上げる。 「この先に馴染みの店があるんだ。晃平くんを自慢してからにするのも悪くない」  井垣は微笑むと晃平の手を取った。 「この手が冷たいのは、寒さのせいだけじゃないことくらい分かるよ」  酔ってからでいい、と井垣は晃平の手を離し、そのまま頭を撫でた。 「すみません……」 「君を苛めたいわけじゃないからね。そのくらいの譲歩はする」  井垣の言葉に頷き晃平は歩き出した。  井垣が連れてきた店は、いわゆるゲイバーで、出会いのスペースにもなっているようだった。井垣を迎えた常連たちが、晃平を値踏みするように見つめる。いたたまれなくて井垣に視線を送ると、優しい目で、大丈夫、と笑う。 「井垣さんのステディなの? 今夜あたり来たら遊んでもらおうと思ってたのに」  常連の一人が晃平を見ながらため息を吐く。井垣は、悪いね、と笑った。 「しばらくここには来ないよ。来ても、彼と一緒だ」 「えー、一人に決めちゃうの? もったいない」 「そう? オレは、この連れの子にお相手願いたいけど」  一人に言われ、晃平が身を固くする。その間に井垣が、こらこら、と入る。 「彼はだめだよ。おれのものなんだから」  そう井垣が言った、次の瞬間だった。 「勝手に横取りすんな!」  そんな声と共に晃平の体が何かに引かれて傾ぐ。その体を、大きな胸が受け止めた。  晃平は顔を上げて驚いて声を詰まらせた。 「――っ! ……しゅ、ん……」 「やっと見つけた! 何フラフラしてんだよ、このバカ!」  上がる息を押さえ込みながら、瞬は晃平を真っ直ぐ見やって言い放った。 「ごめ、瞬……」  謝る晃平を見て、井垣が、謝ることないよ、と言葉を挟んだ。 「晃平くんの気持ちを考えたことはあるのか? どうして、おれとここにいるのか」  井垣が勝ち誇ったように笑う。晃平は自分のものになるしかない――それを確信しているのだろう。 「しらねえよ。考えたこともない。晃平は俺のだから。そうだろ、晃平。一生一緒だって言葉、忘れてないだろ?」  瞬が言うと、井垣が盛大に笑い声を立てた。 「やっぱりバカだな、君は。その頭には車の知識しか入ってないみたいだな――言ってあげなよ、晃平くん。バカな元恋人に。もうお別れだってね」  井垣が晃平を見つめる。晃平はその目から視線を逸らし、瞬を見上げた。  言わなければいけない。井垣を選ぶのだと。もう瞬はいらないのだ、新しい誰かと幸せになってくれ、と。非情に思われてもいいから、きっぱりと言わなければ、瞬の働くあの場所を救えない――救えないと分かっているのだけれど、唇はその言葉を吐きたくないと拒んだ。  だってこんなにも好きなのだ。会うだけでこんなにも瞬を愛しく思うのだ。何と引き換えても手放せないと、心が訴える。 「僕は……僕……やっぱり、瞬がいい。瞬が好きだ、瞬じゃなきゃ、やだ……」  晃平は瞳から次々と流れる涙を拭うこともせず瞬を見つめた。それを見ていた瞬が眉を下げ、幾分ほっとした顔をして頷いた。 「よかった。どんな事情があったか知らないけど晃平が無事でよかった」  瞬がふわりと晃平を包み込む。店の方々から口笛やら声が飛んでいたけれど、瞬はそれに構わず晃平の耳元で、帰ろう、と囁いた。 「晃平くん! 本当にいいのか? それで」 井垣が真剣な目を向ける。瞬が働く場所を守れなくなってもいいのか、とその目に問われている気がした。それでも、もう晃平には井垣を選ぶという選択肢はなかった。 瞬が自分を見つけてくれた。それだけで晃平の心は決まったのだ。 「……ごめんなさい、井垣さん。僕、誰に恨まれてもいい、罵られてもいい。だけど、やっぱり瞬だけは諦められない。裏切りたくないんです」 「事情は帰ってからたっぷり聞くよ。とにかく帰ろう」  瞬が晃平の肩を抱いて歩き出す。その温もりを感じながら、晃平は瞬に従った。
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