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午前中はデスクワークに追われていた晃平は、その間に瞬からメールを受け取った。車の整備の見積もりがメインだったが、本文の追伸には、瞬自身からのメッセージも添えられていた。昨日は楽しかったということと、何か悪いことを言ったならごめんという謝りの言葉だった。瞬は悪くないのにこんなことを言わせてしまったことが辛かった。確かに、瞬の立場に立てば、昨日の自分は突然すぎて変に映っただろう。
「……ごめん、瞬……」
それでもパソコンの前でそう呟くだけで、晃平は瞬の言葉に何も返せなかった。受領しました、というメールだけを送って見積もりをプリントアウトする。晃平はそれを持って社長室へと向かった。どうせまた視察か会議で本人はいないだろう。秘書に預けておけば今日中に返事が貰える筈だ。そのつもりで晃平は社長室のドアをノックした。しかし、どうぞ、と言った声は秘書のものではなく、社長本人だった。
「失礼します。昨日お話していた、営業車の整備の見積もりをお持ちしました」
社長室に入った晃平は、デスクチェアに座っている社長に向かって歩き出した。机の脇には書類を持った企画部のプロジェクトチーフである井垣が立っていた。晃平はその人に目顔で挨拶をしてから社長に見積もりを手渡す。井垣は嬉しそうに微笑んで晃平を見やった。晃平はその顔からつと視線を外す。
「ああ……自走できたか?」
「いえ。現在も預けたままです」
「そうか。じゃあ、そのまま進めてもらいなさい。これを総務に出して、手続きの手配を」
社長は見積もりに了承の判を押し、晃平に戻した。晃平は、わかりました、とそれを受け取るとすぐに社長室を後にした。こんなところで井垣に会うとは思わなかった。井垣は去年まで管理部に居た人間で、卒業前の研修で晃平を担当してくれた人物だ。普通で言えば世話になった大事な人となるわけだが、この井垣は研修の最後に晃平を無人の備品室へと呼び出し、好きだと言い放った。しかもそこで事に及ぼうとしたのだから、逃げて当然だ。その時は逃げ切れたのだが、それ以来用もないのに晃平の周りをうろついている。しかもその行動は、他人の目から見れば『新人思いの優しい先輩』に映るのだから始末が悪い。
晃平はこれ以上井垣にかちあわないようにと早足で総務へ向かった。そこで少し話をして、すぐに管理部へと戻る。昼少し前だったので昼がてらもう外に出てしまおうとカバンにタブレットを詰め込んだ、その時だった。
「今日は社内に居たんだね、晃平くん」
そんな言葉が近づいてきて、晃平は、遅かったか、と諦め半分で振り返った。
「……もう、外回りに出るところです」
「ちょうどよかった。おれも昼に入ろうと思ってたんだよ。一緒にどう?」
井垣が優しく笑む。向かいのデスクでは先輩の女性が、いいわね井垣さんと食事なんて、と微笑んだ。確かに井垣は整った顔立ちをしているし、シャツやネクタイの選び方が洒落ていて、女性社員には人気があった。合コンなんかには参加しないが誰にでも優しいというのは、遊んでなさそうだけど大事にされそうというイメージになるらしく、それもまた人気の所以のようだった。
ただ晃平はこの人が自分なんかを欲しがるようなこっち側の人間だと知っているので、合コンに出てもつまらないとか優しいのはそれをカモフラージュするためだという事情を知っているので、その人気が理解できなかった。
「あ、でしたら僕、すぐに行くところがあるので、佐藤さんよかったら……」
晃平が向かいに言うと、にっこりと微笑みを返された。
「晃平くんのそういうところ、感心するわ。でもいいのよ、頼れる先輩に愚痴を零すのも仕事を上手くやるコツなの」
そこに同じ部署の私がいるわけにはいかないわ、と言葉を返されてしまった。井垣もそれに乗じ、今度みんなで行きましょう、と社交辞令のような誘いの言葉を返している。
「少しくらい時間あるだろ? 愚痴でもなんでも聞くよ」
行こうか、と井垣が晃平のカバンを持ち上げる。え、と思っている内に井垣はさっさと歩き出してしまう。結局晃平はそれを追うように歩き出した。
「井垣さん、カバン……」
「店まで持つよ。それより何食べたい?」
エレベーターを待つ間、井垣は楽しそうにフレンチがいいかなイタリアンかな、と晃平に聞いた。
「だから、時間が……」
「じゃあさっと済ませられるところがいいな。向こうの通りのビルにいいカフェが入ってるんだ」
昼は摂らなきゃ倒れるよ、と井垣は嬉しそうに笑ってエレベーターに乗り込んだ。カバンを人質にとられている以上、晃平もついていかざるを得ない。
二人きりの密室はどの階に止まることもなくロビーまで真っ直ぐに降りていく。その時間がいたたまれなくて、晃平は黙って表示を眺めていた。
「晃平くん、そんな緊張しなくても、もうあんなふうに焦ったりしないから。あの時は、これで研修が終わって君とは部署も違ってくるし会えないと思ったらつい、ね。今はそんなこと思ってないから、じっくり好きになってもらうつもりだ」
「――好きになんて、ならないです」
晃平は視線の先を変えることなく言い切った。厳しいな、と井垣が苦く笑う。
「自分では結構、いい物件だと思ってるんだけど」
「井垣さんが悪いわけじゃないです。僕は……多分誰も好きになれないんです」
瞬への想いは消しても消してもしつこく残る。きっと瞬と会わなくなったとしても、この先随分の間は誰かに心を傾けるとはないだろう。それだけ、瞬の存在は大きい。
「寂しいこと言うね。でもまあ、それは今の話でしょ。おれは長期戦を考えてるから気にしてないよ」
いつか好きになるよ、と井垣は自信あり気に笑った。それを見上げながら、なんてめでたい人だろう、と晃平は胸のうちでため息を零した。
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