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今度朝練に参加すると約束して、千里と玄関で別れた後、私は真っ直ぐ図書室に向かった。校舎を歩く人影は見えない。もぬけの殻の廊下は、静かな風の通り道になっていた。
「もう空いてる」
扉に架けられた小さいホワイトボードを確認して、ガラガラ音を立てながら、私は図書室の扉を開ける。普段からそれほど利用者が居ないのか、建付けが悪い。
「おはようございます」
扉の音に気付いたのか、どこかから、小さな挨拶が反響する。部屋の中に人の姿は見えない。カウンターの中にも居ないので、それなら管理室の中だろうか。そんな事を考えながら、私はスタスタと図書室の後方の、背の高い本棚の列へと向かった。
「あ、これだ」
スポーツ関連の棚に目を通すと、私はすぐにそれを見つけた。年季の入った背表紙の本が多い中、『陸上競技入門』というタイトルの本は、私の目には新しく見えた。
脚の痛みなど忘れてしまったように、私はワクワクしながらカウンターに向かう。ついさっきまで、管理室の中に居た司書の女性が、おはよう。と笑顔を私に向けた。それと同時に、ガラガラと再び扉が開く。
「あれぇ、りくちゃんやんか! こんな朝早くから真面目やねぇ」
元気の良い声が、図書室の中へと響いた。小脇に数冊本を抱えたさつき先輩が、私に向けて目を丸くする。
「さ、さつき先輩! おはようございます」
「う〜ん! おはよ!」
空いた方の手で口を塞ぎながら、さつき先輩が欠伸する。制服姿でも、さつき先輩の均整の取れたスタイルは健在だ。胸の膨らみに目がいって、私は思わず息を飲む。
「ほ〜ん、陸上の本ねぇ。いいねぇ、初々しくて最高やわ」
さつき先輩が、カウンターに置かれた本を見てそう言った。そうですか? へへへ……。と私は照れながら話す。
「あ、さつき先輩はどうしたんですか? 千里から朝練してるって聞いたんですけど」
「あぁ、朝練は今から行くんやけど、先に借りてた本返そうと思ってさぁ」
まあそうだろうな。と私は思いながら、チラッとさつき先輩の本を確かめる。『筑派大学』と書かれた異様に分厚くて赤い本……。
もしかするとこれが俗に聞く赤本というやつだろうか。
まだ四月だというのに、そんな本を抱きしめる先輩に、私は進学校の現実を見せつけられた気がして、なんだかぞっとした。
「はい、どうぞ。貸し出し期間は一週間ね」
司書の声にはっとする。ど、どうもありがとうございます。と私は声が上ずらせ、本を受け取って後退りする。私の番ね。とさつき先輩が私と入れ替わる。
「相道さん、おはようございます! 今日もよろしくお願いします」
まだ二日貸し出し期間あるけど。と言われながら、さつき先輩は快く本を返却する。相道さんっていうのか。と私はぼんやり返却された本に目をやると、赤本と一緒に、さっきは見逃していた別の本が姿を現した。
『精神疾患との向き合い方』――。
「ん、どしたん? りくちゃん」
一瞬間が空いたような気がして、そうさつき先輩が私に呼びかけた。私ははっとして、咄嗟に、いえ、なんでもないです。と低い声で答えた。
……固まってしまっていた。あれは恐らく普通の女子高生が読むような本ではない。私はそう直感した。赤本に負けず劣らず分厚くて白い本。何よりあの、どうしても表紙をめくるのに差し障るタイトル――。
「じゃ、朝練行くわ! そういえばりくちゃん、脚痛くないんか? 無理せんとね」
ばいばーい。と、そう言い残して、さつき先輩は図書室を立ち去った。
彼女の声に、私は奇妙な余韻を感じた。あの笑顔の裏に隠れた瞳の色が気になって仕方がない。忘れていたはずの筋肉痛が、またズキズキし始めた。
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