第6話 ようこそ、武山高校陸上部へ 6

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第6話 ようこそ、武山高校陸上部へ 6

 小さな欠片が、赤くなった手のひらからパラパラ落ちる。それは赤錆色であるのを除けば、卵の殻に似て、薄っぺらくてほんのり硬い。錆止めの塗装が錆色をしているのは、なんだか皮肉めいていて面白かった。  私はそう思いながら、担いでいた鉄のシャフトをゆっくり降ろす。そうして一呼吸、フーッと、喉の奥から流れてくるぬるい空気を感じながら、手の甲で額の汗を拭った。今日で新入生の体験入部期間は終わりだ。来週からはいよいよ正式入部になる。 「りくー、それ終わったならシャフトちょうだ〜い。片付けてまうわー」  千尋ちゃんがそう言いながら、ぼうっと立ち止まっている私に近寄ってきた。彼女もすっかりマネージャー仕事が板についている。  武山高校陸上部では、部活動が始まる前に、集まってきた順に各々準備運動をする。部員の集合場所である、第一体育館と第二体育館の間の、狭い舗装路の上で行われるので、少々特殊な運動だ。部員達はまず、あの埃っぽくて手狭な部室に、細長い鉄の棒を取りに行く。長さは70センチ強、重さは男子が8キロ、女子が6キロだ。この棒を肩に担いで、20メートル程の距離を、何種類かの方法で歩く。大股歩行、四股踏み、等々……。この時意識するのは、主に体幹の維持と、滑らかな重心移動だ。走る、跳ぶ、投げる。それらに必要な身体の基礎を、負荷をかけた状態で意識的に作り上げるのだ。校庭へ出てゆく、他の部の人達の目が冷たいことを除けば、地味だけど結構楽しい。 「ありがとう千尋ちゃん。でも自分で持ってくよ。もう二本も持ってるじゃん」  千尋ちゃんの右手には、女子用のシャフトが二本握られている。計12キロの重りを持って平然としている姿は、彼女の小ぶりな体格からは想像しにくい。 「そう? それなら助かるけど〜」 「大変だね、マネージャー」  そんな事ないって。と千尋ちゃんはシャフトを軽々と持ち、そのままスタスタ歩いていく。どうして陸上部を続けようと思わなかったんだろう。と私は不思議に思いながら千尋ちゃんを見ていた。 「いや酷いなぁ〜、これ。まだ慣れんわ」  くしゅん。と千尋ちゃんがくしゃみする。シャフトを一本一本、部室の壁に立てかける度に砂煙が舞う。これには私も思わず口を塞ぐ。 「今度さ、真理(まり)先輩と一緒に掃除するんやって。掃除すんの時間かかるやろなぁ」  千尋ちゃんは手をパタパタ叩いて、しかめっ面でそう言った。三年生のマネージャーの吉岡(よしおか)真理(まり)先輩は千尋ちゃんにとっては上司? にあたる。彼女は身長158センチの千尋ちゃんよりも更に背が低いのだが、何というか凄く大人っぽい雰囲気を漂わせている。大胆におでこを覗かせたロングヘアに、何よりもあの立派な胸……。私はそれを思い出して視線を落とすと、なんだか急に悲しくなった。 「ところでうちの陸部さ、やっぱ酷いわ。アレ」  私からシャフトを受け取った時、千尋ちゃんが突然そう口にした。 「……千里も同じような事言ってた。だけど私よく分かんなくてさ」 「……うちの中学みたいな強豪と比べたらさ、そりゃ当然練習内容も、選手の数も全然違うけどさ、何よりあの先輩達のやる気のなさはどうもならんよね」  まだ数日体験入学しただけだったけれど、私にでも分かる違和感があった。先輩達が皆、随分静かな事だ。体育会系という言葉が、あれほど似合わない運動部は他に無いだろう。皆決まった練習を、決められた方法、時間で、淡々とこなしていくだけ。声を掛け合ったりする姿を殆ど見ない。誰かが喋っている時は、大抵部活とは関係のない内容が聞こえてくる。  隣のサッカー部の声の方が大きいんじゃないの。と千尋ちゃんがめんどくさそうに話す。 「なんで陸上してんやろ、あの人達。ああいうの、なんか嫌いや」  なぜ陸上をしているのか。そんな千尋ちゃんの問は、酷く私の耳に残響した。その答えを、私自身もまた、はっきりとは知らないのだ。自分の未来を予知されたような気がして、私は思わず身震いした。 「だから、まず小さい事から片付けんとな。折角マネージャーやるんやから、このくっそ汚い部屋、ピッカピカにするんや!」  きっと、誰一人として、恐らくはあのさつき先輩でさえ、今の部の現状を打開する策を知らない。私にだって当然分からない。それでも、千尋ちゃんは、己の信念を持って静かに燃えている。  だったら私だって――。  しかし今の私は、唇をぎゅっと結んで、ただ千尋ちゃんの話を聞いているしかなかった。
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