第8話 ようこそ、武山高校陸上部へ 8

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第8話 ようこそ、武山高校陸上部へ 8

 「わ〜、ほんとに沢山ある……」  ファッションとしての靴にも、名前を覚えきれないくらい沢山の種類があるように、スポーツシューズ、取り分け陸上競技用のシューズも、一足一足、それぞれがとても個性豊かだ。  私はそう思いながら、自分の二倍ほどの高さの壁を、下から上まで見回す。 「ここら辺だと、一番陸上用品が多いからね、この店」  どこから持ってきたのか分からない、自分と同じくらいの高さの脚立に登りながら、平然とした顔で千里が言う。そ、そうなんだね。と私は若干引き気味に言って、千尋ちゃんの方を見ると、お気に入りの一品でも見つけたのか、彼女は食い入るように一足のシューズを撫で回して、一言も話さない。 「……ねぇ千里」 「……何?」 「……ごめん、やっぱりなんでもない」  そう。と千里は興味無さそうに呟く。余りに話す事がないため、私は何か取り敢えず千里に話しかけてみたが、昨日の事を思い出して、私は口をつぐんでしまった。仕方ないので、私も何か触ってみようかと、改めてシューズに気持ちを向ける。すると、ある一足と目が合った。 「……! 軽い!」  何も考えずに手に取った私は、驚いて思わず声が出た。このシューズは異様に軽い。靴の形をした、空気の塊を掴んでいるような気さえした。 「りく、意外とお目が高いやんか」  千尋ちゃんに突然そう言われて、私はドキッとした。彼女は、さっきまで触っていたものとはまた別のシューズを弄りながら、鑑定士のように眼を光らせる。 「mizuhoの短距離用レーシングシューズ。去年の冬モデル。明るい青地に、黄色いメーカーラインが入った、ユニセックスカラー。片足160グラム。特殊素材で出来た底面は、軽量でありながら高反発を実現していて……」  千尋ちゃんの口から、よく分からない単語を交えて、あり得ない情報量の文章が流れた。普段のどこかガサツな彼女からは、遠く想像できない。 「りく、千尋を連れてきたの、ほんとはついでじゃなくてね。そいつ、超が二回くらい付くシューズオタクなのよ」  慣れた素振りで千里が言う。mizuho製の陸上シューズは全モデル頭に入ってるんだって。と付け加えた。 「なんなのその特殊能力……」  今度は千尋ちゃんに対して、私は少し引いてしまったが、しかし、それは彼女の類稀な才能に違いない。  そんな所で、私はさっきから持ちっぱなしのシューズの事を思い出す。片足160グラムのシューズは、自分が持っている事すら忘れてしまう。 「へぇ、凄いねこのシューズ。私初めてこんなの触ったかも」  因みに値段は…… と、私はかかとの輪っかのストラップに付いた値札をめくった。 「……一万八千円!? け、結構するね……」  想像以上の値段に、私は声を縮こまらせて、驚愕を隠せない。可愛いかをどうか、そこそこ気にするくらいで、靴にそれほどお金をかけない私からすると、一万円を余裕で超えてくるシューズは、にわかには信じられなかった。 「去年の冬出たばっかだし、一番グレードの高いやつだからね」  そんなもんじゃない? と千里は整然と言う。千尋ちゃんの方は、また集中モードに突入していた。 「こ、これってさ、短距離やるなら、やっぱり必要だよね……」 「そうね。りくが速くなりたいと思うなら、絶対に買うべきよ。確かに値段は高いかもしれないけどね」 「そうだよね……」  千里みたいに速くなりたい。私が魅せられたように、誰かを感動させるくらいに。  些細な事に戸惑いながらも、私の信念は揺るがない。 「私の今のレーシングシューズは二足目。その前のは爪先からかかとまで、穴だらけになるまで履いた。どっちのシューズも、私の分身みたいなものよ。小さい事なんて気にせずに、自分にぴったりなのを選ぶのが一番大事。そうすればシューズだって、ちゃんと答えてくれるんだから」  そう言い終えると、どこか懐かしそうな顔をして、千里は右足の甲をさする。そして、ショートパンツから伸びた彼女の脚に、私の視線は自然と流れた。その真っ白な肌に、胸がドキドキして仕方ない。 「……何見てるの」  じっと千里の脚を注視していた私に気付いて、彼女は怪訝そうな目をして言う。 「あ、ああ。ごめんごめん。なんかその、色々想像しちゃって」 「……もう聞かない事にする。あと、必要なシューズそれだけじゃないから。ランニングシューズ一足、レーシングシューズ一足、スパイク二足。全部で四足よ」  えええっ!? と私の大きな声が、静かな店内にこだました。それに驚いて、私は口を手で塞ぐ。 「……お小遣い何年先まで借りればいいんだろう。あうう……」 「そればっかりはどうしようもないわね」  ふふふ。と口に手を当てて千里が微笑む。冷や汗をかいて、おどおどしながらも、私はそんなどこか楽しそうな千里を見て、何故か安心した。 「りく、千里、これ見てこれ! このスパイクの底の形、めっちゃくちゃ格好良くない?」  それまでの私と千里の会話を知ってか知らずか、千尋ちゃんは目をこれでもかと輝かせながら、水色のスパイクを裏返して見せる。それの何が格好良いのか、全く分りはしなかったが、とにかく私は、今日三人でここに来たよかったと、素直に喜んで笑った。
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