28人が本棚に入れています
本棚に追加
/43ページ
日野は椅子に座ったまま、自分より低い位置に立っている部員達を一瞥する。
「お前ら、何がしたいの?」
突然発せられた、日野の低い威圧的な声に、部員達は全員凍てついた。やれやれ、と日野は青い天井を見上げて、それからまた私達を睨みつける。
「聞こえなかったか? 何がしたいって聞いたんだが。おい、冬井。質問変えるけど、お前はさっき何してた?」
冬井先輩は、少し怯えた様子で口を開く。
「……ステップ練です」
「じゃあその前は?」
「ランニングです」
そうだな。と日野は小さく納得する。
「で、結局それで何がしたかった? ちょっと汗かけばいいくらいってか?」
部員達は誰も答えない。その殆どが、ただ、静かに俯いたり、怯えたりしているだけだ。それを見かねて、日野は鼻を鳴らして言う。
「取り敢えず、お前らランニングから全部やり直せ。先生が良いって言うまでな」
突然のやり直しの命令に、さつき先輩が冷静に意見する。
「アップを、最初から、全部ですか?」
「そう言っただろ? 因みに先生が良いって言うまで帰れねぇからな。ほら、分かったら行け」
私はゴクリと生唾を飲む。日野の迫力に、誰一人反論出来ないようだった。彼の無慈悲な言いつけに追い出されるように、皆がまた列を作り始める。そのあまりに異様な雰囲気に、私はずっと黙ったままだった。
なんで何度も何度も同じ事をするんだろう。こんな行為に何の意味があるのだろう。いつまで続くんだろう。そんな取り留めのない考えが、私の頭をよぎる。歩いているか走っているか分からないような、脚が宙に浮いている気分だ。汗が身体のそこら中を流れるにつれて、疲弊と渇感ばかりが増していく。私は思わず、手を膝について足を止めた。
「なんなのあの先生」
吐息と鼻息まじりの声が小さく発せられる。みちる先輩は、そう口にするとすぐに小走りを始めた。三度目のステップ練に飽き飽きしたのか、普段の温厚な素振りからはとてもかけ離れた声だ。
「りく、止まっちゃ駄目。すぐ戻るわよ」
千里が背後から私の肩をポンと叩く。私に向けられた彼女の顔は、疲れ知らずでまだまだ平気だと言わんばかりに、こちらに向けられている。
「……千里は、 ……はぁ、はぁ。嫌になんないの? ずっと同じ事しててさ」
不満など口にするつもりは無かったのに、自分の意思に逆らって、私の口は勝手に動いた。パクパクと唇が居場所を失ったように挙動する。
「嫌。こんなの明日もするなんて絶対に嫌」
千里は即答する。その言葉に偽りは全くないだろう。
「だけど私は走りたい。明日も、明後日も、ずっと走りたいから続けるの。こんな事で認めたくない、自分の敗北なんて」
真剣な彼女の眼差しは、一点の曇りなく私に向けられていた。そんな彼女を見ていると、私まで嫌な気分がカラッと晴れてしまうのだ。私はふと一瞬視線を落とす。
「……千里は強いね」
「そんな事ない」
ほら、と差し出された手を見て、私は手のひらに滲んだ汗を、ズボンの裾で乱暴に拭いた。自分と変わらないくらいの、細くて小さな千里の真っ白な手は、思っていたよりずっと暖かく感じた。
最初のコメントを投稿しよう!