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第14話 強豪再建 6
カラカラと、コップの中の氷が細かく音を立てる。水面をストローでかき混ぜながら、私は静かに話し声を聞いていた。
「ウチ、奢ってあげる手持ちないで〜」
ケラケラ笑いながら、成美先輩はお化け屋敷のお化けのように、手首をぶらぶらと振ってみせる。
「そんな事言ってないですよ、なる先輩」
波瑠ちゃんが唇を尖らせると、ははは、と成美先輩が彼女のおでこをつついた。
「……そんで、何か用事、あんねんやろ? てか、なんて呼べばええん? 神山ちゃん、いや、りくちゃんでええ?」
はっとして私は攪拌の手を止める。成美先輩の起伏のあるアクセントは、何か自分に似た違和感があるような気がする。りくでいいですよ。と私は顔を引きつらせ気味に笑った。
「せやったらりくちゃんでええな? そっちの千里ちゃんも、アンタも、苗字で呼ばれるのは嫌なんやろ?」
「……やっぱり私の苗字、知られてるんですね」
部内ならせやろな。と言って、先輩はストローを吸う。小さく動く唇は、その先の台詞を包み隠している。千里も静かに目を伏せていた。
「ま、それはええねん、ごめんな話逸らして。で、りくちゃんは何が聞きたいん?」
どうして手を挙げなかったんですか。とすぐに質問するのを、私は躊躇った。成美先輩は話すたびにへへ、と笑う。その笑みが、私には何となく怖いと感じた。
「……せ、先輩って、その……話し方が違いますよね、皆と。どうしてかなーって」
咄嗟に出た言葉がそんな事か、と私は自分自身に落胆した。千里と波瑠ちゃんが揃って、じれったそうにストローを噛む。そんなつまらない質問に、成美先輩はアハハ、と元気に笑う。
「ウチ、敦賀から来てんねん。ここらへんは福井弁やろ? 敦賀はちゃうねんな。おんなじ県でも、言葉も文化も全然ちゃうねん」
「なる先輩、中学は氣比中なんですよ。嶺南の陸上強豪校です」
余計な事は言わんでええねん! と先輩は波瑠ちゃんの頭のてっぺんを優しく小突く。そんな波瑠ちゃんは、嫌そうな顔一つ無しにえへへ。と体を寄せて甘えた。
「それはそうと、りくちゃんは全然訛ってないなぁ。なんでなん?」
波瑠ちゃんの頭を撫でながら、成美先輩は口角を少し上げて私を見る。
「私、今年の春東京から引っ越してきたんです。小さい頃までこっちに居たらしいですけど、全然覚えてなくて」
「へぇ、てことはシチーガールやん。羨ましいなぁ」
なるほど。せやから、と成美先輩は、子狐のような顔をきょとんとして、ふんふんと頷く。そんな彼女に、私は心なしか胸が軽くなった。
「で、本題は? そんな事やないやろ、聞きたい事って」
私の考えている事など、お見通しだと言わんばかりに、先輩は休む事なく続ける。いつまでも黙っているわけにもいかない、と、私は恐る恐る口を開く。
「ちょっと聞きにくいんですけど……今日の部活の時、先輩がどっちにも手挙げてなかったのはなんでかなぁ、って思いまして……」
顔が引きつらずにはいられない。成美先輩の顔は、急に真剣さを増して、そんな私をじっと睨むように注視する。それから先輩は、ストローを一口、小さくカラカラ音を立てた。
「気になる?」
氷のような冷たさをはらんだ成美先輩の声に、場がしんとなる。思わず私は声を失った。
「私は気になります」
そんな私の横に入って、千里が答える。
「ふーん、そっか。ま、ええねんええねん、そんな硬くならんでも」
すうっと、私は思い出したように息をした。手元のストローの先は、すっかり乾いている。
「波瑠ちゃんは一中出身やろ? せやったら、さつき先輩の事は知っとらんの?」
「私は一年の冬から陸上始めたので、実はあんまりさつき先輩の事知らないんです。凄い先輩がいたって事くらいしか」
そうか。と成美先輩が小さくため息をついた。
「一年は不思議やと思わんかった? なんでさつき先輩が一言話したくらいで、あんなに簡単に全員の意見が一致するんやろ、ってさ」
「……確かにそうですよね。先織先輩とか、特に」
漸く私は口を開く。あの時、私は単にさつき先輩の人望なのだろう、と思って疑わなかったが、普通に考えてみればあれは異常だ。いくらなんでも皆単純すぎる。
「成美先輩は、それが、さつき先輩の事が嫌いだったんですか?」
千里はコップをぎゅっと握り潰して、悔い気味に聞く。
「いや、そんな事はないねん。ただ、さつき先輩が良いって言ったら、それで全部終わりなんかって思ってな。皆、あんな簡単に忘れたフリして」
「……なんかあったんですか、うちの部活」
それなぁ、と成美先輩が、眉を寄せて苦笑いする。
「なる先輩、嫌じゃなかったら聞かせて欲しいです。なんかその……私達も知っておいた方がいい気がするんです」
「ま、それもそうやな。あのさ、マネさん含めて、ウチの陸部の三年、四人しか居らんやろ。本当は六人やったんやけど、去年二人、抜けたんや」
あ、もう無いわ。と成美先輩はコップを持ち上げて、揺すって音を立てる。ガチャガチャと、氷が弾ける音がした。
「んでな、さつき先輩は今見ての通り、ウチの大エースや。県大会は上位入賞するし、二年の時点で北信越の決勝まで出とる。でもな、元々さつき先輩はダブルエースで入部して来た。……白香先輩と一緒に」
そんな話、私は今まで聞いたこともなかった。さつき先輩に誘われてから、毎日体験入部に来ていて、先輩達とはそれなりに話しているつもりだったのに。恐らくそれこそが、開けてはならない陸上部のパンドラの箱なのだ。私は何となくそう思った。
「知ってます。大土白香。中学の100、200の県記録保持者ですよね」
千里は元から全て知っていたかのように、淡々と口にする。彼女が平然と口にした内容に当然驚きながらも、私は人知れず疎外感を覚えた。
「……あまり関わりはなかったので、殆ど知らないですけど」
私の方をちらりと伺ってから、千里はそう終止符をつける。
「まぁ、先輩二人以外は、話にもならんような弱小やったけどな。そんでウチらが一年の秋やったかな、白香先輩が急に居らんくなって。それから部は今みたいになった」
はは、と成美先輩は、縮こまった私達を気遣うように笑って、それから少し息を荒くする。
「それなのになんなんあいつら。さつき先輩が急にやる気出したら、白香先輩の事も、あの時のことも全部忘れたみたいに。ウチ、それでアホみたいやなって思ってさ」
「……だから、先輩は手を挙げなかったんですね」
「そう。でも別にやる気が無いわけやないねん。一年が入って、このまま忘れられてもええんかも知れんしな」
どうして白香先輩は居なくなったのだろう。そんな質問で私は頭が一杯になる。しかし、今の成美先輩に、私は聞こうという気も起きないし、何より彼女が答えてくれる気がしなかった。
「ま、できたら他の先輩には黙っといてな。折角皆やる気出したんやし。邪魔すんのは悪いわ。なら、ウチそろそろ電車来るから帰る。ごめんな変な話して」
「お疲れ様です。今日はありがとうございました」
ガタっと、白いプラスチックの椅子が引かれる。ほな、と成美先輩は気さくに笑みを浮かべた。
先輩を見送った後、私達は三人とも、気まずくてお互い目を合わせられなかった。
「なる先輩、なんか悲しそうでしたね」
波瑠ちゃんが自分の事のように、そう声のトーンを落とす。
「でも、今はそんなの気にしてられない。さつき先輩だって辛いはずなのに、そう決めたんでしょ? だったら私達がする事は一つ。今の部活をもっと強くするの」
まあ、そうですけど。と波瑠ちゃんがストローを勢いよく吸う。
私は行き場のない唇を、無理矢理ストローに付けて、力なく吸った。しかし、私のお気に入りのカシスジュースは、いつの間にか薄紫色で、甘いはずの味が薄くて薄くて仕方なかった。
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