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第15話 強豪再建 7
「いきまーーーーす!」
はーーーーい! と、皆が大きく返事する。誰かが走り出すと、そんな声かけが次の誰かへと繰り返し引き継がれていく。たった数日で、ここまで声が出るようになるなんて驚きだ。そう思いながら私も笑顔で声を出した。
ただ黙って走るよりも、互いに声を掛け合った方がずっと楽だ。そんな事に漸く気付いたかのように、部員達は事あるごとに声を出しながら、熱心に練習をする。大きな声を出していると、そのうち自然と笑顔になるのは何故だろう。私は胸を弾ませながらそう思った。
「ま、及第点には達したか。これからも今日みたいに続けろ」
あまりに呆気ない日野の反応に、皆ぽかんと気が抜けたような顔をした。掲揚塔の下に清々しい風が吹き付ける。練習方法を改めて二日目に、漸く日野は少なからず私達を認めたのだ。それは彼にとっては些細な事に過ぎないかもしれないが、私達にとっては大きな進歩だった。
「それで、こっちとしても漸く練習メニューが配れるわけだが、その前に、まず今後の予定から」
日野は椅子に座ったまま、冬井先輩とさつき先輩に紙の束を手渡す。二人が男女それぞれにそれを配った。
「三年と二年は分かってると思うが、五月の終わりには春季総体がある。三年は今までの集大成の大会だが、もう後一ヶ月と少ししかない」
三年生達はじっと食い入るように紙を見つめている。皆何を考えているのだろう。そんな事ばかりが気になって、私はぼうっと、紙に書かれた文字を読んでいるようで読まずにいた。
「が、その前に、毎年通り敦賀の記録会があんだが、まずはそこに向けて練習するつもりで」
分かったら解散。と日野はぶんぶんと手を払う。
「先生、練習メニューは配らないんですか?」
どこからともなくそんな質問が飛んだ。あ、そうだ。と思い出したように日野が手を止める。
「練習メニューは種目ごとに配る。種目ごとに分かれた後、代表者が取りに来るように」
はい! と返事をして、部員達は一目散に分かれていった。
「はあ、やっとまともな練習かよ」
「るっせぇな、てめえはもう少し真面目にやれや」
土用のスパイクに履き替えながら、上中尾先輩が先織先輩にうだうだ文句を言う。いよいよ短短の種目練を控えて、私はワクワクを隠しきれずにいた。ランニングシューズの紐を解いて、レーシングシューズに履き替える。初めて履く新品のシューズが、私の足先で真紅に燃えている。
「隣、いい?」
校庭の手前の段になった所に腰を下ろしている私を、千里が私をまっすぐ見下ろしている。
「どうぞ〜」
少し左にずれて、私はシューズの紐を結ぶ。その隣に千里は腰を下ろして、スパイクを履き出した。折り曲げられた黒いタイツの脚が美しい。
「やっと種目練だね。どんな事するのかな、楽しみ」
「さあね。でも日野先生のことだから、容赦ない練習かも」
ええ〜、と私はヘナヘナした声を出す。千里は、何その声。と言ってクスクス笑った。
「ふたりとも! 仲良しやねぇ〜、私も混ぜてや」
校庭の土を踏みつけて、さつき先輩は堂々と私達の前に立った。腰に当てられた両手が、スーパーマンのようにたくましい。
「さつき先輩はいいです。あっち行ってください」
いつもの如く千里が即答する。さつき先輩はたまにかまってちゃんになるが、そんな少々面倒くさい彼女の対処法を心得ている千里は、容赦なく先輩を切り捨てるのだ。
「はぁ釣れないなぁ千里は。りくちゃんはそんな事ないよね? ね?」
「……先輩、練習メニュー貰いに行かなくていいんですか」
「大丈夫! 冬井に全部任せたから」
えっへん。何故かさつき先輩は鼻を伸ばす。すると、ほんと先輩は人遣いが荒れーんだから。と上中尾先輩が残念な人を見る目で呟く。
「そう言えばっすけど、今年短短多いんすね」
立ち上がってお尻をパタパタ払いながら、先織先輩がさつき先輩に向かって聞く。
「そうやなぁ。女子が千里とりく、男子も濱くんと大内くん」
一年だけでの四人か。とさつき先輩は指を折りながら名前を言った。女子で短短希望者は私と千里。そして男子も二人、短短希望者がいる。一年生はマネージャーを抜いて全員で十一人だから、比率でいえば結構なものだ。
「短短だけで八人、短長も合わせたら十人やろ? なんか一気に大所帯になったなぁ、うちの短距離」
「まあ、人は多い方が楽しいじゃないっすか」
「はぁ? 上中尾、お前そんな余裕あんのかなぁ。一年に抜かれたら大会出れんのだよ?」
目に見えない眼鏡をクイッと、さつき先輩が仕草すると、上中尾先輩はなぜか一年生の二人に食いかかっていた。濱くんと大内くんは、二人とも面倒くさそうに短い髪を掻いている。
「おい、メニュー貰ってきたぞ」
ふらっと冬井先輩が顔を出した。手には人数分のメニュー表が握られている。
「うわ、予想の五倍くらいはキツいなぁ」
「これマジでやるんすか? あの野郎何考えてんだよ」
先織先輩と上中尾先輩がそう口にするので、私も紙を受け取ってすぐに目を通す。手渡された紙には隅から隅まで、練習の開始時間、メニューの目安時間、終了時間等々、裏にも表にも曜日ごとにべったり文字が並んでいる。あまりの量に、すぐには把握できなかった。
「土曜は潰れそうだなぁ、予備校の日にち変えるか」
「フフ、あんたは真面目やねぇ」
冬井先輩とさつき先輩は、それほど文句を言う事なく見つめる。やりがいがあるじゃないか。そんな風な生き生きとした目をしていた。
「りく、まだ楽しみ?」
千里は意地悪な目をして私を見る。
「た、楽しみかな。何キロ痩せるんだろー」
私が震えながら口から出した台詞は、面白いくらい棒読みだった。
「去年は一年は別メニューやったけど、今年は全員同じなんやね。日野先生ガチやなぁ。りくちゃん、死んでもいい覚悟してな」
やめてくださいよ〜。と私が両手を伸ばすと、さつき先輩はアッカンベーをして逃げていく。
容赦のない練習を下されたというのに、私は何故か、かえってそれを嬉しく思った。練習を始めたからといって、すぐに速く走れるようになるわけではない。だけど、漸く目標に向かって本腰を入れた陸上部と、そこに自分が入部したのだという実感が湧いて、私は胸の高鳴りを抑えることが出来ないのだった。
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