第16話 はじめまして、春の記録会 1

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第16話 はじめまして、春の記録会 1

 全体でのアップが終わると、いよいよブロックごとに種目練が始まる。他部から走ってばかりと揶揄される陸上部だが、こと短距離ブロックに限っては、走るどころか、もっともっと地味な練習が行われている。  ほぼ毎日、腰の高さのハードルを十台ほど並べて、ゆっくり跨いで進んだり、ミニカラーコーンを2メートルおきに並べて、全力の六割くらいのスピードで20メートル、30メートルと走ったり。オリンピックなどの国際大会で、最も注目されるはずの、所謂『陸上の花形競技』の面影は何処へやら、だ。  そんな短距離ブロックのメンバーは、地面に置かれたラダーの上で、小気味よいステップを踏んでいた。  脚を出来るだけ素早く、小さく、細かく動かす。振動する額に汗が垂れた。しかし私は、ラダーの隙間を上手く踏むことが出来ずに、そのうち腰より下がぐにゃぐにゃしてくる。  ぱつん。  土の上に綺麗に張られたラダーが、私の爪先に弾かれて、呆気ない音を立てて崩れた。呆然とする私の前髪の毛先から、一粒滴が落ちて、乾いた土の上にぽつりと黒い点を作った。 「りくちゃんは相変わらずやなぁ。まだ難しい?」  さつき先輩が、ヘラヘラ笑いながら、ラダーの終わりで私を待ち構える。私はさっきからずっとこの調子だ。一つの練習をこなすのに、皆と比べて私は倍以上の時間がかかる。ニヤニヤするさつき先輩を、私は憎らしく思いながらも、それよりずっとやり場のない悔しさが勝った。 「コツとか無いんですか? ラダー走」 「ゲームみたいなもんよ。ラダーの隙間を踏まないと地雷でぶっ飛んじゃうみたいな?」  なんすかそれ……と私が蹴り飛ばしたラダーを元に戻しながら、先織先輩が白い目をした。それじゃわからないです……と私がさつき先輩をなじるように言うと、 「神山、まず背筋を伸ばして、少し前傾して身構えろ」  どこから現れたのか、冬井先輩が低い声で私に話しかけた。思わずビクッと、私は内臓が浮くような感じがした。 「こ、こうですか?」  取り敢えず、私は冬井先輩に言われた通りに構えると、よし、と太い声がした。 「そのまま一歩だけ踏み込んでみろ」  私は小さく跳ねるようにぽん、とけんけんぱのイメージで脚を出す。すると片脚が地面についたのと同時に、腰から上がぐらりと左右に揺れた。 「ほら、上体がガタついた。神山、いつも練習の前にシャフト練してるよな。あの時のイメージ通りでいいんだよ」 「体幹を意識して、ってやつですか?」  そうそう、と彼は腕を組み、目を閉じて頷く。 「神山は脚を早く動かそうと意識しすぎて、体幹の意識を忘れてるんだ。だから一歩脚を出すごとに重心がブレて、脚はまともに動かない……負のスパイラルだな」 「なるほど……ありがとうございます冬井先輩」  冬井先輩って意外と話すんだな。と私は少し不思議な目をやる。それを見て、いや、別に構わん。と冬井先輩は背を向けた。 「へえ、冬井って結構丁寧に教えられるんやね。こんど私にも教えてや!」 「廷々に言われると尺に触る」 「なんすか冬井さん、俺にも手取り足取り教えて下さいよ〜」  唇を尖らせて抱きつきにかかる上中尾先輩を、冬井先輩は思い切りビンタした。いってぇー!! 何するんすか! と叫ぶ声を聞きながら、私は少し胸の奥が暖かく感じた。 「冬井先輩がアドバイスって、珍しいっすね。何か言ったんすか、さつき先輩」  そう言うと、先織先輩は、おーい、次大内だぞ。と呼びかける。 「いーや、私はなぁも言ってない。冬井は無口なのがほんと残念やわ」  のそのそ歩く冬井先輩の背中を、さつき先輩はまじまじと見つめると、私もやるかー! と伸びをした。ラダーのスタートの方に戻って行く彼女を、私はそろそろと追いかける。 「私、冬井先輩って正直ちょっと苦手だなって思ってました」 「へぇ、りくちゃんああいうの苦手?」 「うーん、なんて言うか、優しい人なんだろうっては思うんですけど、それよりも無口で話しかけにくいっていうか……」  ははっ。とさつき先輩が吹き出す。冬井に言っちゃおっかなー。と目を細くした。やめて下さいよ〜、と動揺する私の眉間を、指でグリグリほじくりながら、彼女はいじめっ子のような顔をしていた。 「さつき先輩、帰りました。」  少し息を荒くした千里が、小さく肩を上下させる。一年生は短距離ブロックの通常メニューとは別に、学校の外周を走る練習がある。基礎体力を付けるためらしい。一年生四人一緒に、というのは効率が良くないとかなんとかで、二人ずつに分かれた交代制を取っている。 「千里、お疲れー」 「あら千里さぁん、お疲れのようですなぁ。私の胸に飛び込んできてもいいんやで?」  さつき先輩が唇をんー、と尖らせる。大きく左右に広げられた両手が、なんだか食虫植物のようだ。 「りく、濱くんが帰ってきたら、大内くんと外周よ」 「分かってるよ〜。外周かぁ、まだ慣れないなぁ」  先日の外周走を思い出しながら、私は途方に暮れる。一周およそ1.1キロ、それを三周走り終える頃には、私はいつもくたくたである。 「お、言ってたら濱くんのお帰りやで、担架必要かー?」  千里に遅れて、濱くんは脚を引きずってこちらへ歩いてくる。普段は凛々しく整っているはずの顔が、今はまるでゾンビのようだ。 「さつき先輩、節操がなさすぎですよ……」  彼は長距離走が心の底から嫌いで苦手らしい。昨日の外周走の後、彼はゴール地点で倒れ、担架で保健室に運ばれた。 「……お、終わりました」  今にも死にそうな声がした後、うっぷ、と濱くんは口に手を当てる。 「おー、濱、今日は生き延びたみてーだなぁ! そうやって少しずつ成長すんだぜ、男ってのはよぉ」  バンバンと、上中尾先輩は芋虫のように丸まった濱くんの背中を叩く。この人は本当にバカなんじゃないか。と私は思わず冷たい笑みを浮かべた。 「先輩、ラダー終わりました」 「あっそ、早く外走ってこい」  匆々としたやり取りには目もくれず、大内くんと先織先輩は、なんの面白味もないやり取りをしている。  一年生の大内くんは、基本的に無口で愛想がいい方ではない。彼のぎらぎらした目つきが私は少し怖く感じる。 「大内くん、外周行こう!」  私はシューズを履き替えながら、少しテンションを高めに、大内くんに呼びかける。気持ちを盛り上げていかないと、長距離走はやっていられない。 「はいはい」  味気ない二つ返事をしつつ、大内くんがシューズを履き替える。一見すると、短距離選手というより投擲選手のような角ばった体つきは、私に少しだけ威圧感を与える。濱くんとは割と話をするのだが、大内くんとは殆ど会話をしない。同じ短距離ブロックでもそれくらい二人の人柄には差がある。常に仏頂面の彼に、私は少しやり辛さを感じるのだ。 「大内くんってあんまり話さないよね。もしかして話すの苦手?」  裏門へ向かう途中、私はそう話しかけてみる。何も話さずに並んで歩くのは、なんだか気まずい。しかし、お前の気持ちなんて知らん。とばかりに、妙に距離を取って、大内くんは無言で歩く。 「きょ、今日さ、いい天気だよね〜。ランニング日和っていうかさ〜」  なんでもいいから話をしてくれない? と私は思わず言いそうになる。せめて同じ部員同士らしい話の一つでもないものだろうか。 「……私、長距離苦手なんだよね、嫌いじゃないけど」  私が仕方ないか、と諦めてそう口にする。すると、 「……けど」  大内くんがぼそりと何か言う。私はそれを聞き逃さず、え? 何? と聞き返す。やっと開かれた口腔に、私は期待せずにいられない。  なんだろう。なんて言うんだろう。好奇心と少しの恐怖心が、私の胸を高鳴らせる。 「……僕は陸上、嫌いだけど」  予想もしなかった言葉が放たれる。私はそれを聞いて足を止めた。急に寒気がした気がした。大内くんはそれに気付いて立ち止まると、黙って真っ黒な瞳をこちらに向けるのだった。
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