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第16.5話
乾いた喉の壁にねばついた唾液が引っかかって気分が悪い。僅かに緩んだ唇が震える。
私には分からない事が多すぎるのだ。そんな事はきっと当然のはずなのに、かといって私は彼の言葉を気楽に受け入れる事が出来なかった。
「……嫌い?」
「ああ、そう言ったと思うけど」
大内くんは鋭い目つきを更に鋭くする。私の反応を伺っているのだろうか。よそ者に向かって牙を向ける番犬のような冷たい表情が、私の薄い肌を掠めた。
「なんで、って思ってる?」
私の心の内を見透かすと、大内くんは再びゆっくり歩き出す。
彼の背中をぼうっと見て私は思い出していた。彼との何気ない会話を。
〜
「大内くん」
ホームルームが終わり、私は教室を廊下を急ぐ。
すると隣の教室の扉が開いて、中から出て来た大内くんにぶつかった。
ぎょろりとどす黒い目が泳いで私に焦点を合わせる。全体的に幅の広い体格と殆ど笑みの無い彼はなんだか苦手だ。
「神山さん、ね」
「う、うん。そうだけど」
それだけ言うと彼は何事もなかったように私をよけて行く。
同じ部活で同じ短距離種目なのに、未だほぼ会話がないのは彼くらいだろう。会話が続かない以前に会話が生じない人に会うのは初めてだ。
嫌われていると思われたくないので、一人でそそくさと先に行くのも躊躇われてしまう。彼の方も急ぐ気配は無い。というよりも、まるで私の存在をそこから消し去ってしまったように、彼はじっと黙って歩く。
「ねぇ。今日の練習メニューってなんだっけ」
これは我ながらいい質問かもしれない。部活関係の事なら自然な会話だ。
私は満足げにふんすと鼻で呼吸した。
「覚えてないけど」
大内くんは私を見る事なく言い捨てる。
そうだった。大内くんは練習の時、いつもつまらなさそうにしていたんだ。真面目に練習してはいるみたいなのだけれど。
男子の先輩達に言われるまま従っているような彼に、練習の話題はあまり意味がないかもしれない。
それにしてもあまりに味気がなさ過ぎる。彼は会話以前にコミュニケーションすらしたくないのだろうか。ぴくりとも動じない彼に、私はとにかくやり難くて仕方がない。
「そ、そっか。……大内くんて話すの嫌い?」
ぼそりと勝手に口が動いた。素っ気ない彼に対する当て付けのつもりだろうか。
思った事がそのまま出てしまったのにびっくりして、私は自分の口に慌てて蓋をする。
「じゃあ逆に聞くけど神山さんはそういうの好き?」
しかし予想外にも彼は直ちにそう返答した。変に思われていないと良いけれど。
「ま、まぁ人並みには」
「そうだよな、いつも鬼龍院とか久我山さんと楽しそうに話してるし」
へぇ、思ったよりも周囲の事を見ているんだな。私は失礼だと思いながらも驚いてしまった。
そういう事には全く興味がなさそうな顔をしているのに、人はやはり見かけにはよらないものだ。
「でもそういう雰囲気、僕は苦手でさ。どっちかって言えば嫌いかもしれない」
「嫌い?」
「そう、嫌い。神山さんも気を付けた方がいい。どんな事でもたまに行き詰まる事ってあるから」
階段を降りた先の吹き晒しの渡り廊下に出た。
大内くんの肩からぶら下がった腕の先で、シューズバックがぎこちなく風に揺れる。
彼の言葉の意味は今の私にはよく分からなかった。いや、どちらかと言えば分かるのが嫌だったのかもしれない。
〜
「あまり人の事は気にし過ぎない方がいいよ。疲れるだけだから」
疲れるだけだから。
その一言が私の耳の奥に強く跳ねた。
『りくってさ、なんかいつも疲れてない? そういうのめんどいんだよね』
頭の中に突然反響した言葉に、私は軽い目眩を覚えた。髪を強く捻って嫌な感情を振り払う。
確かに考えると疲れてしまいそうだけれど、それでも気にするなと言われると逆に気になってしまう自分に困惑した。
「私は陸上好きだよ。高校から始めたばっかりで、練習はめちゃくちゃキツいし、なかなか自分が走るの速くなってるか実感もないけどね」
「そうか、今はそれでいいと思うよ。上からもの言うつもりはないけど。でも神山さん見てるとなんか嫌になるんだよ。自分の事も、陸上の事も」
大内くんは歩く。足音を立てず、呼吸で空気を乱す事もなく。
だけどそれでもいいのだろうか。自分が通った跡など消えて無くなってしまっても構わないと思っているような気がして、私は素直に彼の背中を見ることができなかった。
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