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第17話 はじめまして、春の記録会 2
「……なんで嫌いなんだろう」
「は? 何が?」
気付くと、千尋ちゃんがストローの先を摘んで私を見ていた。
「あ、いやいやなんでもないよ?」
「なんで疑問形? なんか隠してるやろ、りく」
千尋ちゃんが怪しそうにじっと私を睨む。別に隠すだなんて、と言おうと思ったけれど、何故かたったそれだけの言葉が出てこない。
誰か助けてとばかりに、きょろきょろすると、千里は隣で数学の教科書相手に仏像のような目をしている。一方波瑠ちゃんは、彼女には大きすぎるソファーに身を埋めて、チュウチュウ美味しそうにマキアートを飲んでいた。
「お、おいしいねー、これ」
私は千尋ちゃんの話を逸らそうと、ストローを目一杯吸飲した。
「りく、自分だけキャラメルやんか、皆新作のさくらマキアートなのに」
ますます千尋ちゃんの目が鋭くなる。そう言えば自分だけ皆と違う味だ。どうやら見事に自滅したらしい。私は更に気まずくなった。
「そうですよ〜、りくちゃん。皆でさくらマキアートにしようって言ったのに〜」
波瑠ちゃんが、口をへの字にして、ぷりぷり文句を言う。私のコップの中身だけ、カラメル色の濁りが強い。それはともかくとして、ふいの援軍に私は喜んだ。
「なんか私、皆と同じって苦手なんだよね」
「え、何いきなり。てか話逸らさないでよりく」
文句混じりに手を伸ばす千尋ちゃんをいなしながら、私は苦笑いした。
「へぇ、じゃありくちゃんは、いつもずっと同じものばかり飲んでるんですか?」
ふと、波瑠ちゃんが変な顔をする。
「ん? これのこと? まあ確かにいつも同じかな」
このカラメル味だけを、自分は昔からずっと飲んでいる。私はそう、冷たい表面に目を落とした。
別にこれだけに限らず、皆と同じみたいに、流行りのものを試してみようとはあまり思えない。服だってそうだし、髪型だってそうだ。皆の知らない新しいものを試そうとして、逆に誰かと同じになるのは嫌なのだ。
『りくってさぁ、なんかつまんないよね』
ふいにそんな言葉を私は思い出した。
「新しい事がしたくて陸上始めたんじゃないですか?」
そんな私の心を見透かしたように、波瑠ちゃんが首を傾げる。私は思わずドキッとしてまごついた。じきにそんな様子にも飽きたらしく、だったらそんなに意固地にならなくても。と彼女は再びストローを吸う。
「慣れたものがいいのに、新しい事をしてみたいって、あべこべじゃん」
千尋ちゃんは、はぁ、とため息をついて、スマホを取り出した。トントンとつまらなさそうに画面を叩く。
確かにあべこべだ。別に皆を惑わすつもりで言ったわけじゃないのに——。
「あ、そういう事か」
突然、私は思い出したように納得した。うんうん。そうだ。と一人でぶつぶつ言う。
「何一人で喋ってるの。なんかイミフや」
「そんな事言っちゃダメですよ、千尋ちゃん。りくちゃんはきっと大事なことに気付いたんです!」
お前もか〜! と千尋ちゃんがスマホを放り出して、二本目のマキアートを飲み始めた波瑠ちゃんに突っかかる。するとスマホが宙を舞い教科書にぶつかって、千里の顔が毘沙門天に変わった。騒がしいと店員に注意されながら、あはは。と私はじゃれつき合う三人に目を細くした。
「は? 何言ってんの?」
大内くんが進入禁止のプレートを跨ぎながらこちらを見る。車止めの鎖が繋がれた裏門は、定時制校舎の陰になっていて、あまり人気はない。
「ほんとは好きなんだよね? 陸上」
「……意味わかんねーし、つーかそれ聞いて何になんだよ」
大内くんはムキになっているようで、心なしかいつもよりも口数が多い。この機を逃すかと、私も意地になる。
「陸上が嫌いなんて嘘。ほんとは好きなのに、なんであんなこと言うの? 折角皆真面目にやろうとしてるじゃん」
思わず声が大きくなった。別に責めようなんて気持ちはないはずなのに。
そんな私を、鎖の向こうから大内くんが睨んだ。
「神山さんに僕の何が分かるんだよ。……偉そうに」
「偉そう、って…… そうやって、自分は皆と違うんだってしてる方がもっと偉そうじゃん」
「はぁ?」
大内くんは更に目を鋭くする。それでも私は動かない。ここで退いてはいけない気がした。
「私に大内くんの事なんて分かんない。でも、それでもさ、陸上が好きで、楽しそうな皆の中で、いっつも大内くんだけ楽しくなさそうなのが嫌なの」
チッ、と大内くんは舌打ちして、鎖を強く握る。ジャラジャラと重い音を立てて鎖が揺れる。
「どいつもこいつも、そうやって上辺だけは真面目な顔しやがって。クソ、ああいうの見てるとムカつくんだよ」
そう言い捨てて、大内くんは走り出す。彼のムシャクシャした横顔は、何故か見ていると胸がズキズキして仕方ない。
慌てて私は飛び出した。勢いよく鎖を跨いで、躓きそうになりながら、大内くんを全速力で追う。いつもそんなに速くないと思っていた背中が、今日は何故かどんどん遠のいていく。
「待って、待ってよ! ……辛いんだよ」
息が上がる。はぁ、はぁ。と目を開けられなくなって、脚が痺れ始める。
どうして自分はこんなに必死になっているんだろう。
歩幅がどんどん狭くなる。脚が前に出ない。だんだんスピードが落ちて、私は遂に膝を曲げて手をついた。
私の力じゃ、まだ大内くんには追いつけない。いつまでもこのままじゃ駄目なのに。駄目なのに。
「……分かった分かった、無理すんなって」
ゆっくり足音が近付いてくる。私はぜぇぜぇと肩で息をしながら、差し出された手に顔を上げる。
「つーか、女子に倒れられたら面倒なんだよ。ほら、まだ神山さんは100メートルもまともに走れねぇのに」
私はふと後ろに首を曲げる。結構走ったと思ったのに、まだ裏門からそんなに遠くない。私はふん、と大内くんの手を払って、パタパタと服のしわをならす。
「……大内くんって、思ってたより早いんだね。びっくりした」
「そりゃいつもは、その、一応練習だし、神山さんと合わせて走らないと駄目だろ」
大内くんは振り返って、ゆっくり走り出す。私はまだ落ち着かない呼吸のままに、必死に彼を追う。
「……『ああいうの』って何のこと?」
テニスコートの裏の金網の向こうから、元気な明るい声が聞こえてくる。
「僕、中学は二中なんだ。つっても神山さんには分かんないよな」
「うん、中学はよく知らない。一中とか中央中とか、強豪強豪ってよく聞くけど」
「……二中は最低の中学だったよ。どいつもこいつも楽しければ良いって言って、馬鹿みたいに駄弁って、笑いながら練習して」
大内くんは悪夢にうなされるように、辛そうな息をする。
「僕は部活が嫌いだ。どいつもこいつも口だけは真面目なことばかりで、実際は何にもしない。真面目にやってる僕を皆陰でコソコソ馬鹿にしてたよ」
「……でもだからって陸上まで嫌いなふりしなくてもいいじゃん」
外周は長い登り坂になる。通称心臓潰しの坂を、私は速度を落とす事なく走っていく。
「今更全員で力を合わせるなんて、僕自身出来る気がしない。人を信じるのが怖い。信じようとする自分が嫌いだ」
誰だってそうだ。人と関われば、色んな苦労をして、嫌なことをされるんだ。それでも自分自身を嫌いになってはいけない。
「信じなくても良い。でも大内くんが信じてほしいなら、私達は大内くんを信じる」
下を向いちゃいけない。必死に頭を上げると、坂の頂上に目がいく。もうすぐそこだ。脚を動かせ、手を触れ——。
坂の頂上に架かる豊橋の向こうから、橙色の光が注ぐ。
登り坂の最後の一歩は、何故か凄く達成感を感じた。息をするのが嫌に思えるくらい、身体中が辛いのに。
いけないと思っているのに、私は足を止めてしまう。
「……まだ一周目なんだけど」
大内くんが呆れた声をする。そうだまだ後二周あるんだった。と私は残念そうな顔をして、緩い坂を下る。
「でも残りの二周、ちょっと気楽になった。長距離は嫌いだけどさ」
私の1メートルほど前を、軽やかな音がテンポ良く跳ねていく。すると私のごちゃごちゃした気持ちも、どこか軽くなったような気がした。
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