第2話 ようこそ、武山高校陸上部へ 2

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第2話 ようこそ、武山高校陸上部へ 2

 「はい、りくちゃん。ここが部室」  さつき先輩に誘われて、私は薄い暗がりの中の、部室の前に連れて来られていた。もう世間は春だというのに、体育館の陰になっているせいか、そこは酷くじめじめしていた。 「……陸王部?」  私は部室の扉の上を見つめて、首を傾げた。見間違いなどでは無く、扉の上の、陸上部と書かれたプレートが、マジックペンでなぞり書きされている。「上」に横棒を二本加えて、「王」である。しかし、そんな文字に喩えられるような華やかさは、微塵も無い場所だ。どこかカビ臭い匂いが鼻をつく。 「あーそれね、突っ込んじゃダメやで。ずっと昔からああらしくてさぁ。意味分かんないよね」   さつき先輩はそう言い捨てると、部室の扉をガタガタ言わせる。現役の部室だというのに、随分と建て付けの悪い扉だ。 「はいどーぞ、狭いけどお上がりくださいませ」  言われるまま部室に入ると、あまりに埃っぽくて、目を細くして思わず咳き込んでしまった。漏れ出るほどのカビ臭さに加えて、部室の中を、ダイヤモンドダストのように舞う砂埃が、小さな窓から差し込む光を乱反射させる。 「ごめんねー、狭い上にごちゃごちゃしてて。それで、りくちゃんに見せたいのはこれ。ちょっと古いけど、十年前、やったかな」  さつき先輩が私に手渡したのは、日焼けして色変わりしている写真だった。十年前というだけあって、古び方もそれなりだ。 「それでそれで、この一番右の人。よぉ〜く見て」  折り紙ほどの大きさの写真を覗き込むと、全部で六人写っていて、そのうち四人が、青いユニフォームに鉢巻を巻いている男子で、二人は自分と同じ制服姿の女子だ。皆それぞれ笑顔を浮かべている中、四人の男子の一番右の人物は、古代の哲学者の彫像の如く、苦い物でも噛んだような顔をしている。普段の私なら、決して好感の持てる表情では無いはずだ。しかし、あれ、なんだろうこの人。と私は、知らないはずの顔に、何故か懐かしさを感じて仕方がなかった。   「どしたの? りくちゃん」 「……えっ。あ、すいません。なんだか懐かしくて」  不思議な懐かしさの次に、私は悲しくなった。この人物は、亡くなった私の父の姿を思い起こさせるのだ――。  きっと私は、昔この人に会ったことがある。そんな直感が私の頭を(よぎ)った。 「やっぱりそうかぁ。りくちゃん、その写真、裏返してみ」  さつき先輩に言われるまま、私は写真を裏返してみる。写真の人物の裏側に、一人一人名前が書かれていた。  神山慶――。 『慶くん、遊ぼ』と幼い声が聞こえた。 「……この人は神山慶さん。うちの陸部の伝説にして私の憧れ。私がりくちゃんを勧誘した理由、分かったやろ?」  さつき先輩は、全てを見通す目で私を見ていた。見ず知らずの私の苗字と、写真の人物と微かに似た顔から、彼女は確信をもって私をここに招いたに違いない。さつき先輩の黒く輝く綺麗な目が、私には少しだけ怖く見えた。 「ついでにね、神山慶さんの隣の男子、今年からうちの陸部の顧問の日野先生。反対側の女子は副顧問の日笠先生。偶然にしては出来すぎてるやんか」  日野先生と日笠先生は、二人とも一年生の学年付きの先生だ。入学式の日に見たのを覚えている。入学式以来、一年生の間では、二人とも美男美女で評判だった。 「日笠先生と神山慶さんは、そういう関係だったんやないかって、そんな話もあるんやで」  写真の中の少し幼い日笠先生は、ショートカットが似合う、一目で分かる美貌と、モデルのような長身が映えていた。竹を割ったような笑顔だけが、現在のクールな彼女と食い違う。  いずれにせよ、隣に並んだ、強面の神山慶さんとの関係は、にわかには信じがたい。  それはともかく、日野遼、神山慶、日笠敦樹(つるぎ)……。写真の裏の名前を、一人ずつ黙読していく。そして一番最後の名前を確認した。  鬼龍院……颯太(ふうた)……?  私は、咄嗟に今朝のニュースを思い出した。人種、国籍、何の隔たりなく、誰もが騒ぎ立つあの映像を。その中心にいた人物が、埃だらけの写真の中に、人知れず保管されていた。 「…………き、鬼龍院颯太さん?! この人、テレビのニュースでやってた……? ええええ?!?!」 「はいせいかーい! ぱちぱちぱちー。つい先日、日本記録、並びにアジアレコード出した鬼龍院颯太さん! うちのOBなんやで。スーパーレジェンド!」  私は掌に力が入るのを感じていた。自分自身に唐突に降りかかる、余りにも数奇な事実に、込み上がる思いを隠さずにはいられない。喉の奥を、生々しいものがゆっくり垂れ下がっていくのを感じながら、私は恐る恐る唇を揺らす。 「あの、さつき先輩」 「どした? びびった? 仕方ないよねぇ、いきなり連れて来られてこれやもんな」  私ならしっぽ巻いて逃げ出すわ。と、さつき先輩はその場で走るそぶりを見せる。 「私、逃げたくないです。確かに驚きすぎて、実感すら湧かないですけど、でも」 「でも?」 「でも、新しい事をするって、決めてたんです」  新しい事ならば、なんでも良かったのかも知れない。新しい街で、新しい人達と、新しい事をするのが、自分自身との約束だった。理由なんて、なんでも良かった。今日、さつき先輩に初めて出会ったあの瞬間に、私の掴み所のない気持ちは、既に決まっていたのかも知れない。 「ふぅん、じゃありくちゃんは陸上は初心者って事かぁ。結構大変かもねぇ」  でも入部なら大歓迎! とさつき先輩は、勢いよく埃っぽい部室を飛び出る。 「ほんならまぁ、ようこそ、神山りくさん。武山高校陸上部へ」  さつき先輩が、見えないスカートを摘み上げて、丁寧にお辞儀をした。あまり深く掘り下げて語ろうとしない彼女の作法は、丁寧なのが逆に私をどこか不安にさせながらも、私は、今までに経験のない震えを感じていた。それが武者震いか、それとも単なる怖気か、今の私にはまだ分からない。
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