第2話 ようこそ、武山高校陸上部へ 2

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 部室から出ると、外の空気は非常に新鮮だった。あれだけ埃っぽい部屋に居たのだから、当然かも知れない。私が大きく深呼吸してから、もと来た道を戻ると、どうやら、いよいよ陸上部と思われる面々が、校庭にちらほら立っている。彼らの羽織った、白地のブレーカーの背中には、武山高校陸上部と刺繍されていた。 「ああ、さつき先輩どこ行ってたんすか! 短短の練習メニュー早く教えて下さいよー」  騒がしい声を上げて、170センチ中ほどで、丸刈りに近い短髪の男子部員が、さつき先輩に駆け寄ってきた。彼の粗暴な話しぶりと、つり目気味の目が、小中学校のワンパク坊主を思わせる。 「おいおい、上中尾(かみなかお)〜。文句つけんのは良いんやけど、外周走るの遅すぎるわあんた」 「そんなこと言わないでくださいよー。俺長距離は苦手なんすから。つーか、そいつ、誰っすか?」  ずっとさつき先輩にくっついていた私に、上中尾先輩はやっと気付いたらしい。そいつ、とぞんざいに呼ばれて、私は少し腹が立った。 「そいつ、は無いでしょ? 入部希望だったらどうすんの」  上中尾先輩を追うように、てくてくと、また別の女子部員が近寄ってくる。私よりもほんの少し背が低い。160センチくらいだろうか。細身で顔の小さい、可愛らしい人だった。  あ、は、はじめまして、神山りくです。と私が後ろ髪をくるくると触りながら言うと、 「へぇ、りくちゃんかぁ。はじめましてぇ。私、二年の白木。白木みちる。よろしくね〜」  お前も自己紹介しろ、とみちる先輩は、ジャンプして上中尾先輩の頭を払う。小さいながら、お姉さん肌の、しっかりした人のように見えた。 「みちる、今日はトッパも短短と一緒にやんの?」 「そうですね〜。今日は一緒です」  聞き慣れない単語が、聞き慣れないアクセントと共に、素早く流れる。ただ黙っているのも、何だか先輩達に気を遣わせてしまいそうだと思い、私は思った事を口にしてみる。 「すいません、その、短短、トッパ、って何ですか?」  ああ、そうやね。と一言、さつき先輩は、こほんと咳払いして、 「短短は、100、200メートル走の事。短距離走の中でも、特に短い競技の事を、縮めて短短って言うんやで。トッパ、は100、110メートルハードル走の事…… まぁ、陸上始めればおいおい分かるよ」 「なんすか、さつき先輩。こいつ素人っすか」  さつき先輩は、説明終わりに割り込んできた上中尾先輩に調子を崩されたようで、うるさい、お前はもっと真面目にやれや! と眉を八の字にして、腕をぶんぶん振って不満を漏らした。 「りくちゃん、失礼な奴もいるけど、大体皆良い人だからさ。気を悪くせんといてね。陸部に入るなら大歓迎だよ!」  上中尾先輩はともかく、さつき先輩、みちる先輩は、二人とも頼り甲斐がありそうで、私は少し不安が和らいだ。ありがとうございます。と私が礼を言おうとした時、  パァン  乾いた破裂音が、無防備な私の鼓膜を叩いた。驚きのあまり瞳孔が開く。  仄かな鉄の匂い、宙に舞う火薬袋の紙片。その先の地平を、黒髪の少女が風を纏って走り抜けた。  一瞬の沈黙の後、 「おい龍之介(りゅうのすけ)!! てめぇいきなり鉄砲撃ってんじゃねぇよボケェ!!」  上中尾先輩が怒鳴り声を上げて、銃声がした方へと小走りで向かった。一瞬、私は何が起こったか分からずに、釣り上げられた魚のように、口をパクパクさせていた。 「……あ〜もう、びっくりした。りくちゃん、大丈夫? スタートする時は先に言う事になってんのに」  何ですか今の。と、私はまだバクバク動く心臓を感じながら、小さく独り言のように呟いていた。  ただ、この激しい鼓動は、あの銃声に驚いただけなのだろうか。銃声が私の耳に届くよりもずっと早く、校庭の土の上を駆け抜けていったあの小さな背中に、私は心臓を握られたような気がした。 「それにしても本当に速いですねぇ、千里(ちさと)ちゃん。ねぇ、さつき先輩」  みちる先輩は見惚れたようにうっとりと、目尻を緩ませる。続けてさつき先輩が、りくちゃん。と私の肩をとんとん叩いた。 「よく見といて。今走ったあの子、県の中学記録歴代三位の、鬼龍院千里(ちさと)ちゃん。春からうちの陸部。りくちゃんの同級生やで」  鬼龍院(きりゅういん)千里(ちさと)。  その苗字と、県の中学記録という単語は、全くの陸上競技初心者の私にでも、彼女がどういう人物か簡単に理解させた。  短い距離を走り終えて、こちらに歩いてくる彼女は、長い睫毛と、大きくて細長い大人びた瞳を、真っ直ぐ私に向けている。後ろで纏めたセミロングの黒髪が、私の心を感じ取るように、左右に小刻みに揺れるのだった。
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