第3話 ようこそ、武山高校陸上部へ 3

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第3話 ようこそ、武山高校陸上部へ 3

 彼女が走った跡が、目に焼き付いて残った。それはまるで、小川を流れる、静かで乱れのない水のようだった。  なんて速いんだろう。どうしてあんなに速く走れるんだろう。そんな疑問が浮かんだのと同時に、私は思った。  私もあんな風になりたい。と――。  黒く(かがや)双眸(そうぼう)が私を睨んで離さない。雪のように白い肌が、よりその黒を引き立てる。千里は、その被写体のように細長い脚を、たおやかに、一歩ずつ前へ進める。  そんな姿に目を奪われた私は、思わず呼吸を忘れてしまう。そこに居た誰しもが、彼女に見惚れていたに違いない。にも関わらず、千里は、自らの美貌を見せつける素振りも無しに、ただ真っ直ぐ、静かにこちらに向かってきた。 「千里ぉ〜」  さつき先輩の甘えたような声で、私ははっとした。目をぱちくりして、思い出したように息をする。  さつき先輩は続けて、体験入部期間にスタート練する一年なんてないわ〜。と萎えたように言いながら、何故か千里に抱きつきに行く。千里はどうやら、さつき先輩のこのような行動に慣れているようで、音も立たずにさつき先輩を躱した。  どうしたの千里ちゃん。と不思議そうな顔をするみちる先輩と、もぉ〜。と口先を尖らせるさつき先輩を尻目に、千里が私の目の前で立ち止まって、小さな唇を開いた。 「神山……りく……?」  千里は私を見つめて、小首を傾げる。落ち着きがあって優しい声だ。クールビューティーという言葉が似合う容貌からは、少しだけ意外にも思える。 「そ、そうです……どうかしました……?」  唐突の指名に同様を隠せず、そう私が返事するやいなや、千里は、皆さんすいません、この子借ります。と言い放ち、私の右手首を荒々しく掴むと、ずんずん引いていく。えっ、えっ。と私は訳も分からず従った。  バスケットボールのユニフォームを着た女子生徒達が、何やらひそひそ話しながらこちらを眺めている。出来れば自分もあちら側がいい。と私は顔を伏せて、時折躓きそうになりながら歩く。人目をはばからずに歩く千里とは対照的に、私は恥ずかしさに加えて、ほんの僅かな憤りを感じていたのだった。しかし、ほどなく私達は足を止めた。体育館の裏側の、食堂の陰には、私達の他に誰もいない。 「……恥ずかしくないの?」  開口一番、当て付けのように、私は千里に言いつける。別にそんな事が聞きたい訳ではないのに。 「恥ずかしい? 別に?」  千里の声色に、悪気は全く感じられない。それが少しだけカチンときた。 「……っていうかさ、なんでいきなりこんなとこに連れてこられたの? 私」  私は不満を隠しきれずに、僅かに声を上擦らせて話題を変える。 「あんたさ、陸部、入るの? 経験者?」  千里は私の質問に答えない。それだから私は更にムカムカしたけれど、ふと彼女を見た時、その双眸はただ真っ直ぐ、私だけに向けられているようだった。すると何故か、それまでの怒りなど、不思議とどうでも良くなってしまったのだ。  私はふぅーっと息を吐き、調子を整えて、ゆっくり口を開く。 「……うん。初心者だけど。高校からは新しい事を始めたくて」  そう小さく、弱々しく答えた。思えば初対面の人と話すのは得意じゃない。 「そう、じゃあ次の質問いい? あんたの苗字、神山って、神山慶さんとなんか関係有るの?」  千里は少し語気を強くした。彼女なりに段階を踏んで質問をしているのだろう。  ……困った。私はそう思い答えを渋った。確かに私は、神山慶さんという人物に心当たりがある。顔も容姿も思い浮かばないはずなのに。彼と私は偶然同じ苗字な訳ではない。部室でさつき先輩から、彼の名前を聞いた時の、あの不思議な懐かしさの正体は一体何なのだろう。 「……分かんない。……ううん、多分関係あると思う。理由は……なんとなくだけど」  なんとなく? と千里は怪訝そうにしながらも、 「そう。なるほどね。良かった」  とどこか彼女の中で納得したようだ。   ただ私も、良かった? と千里の小声に小首を傾げた。 「ごめんね。私、見境なかった。こんな所に連れてきちゃって」  千里は我を取り戻したように、唐突に謝った。どうやら彼女も人の子らしい。きっと凄く純粋なのだ。しかし、私は自分が謝られているというのに、逆に申し訳ない気持ちになった。こんな綺麗な女の子に謝らせる行為に、変な罪悪感が湧いて仕方がない。 「ううん、いいよ。気にしないで。きりゅーい……」  私がへへへ、と横髪を触りながら、そう言いかけた時、千里は目にも見えない速さで手を伸ばして、私の口に蓋をした。思わずうぐっとなる。 「……私はちさと。千里って呼んで。上の名前は嫌。次に間違えたら……怒る」  千里の手の圧力で、彼女の気持ちは、文字通り痛いほど伝わっている。しかし、怒ると言いながらも、何だか泣きそうな目をしている彼女に、私はちょっとだけキュンとした。それでも我慢できなくなって、のけぞってぶはっと息をした。 「……分かった。よろしく千里。でも代わりに私の事もりくって呼んで」  もちろん。よろしく。と千里は嬉しそうに微笑んで、即答した。それが眩しくて、思わず私は目を逸らす。  私は漸く分かった。いや、分かってしまったと言うべきかもしれない。私はいずれ、部のレジェンドに祭り上げられた人物に、重ねられる事になる。そして千里は彼女の兄に――。  私はそれ以上は考えない事にした。そうしないと、部活動に入るのが嫌になってしまう気がしたからだ。 「……りくは、速くなれるよ。間違いない」  考え事をしていた私は、思いがけずそれを聞き逃す。え? ごめん、何? と私は、難しい顔を、無理やり破顔させる。千里はそんな私に、態度を荒立てる事なく、真剣な目をして言う。 「明日から、体操服で来なさい。りくに制服は似合わないから」  千里は、行こう。と、私に背を向ける。何故だか分からないけれど、私は千里の言う通りだと思った。先生達にバレない程度に、数回内側に折り込んだスカートが、チクチクした。
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