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第4話 ようこそ、武山高校陸上部へ 4
しかめっ面で、千尋ちゃんがぷりぷり文句を吐く。私は机の上に、使い古しのボロ雑巾のようにぐったりしていた。比較的内向的と言うか、あまり口数の多い方でない私は、こちらに越してくる前から、それほど無駄話が得意ではない。女だからと言って、皆が皆、どうでもいい話ばかりする訳ではないのである。
「もう〜! 聞いてる? ねぇ、りく! 昨日どこ行ってたんやって。一緒に回ろうって言ったのにさぁ〜」
千尋ちゃんを見失う前まで、そういえば、そんな話をしていたような覚えがある。
部活の体験入部、見学期間が始まって、今日で三日目だ。初日は千尋ちゃんと一緒に、吹奏楽部とか、茶道部とか、あとこの地域では有名らしい、百人一首かるた部を見学した。二日目の昨日は、本来ならソフトボール部を見学しに行く予定だったのだ。潰れた頬が、少しずつ熱くなる。
「う〜、さっきから謝ってるじゃん。もう許してよー」
私はそう、机に突っ伏したまま、千尋ちゃんの説教にだんだんとうんざりしていた。
「はいはい、もう話し疲れたし、許すって。ま、それはいいんやけど、結局どっか部活見てたんか?」
はよ、はよ。と千尋ちゃんが私の肩を小突いて急かす。彼女のマシンガントークっぷりは中々だ。この地域の方言の、早口気味で、非常に独特なイントネーションが相まって、なんだか古い民謡のように感じる。
「陸上部、見に行ったよ。なんか偶然先輩に誘われてさ」
り、陸上ぶっ? と千尋ちゃんが驚いたように言った。語尾のせいで、ふき出したのか、驚いたのかよく分からない。
「ん? 何? うちの陸上部がどうかしたの?」
身体をゆっくり起こしながら、むくんだ瞼を開く。教室の時計を見ると、昼休みはまだ半分しか過ぎていない。
「うちの陸部やろ? なんか先輩から聞いてたけど、毎日馬鹿みたいに遅くまで練習して、割に学年集会で表彰されてるの見た事ないって。でも、誰だっけ、三年の廷々先輩? は例外らしいけどさ」
あとなんか美人で有名なんだって。美人がなんだ。と腕を突き立て、千尋ちゃんは何故か文句を垂れ流し続けた。うちの陸上部の評判が芳しくないのは、あの埃だらけの部室を思い出せば、なんとなく分かってしまう気がした。
「てことはさ、いわゆる弱小って事なのかな」
「当たり前やん。私、中学ん時、陸部やったんやけどさ、高校の大会の見学の時とか、皆名前も知らん学校やで、武高は」
中学は陸上部だったというのは初耳だ。なるほど、だからあんな剣幕で文句を言っていたのか。と私には、千尋ちゃんの自尊心が透けて見えた。元陸上部の彼女の意見は、きっと参考になるに違いないが。
しかし、私は疑問に思った。弱小ならなぜ?
「……なんで千里はうちの陸上部にいたんだろう」
千里の経歴からすれば、そう思うのは当然だろう。私はそう独り言のつもりで、小さく呟いた。しかし、そんな私の吐息のような疑問を、千尋ちゃんは聞き逃さなかった。
「ち、千里!? ちょっと待って、りく、今千里って言ったよね? 千里ってあの千里?」
バン、と千尋ちゃんは机を両手で叩いて、周囲の目など、一切はばかる様子もなく、勢いよく立ち上がる。経験者からすれば、それほど衝撃的な事なのだろうか。
「県歴代三位って聞いたよ。やっぱり凄いんだね、千里って」
私は実に能天気な顔をして、そう口にする。
「そりゃ千里って、兄はあの鬼龍院颯太で、兄妹揃って県の陸上協会からめちゃくちゃ期待されてるもん。なんでうちの陸部なんかに」
氣比か北高行くと思ったのに。と千尋ちゃんはしなしなと、残念そうに肩を落とす。どうしてそんなに落ち込んでいるんだろう。と私は、彼女の感情の起伏を、面白がって眺めた。ふふ、と口から音が漏れそうになった時、
「千尋とりくって友達なのね」
うわぁっ!! と、私も千尋ちゃんも、手を放り出して驚いた。何の前振りもなく、私の背後から投げ掛けられた声の主は、千里だった。気持ちを落ち着かせるために、ほんの少し間が開く。
「ち、千里……。武高だったんやね」
千尋ちゃんがおずおずと口を開く。
「そうよ。千尋こそ、武高なのね。そんな頭良いようには思えなかったけど」
千里の言葉が結構刺々しい。どうやら二人は知り合いなのだろうと、私はすぐに理解した。
「千尋の声、廊下まで聞こえてる。中学の時から変わってないみたいね」
うう、と千尋ちゃんが唸る。弱みでも握られているのだろうか。そう思えるほどに、千尋ちゃんは先ほどまでと比べて、明らかに静かになった。
「りく、今日部活参加するの?」
千里の問に、私は間を開けず、うん。と答える。
「そう。じゃあ放課後迎えに来る。で、千尋はどうなの? 部活、決まった?」
「……決まってないけど」
「じゃあうちの陸部入れば? マネジャーでもいい。人足りてないって先輩が言ってたから」
千尋ちゃんはそれを聞いて、少し、ううん、と頭を抱えたけれど、私と、千里の顔を数回、交互にチラチラと伺いながら、結局、分かった。と観念した。
「あ〜あ、私もりくみたいに、新しいことする予定やったのにさぁ。結局高校も陸部やんか」
「マネージャーは新しい事じゃないの?」
「そりゃそうやけど」
はぁ。と千尋ちゃんはため息をつく。未だ彼女は、己の決定を受け入れられていないようだ。
「それはそうと、りく、あんたシューズ無いんじゃない? 陸上するなら、入学の時買わされた運動靴じゃ駄目よ」
そんな千尋ちゃんを横目に、千里が切り出した。どうやら、彼女の来訪の元々の目的は、こちらだったのだろう。そう感じるくらい、千里の口から、すらすらと言葉が続く。
「どのスポーツもそうだけど、それに合ったシューズが必要よね? 陸上は色んなスポーツの中でも、特に色んなシューズが必要だと思ってる」
へぇ。と私は決まり切った返しをする。
しかし、スポーツ用のシューズなんて、生まれてこの方、深く考えたことも無い。それなりに、可愛い靴になら少し興味はあるけれど。
「だから、今週の土曜日、シューズ見に行こう。どうせ買う事になるだろうから、りく一人で行くよりは良くないかと思って」
なるほど、それはありがたい。と私は瞠目する。そして同時に思った。きっと千里は、本当に私に期待を寄せている。そしてそれは、決して、私を押し潰すようなものではない。彼女の純真で、星屑を集めたような瞳が、ただ真っ直ぐに私を見つめていた。
「……決まりね。それじゃ武山駅集合。ついでに千尋も」
はぁ? 私もぉ? と千尋ちゃんが、自分のぞんざいな扱いに声を上げると、用事を済ませてすたすた歩いて行く千里を、何やらうだうだ言いながら追って行く。そんな様子に、私は思わずくすりと笑った。もう部活動は始まっている。私は胸の小さな高鳴りを覚えながら、漠然とそう思った。
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