第5話 ようこそ、武山高校陸上部へ 5

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第5話 ようこそ、武山高校陸上部へ 5

 玄関を開けると、ふわりと風吹き付ける。四月初めの早朝の空気は、思わず震えるほど、まだまだ冷たい。開門時刻に間に合うように、私はいつもより一時間早く家を出た。  私の家は、ある神社の裏手にある。武山市のほぼ中央に位置する、神明神社、通称上総社だ。大国主命を始めとする、日本神話の神々を祀っている。この境内を回り込むのは少々遠回りになるため、北側の小道から境内の中を通って行くのが、私の通学路だった。 「いったたたたた……」  境内を抜けて、大通りに出た時、私は思わず、そう小さく口にした。その場で屈み込んで、太ももをさする。典型的な筋肉痛だ。体験入部が始まって二日目、早くも私の身体は悲鳴を上げていた。体験入部とはいえ、その活動内容は、新入部員の練習と変わらない。  ホームルームが終わり、部活が始まると、入部したての一年生はまず、先輩達に倣って、アップと呼ばれる準備運動をする。五人一列横隊で、不思議なステップ、リズムで、身体全体を動かしながら歩く。側から見れば、ひどく滑稽な光景だろう。アップを終えた新入生は、千里のような特例を除き、先輩達とは別の練習に移る。「流し」と呼ばれるこの練習は、マネージャーが測った、全長120メートルの、曲線と直線を合わせたコースを使って行われる。先輩達は三本走って終わりだが、新入生は受験で失った体力を取り戻すという理由もあって、その三倍の回数走るのだ――。「流し」というだけあって、ゆったりと、力を抜いて気楽に、流すように走るのだが、陸上部どころか、今まで運動部に入った事すら無い私は、それはもう酷い有様だった。と、後から千尋ちゃんに言われたのだった。  ふくらはぎのあたりに、まだ湿布の跡が残っている。私は脚の違和感に怯えながら、生まれたての馬のような足取りで大通りを通り過ぎ、横断歩道の前で立ち止まった。赤信号の先には、JR武山駅が佇む。朝のホームルーム三十分前には、武山高校の制服を着た生徒達がちらほら目立つが、今は流石にその人影はない。私は青信号を通り過ぎると、駅横の陸橋に向かう。ローファーの足音が、心なしかいつもよりも不協和音を鳴らしている気がした。 「あれ、はやいわね。おはよう」  震える脚を持ち上げて、陸橋の階段を登ろうとした時、ふいに声をかけられて私は振り返る。 「……え、ち、千里? おはよう」  焦げ茶色のカジュアルなリュックを背負った千里が、心なしか不思議そうな目で私を見ていた。 私が驚いて何も言わなかったので、千里はそのまま話を続ける。 「? 朝練しに行くからいつも早めに来てるの」  脚、痛いの? と聞かれて、私は、 「へえ、朝練……。千里は凄いんだね」  そう言って一息ついてから、私はいたた、と出そうになる声を、歯を食いしばって抑えつつ階段を昇る。脚の痛みを伝えるのは気が引けた。これから朝練をするという千里に、わざわざ自分の弱みを見せるのは申し訳ない気がしたからだ。 「凄くなんかない。する必要があって、私がしたいからするだけ。まあ確かに、うちの部だと他に朝練してるのはさつき先輩くらいだけど」  そう言って千里は、渡り廊下の小さい窓の外を眺めた。私より少しだけ高い所にある瞳は、どこか、ずっとずっと遠くの空を眺めているような気がした。 「それで、りくはなんでこんな早くに?」 「……ああ、それね、図書室で探しものがあってさ。早めに行って、本借りて読もうって」  私が早めに家を出たのは、図書室で陸上の本を探すためだった。昨日の部活動の時、日笠先生から、図書館にそのような本がある、と耳にした。右も左も分からないけれど、まずは常識を身につけようと、私は思い立ったのだ。  へぇ、なんの本? と千里は、黒色のスニーカーで心地よいテンポを刻み、軽やかに階段を降りた。静かなアスファルトの路地の上を、二つの靴音が喋りながら歩く。 「日笠先生ね。まだ体験入部期間なのに、部活に顔出してくれて熱心よね。日野先生はまだ一回も来てないのに」  陸上の話題から少し外れて、日笠先生の話になった時、千里がさらりとそう言った。 「日野先生って、陸上部の顧問の先生だよね? まだ部活来てないの?」 「私は学年集会で見て以来ね。今年からうちの陸部の顧問らしい。転入だから忙しいのは分かるけど」  出来れば部活に顔を出してほしい。と、千里は不満げに言った。 「それってどうなの?」  と私が聞くと、千里は即答する。 「そんなの普通は顔出すものよ。というより、あの部活見てどう思うんだろ」  幅員減少の黄色い標識の手前で、緩やかな坂道を登る。脚の痛みが少し引いたような気がした。しかしその代わりに、千里がぼそっと口にした二言目が、私の耳に嫌な余韻を残した。
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