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戸惑い、動けないでいると、彼が口を開いた。
「お前さん、人間じゃないものと交わっとるだろう」
希は目を見開いた。心臓が跳ね、どくどくと心音が大きくなる。突然殴られたかのように、頭が真っ白になった。
人じゃないもの。頭に浮かぶのは、恐ろしいほど美形で、紺色が似合う男だ。
「相手はかなり強いな。そして、お前さんに執着しておる。もう打つ手がないほど、互いが結びついている」
男性の声は静かだった。動揺して言葉を返せない希とは違い、どこまでも落ち着いていた。
「生半可な気持ちで相手にするには、まずい相手だのう」
穏やかな口調の中には、危険な色はない。まるで、「いい天気ですね」と言うような雰囲気だった。
なんと返せばいいのかわからなくて、けれど、口を開きかけた時、風が吹いた。落ち葉が目の前に飛んできた希は、思わず目をつぶって顔を背ける。
次に目を開けた時、男性の姿はどこにもなかった。
まばたきをしながら、あたりを見回す。
やはり、男性が消えたかのように、誰もいなかった。
◇
帰りはペダルが重かった。ぼんやりとペダルをこいでいた希は、帰りたくないからこんなに重く感じるのか、と気づく。
頭の中では、男性の言葉がぐるぐると回っていた。
あの時、僕は念珠郎を受け入れると言った。なのに、今になって、これから自分はどうなるのだろう、と怯えている。だから、帰って顔を合わせるのが気まずかった。
のろのろ走り、長い時間をかけ、貫子の家に着く。
自転車を停めると、離れへ向かう。
今日、貫子は出かけている。ひっそりとしている空間に、希の足音だけが響いた。
「ただいま……」
いつもより小さな声で言ってから、離れに入った。静かに玄関扉を閉める。
「おかえりなさい」
廊下を歩いてすぐ、部屋から人が出てきて、希は飛び上がるほど驚いた。
「ね、念珠郎、ただいま」
背が高い体は、今日も紺色の着物を着ている。切れ長の目と視線が交わり、一瞬、見惚れてしまった。
「出かけている間、何かありましたか?」
「何も、何もないよ」
嘘をついた。動揺と罪悪感がにじみ出そうで、顔を伏せる。
「そうですか」
美しい顔はどんな表情をしているのだろう。嘘だってばれたかな、と不安な中、遠くから、「こんにちは」と女性の声がした。
声は母屋のほうから聞こえた。助かった、と思いながら玄関を開け、離れから出ると、念珠郎もついてくる。
母屋の前に、近所に住む婦人が立っていた。
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