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もう少しこのまま、と寝転んだ状態で十分がたったころだった。
空気が揺れて、風を感じた。玄関はしまっているし、窓はまだ開けていない。
それでも誰かが団扇や扇子であおいでくれているような、気持ちいい風が希に当たる。
いつもの何かの気配を感じた。今までで一番近くにいる。気がする。
恐怖は感じなかった。風も、この空間も、不思議と心地よくて、口の端がわずかに上がる。
目を開けたり、声を発するといなくなってしまう気がして、希は黙ってそこに寝転んでいた。
◇
「……やばい、迷った」
ぽつりと呟いて、自転車から降りた。
大学からの帰りだった。少しこの土地にも慣れたと思いこんだ希が、駅の周りを探索してみようと思い立ったのは、一時間前だ。
近くに有名な寺があることを知り、そこに行ってみよう、とあやふやな情報を頼りに自転車を走らせたが、案の定帰り道さえわからなくなってしまった。
周りに家はあるが、外に人がいない。
道を聞きに行くのは最終手段にして、とりあえず携帯電話で道を調べようとした時、ぽつりと頬に水滴が落ちた。
「まじか……」
気がつけば空は暗い雲に覆われていた。
ぽつぽつと雨が降ってきて、アスファルトに黒いシミを作る。
雨の勢いはしだいに強くなり、数分もたたないうちに希はびしょ濡れになってしまった。
「どこかで雨宿りさせてもらおう」
現在地を調べるのはそのあとだ。
希は再びペダルに足を乗せて、ぐっと踏み込んだ。
どこか雨宿りできそうな場所、と目を周りに向けながら走っていると、角を曲がった先に寺を発見した。
きっと目指していたお寺だろう。「ラッキー」と小声で呟く。
一気に加速しようとした希に、後ろから声がかかった。
「あそこには入らないでください」
鋭い声が背中から突き刺さる。
振り向いた先に、和傘をさした着物姿の男性が立っていた。
傘で顔がよく見えないが、希よりも二つか三つ年上に見える。身長が高い。
その古風な出で立ちは珍しかったが、何よりも希の目を引き付けたのは、着物の色だった。
深い紺色は土砂降りの中でも目立っている。その美しい色を知っている気がするが、思い出す前に、男性がもう一度口を開いた。
「希、帰りましょう」
「え、僕の名前……」
なんで知ってるんだ、と不審に思う。
初対面のはずだが、もし知り合いだとしたら、今さら「誰ですか?」とは訊けない。
そんな希に、男性は片手に持っていた傘を差し出した。
「これを使ってください」
深緑色の和傘を受け取る。こうしている今も体に雨が当たるので、ありがたく使わせてもらった。
「ありがとうございます……。あの、失礼ですがどなたですか?」
思い切って訊ねる。
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