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 男性は一瞬口をつぐんで、「貫子の」と呟いた。 「あ、貫子さんの知り合いですか?」 「……ええ、そうです」 「もしかして、貫子さん心配してました?」 「はい。希を心配した貫子から、迎えに行くようにと頼まれました」 「すみません……貫子さんが前に話していたお寺に行こうとしたら、迷っちゃって」 「その寺は反対方向です」 「そうなんですか。あれだと思ったんだけどなあ」  さきほど発見した寺を振り返る。しかし、そこには何もなかった。  希は目を瞬かせる。動揺しながら周りを見ても、寺はどこにもなかった。 「さあ、帰りましょう」  男性が歩き始める。希はもう一度、先ほどまで寺があった場所を見てから、慌てて後を追った。  男性は着物だというのに、歩くのが速い。  激しい雨音に混じって、希が押している自転車の音がかすかに聞こえる。  自転車も服もびしょびしょの希とは違って、男性は不自然なほど濡れていなかった。  前を歩く男性と希の間に会話はない。  少し気まずく思いながら男性を眺める。艶のある黒髪は綺麗で、背筋を伸ばして歩く姿は凛としている。  希はそっと、その背中に声を投げた。 「名前、教えてもらってもいいですか?」 「……念珠郎(ねんじゅろう)です」  念珠郎の低い声は、雨音の中でもなぜか聞き取りやすかった。 「念珠郎さん」 「呼び捨てで構いません」 「……念珠郎」  馴染ませるように口の中で呟けば、彼から嬉しそうな気配が伝わってきた。 「僕は貫子さんと全然会ったことがなかったけど、念珠郎は昔から親しいの?」 「ええ、古くから」  まるで、外見の年齢の倍以上前から知り合いだ、というような口調に、小さく笑う。 「貫子さん、僕のこと何か言ってた? もっとこうしてほしいとか、これをやめてほしいとか」  そう問えば、今度は念珠郎が小さな笑い声を出した。 「心地よさそうな寝顔だ、と」 「寝顔?」  思いがけない答えに、希はきょとんとする。  視線を地面に落として、「寝顔かあ」と漏らす。  あれ? でも貫子さんの前で寝たことないよな? と気づいて顔を上げた先に、念珠郎の姿はなかった。 「念珠郎?」  顔を動かして探したが、消えてしまったかのように彼はどこにもいない。  あたりを見渡す希は、そこがもう自分の知っている道であることに気がついた。少し先に、貫子の家が見える。  不思議なことが続いて、急に心細くなった希は、急ぎ足で家に帰った。
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