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プロローグ
それは高校一年生の春、桜が舞い散る始まりの季節のこと──。
『旭くんのことが、好きです!』
私──三浦 蓮華(みうら れんげ)は、中庭で入学早々に一目惚れした五十嵐 旭(いがらし あさひ)くんに告白すること十秒。
『ごめん。俺、女の子はみんな平等に好きだから、ひとりには絞れないんだよね~』
『は?』
あまりにも軽すぎる、その博愛主義宣言で玉砕した。いっそ、『他に好きな人がいるから』と振られたほうがマシだった。
旭くんが去ったあと、私の告白の一部始終を見守っていた親友──佐々木 愛(ささき あい)が、私のところへ歩いてくる。
『わぁ~、こっぴどく殺(や)られたね』
『殺られたって……言い方』
──傷に塩を塗るな。
失恋に打ちのめされ、その場にしゃがみ込むと、愛もニコニコしながら隣に腰を落とした。
笑いごとじゃないのに、なぜそんなにも楽しげなのか。
私の長い黒髪とは対照的な栗色のショートカットヘアー。美人というよりは、可愛らしい顔立ちの愛を恨めしく睨む。
『私、今絶賛落ち込み中なんだけど』
『蓮華、マカロンってさー』
つくづく、この親友とは会話が成り立たない。
ここでマカロン!? なぜ!?
予想の斜め上を行く会話のぶっこみように、頭を抱えたくなるのはこれで何回目だろう。
『フランスの各地でいろんな種類が作られてるんだけど、中でもアルザス・ロレーヌ地方のものは、物語があってね』
それに正直、今、マカロンの話なんてどうでもいい。私は、恋に破れて心がボロボロなのだ。
『十八世紀に修道院廃止の迫害を受けたカルメル会の修道女たちが、自分を匿ってくれた家にお礼として振る舞ったんだって。それからレシピを教えて、売り出すと、たちまち評判に! それが平たい形で表面がひび割れたのが特徴の『マカロンド・ナンシー』』
――空気が読めないなんて生ぬるい。愛にははなから読む空気なんてない、もはや我が道を行く天才だ。
仕方ないので、そのまま耳を傾ける。
『一般的なマカロンじゃなくて、次回はマカロンド・ナンシーに挑戦してみたんだ』
『次回?』
『そうなのです! じゃ、じゃーんっ』
愛は先ほどから大事に抱えていた紙袋を持ち上げる。そこにはマカロンド・ナンシーではなく、表面がツルッとした一般的なマカロンがいくつも入っていた。
『卵白と砂糖を泡立てたメレンゲに、細かく砕いたアーモンド、くるみに木の実も混ぜ合わせて一口大に焼き上げた『マカロン・リス』だよ』
興奮した様子で、愛はマカロンの制作工程をつらつらと述べた。そして最後に、とんでもないひと言を付け加える。
『蓮華、絶対にふられると思ってたし、慰めるのは親友の役目だからね』
――今、なんつった?
『私の失恋を見通してたなら、どうして告白するって言ったときに止めてくれなかったの!?』
『え、どうして? 正面切って玉砕したほうが諦めもつくじゃん』
正直、この野郎!と拳を握りたくなった。まったく……ほんっとーに料理のことしか考えてないんだから。
口を開けばお菓子の作り方をお経のごとく唱え、家に帰っても毎晩のように電話をかけてきては、お菓子のうんちくをべらべらと話し出す始末。
おかげで不眠になるわ、肌の調子は悪くなるわ、頭痛に悩まされる日々。愛のお菓子への情熱は病気だ。
愛と料理部を立ち上げて一週間、早くも挫折しそうだ。
『まぁ、まぁ。ほら、愛様お手製のマカロンでも食べて、元気出しなさい』
『こういうときは、『私を元気づけて!』の語源があるティラミスを選ぶものなんじゃ――んぐっ』
愛が私の口にマカロンを突っ込んだ。
──殺す気!?
酸素確保のため、即刻マカロンを咀嚼する。外をカリッと噛むと中から広がるハチミツの甘さ。口の中でふんわりと溶けたマカロンは、どんなお菓子より優しく、傷ついた私を甘やかしてくれた。
――ああ、今優しくされたらダメだ。
目にじわっと染みるのは、涙。潤む私の視界に、愛の呑気な顔がカットインする。
『なんだなんだ、苦しいの? 悲しいの? ん?』
『どっちもだよ!』
愛は人が悲しんでるのに慰めない。常に自分の好きな話しかしない自由奔放少女だ。けど、私が辛い時には必ずそばにいてくれる。
『……愛のマカロン、さ。すごくおいしい。ありがと』
『親友には、いつも笑っていてほしいからね』
そのひと言に、涙が堰を切ったようにハラハラと流れていく。さっきまであんなに苦しかったはずの心が、不思議と軽くなっていった。
私は愛のマカロンを見つめ、自然と口元が緩むのを感じる。
『愛は魔法使いなの?』
愛のお菓子は、食べた人を必ず笑顔にするのだ。それはもう魔法みたいに、一瞬で。
『魔法は、想いを込めたお菓子にこそ宿るのだよ。私は誰かを幸せにできるパティシエになるのが夢だからね。こうして料理部で腕を磨いているのさ』
『ふふっ、なにその話し方』
ふんぞり返って、なぜか得意げに自分の胸を叩く愛に笑いを堪えきれない。
『私をお菓子の賢者と呼びたまえ』
『ぶっ、呼ばんわ。それに、誰かを幸せにできるパティシエになるんじゃなかったでしたっけ?』
『そうとも言う』
『日本語不自由か。でも──愛ならなれるよ』
だって、もう私に笑顔の魔法をかけた。
愛の作るお菓子をいちばんに食べるのは私の特権。この先もたくさん愛のお菓子を食べることになるんだろうけど、このマカロンは特別。私が魔法にかけられたお菓子だから。きっと、この味を一生忘れることはないんだろうな。
そして、彼女とは高校を卒業しても、ずっと関係が続く気がする。大人になっても、彼女の夢をそばで見つめている自分が簡単に想像できた。
***
六月、梅雨入りして雨ばかりが続いていたある日、それは起きた。濡れた路面のせいでスリップした車に、愛が轢かれたのだ。
愛はなんとか一命をとりとめ入院することになったが、お見舞いに行っても面会は断られ続け、やっと会えたのは一か月後。愛が突然、料理部にやってきたのだ。
『愛!』
愛の姿を見た途端にほっとして、私は駆け寄る。
『学校、復帰したんだね? 心配してたんだよ? 連絡くらいくれてもいいじゃん!』
無事で本当によかった。命に別状がないことはわかっていたけれど、この目で確かめるまではやっぱり不安だった。
『いつ退院したの?』
愛は私の質問に答えない。無表情のまま、私を見ることもなく抑揚のない声で告げる。
『……もう、ここには来れない』
『え?』
耳を疑った。部員は私と愛の二名、少ないながらも愛の夢に興味を惹かれて作った部活だった。
あのマカロンを食べた日から、気づいたら私も愛みたいに辛い思いをしている人を笑顔に変える魔法のお菓子を作りたい。そう思うようになって、私にとってもこの料理部は特別な場所になっていた。
なのに、どうして急にもう来れないだなんて言うの?
『冗談だよね? ふたりで作った部活じゃん、なんで?』
『もう、お菓子なんて作らない』
見たことも無いような、愛の怖い顔に息ができなくなる。
『愛……本気なの? だって、お菓子作りは愛の夢でしょ? 誰かを幸せにできるパティシエになるって、言ってたのに……!』
『それはもう、私の夢じゃない』
『愛、それ冗談にしては笑えないって……』
声が震える。笑みを無理やり張り付けて、私は愛に手を伸ばした。なぜか愛が遠くに行ってしまいそうで、怖かったからだ。
『冗談じゃないことくらい、蓮華ならわかってるんでしょう?』
パシンッと乾いた音が部室に鳴り響き、手の甲がひりひりとした。手を振り払われたのだと気づくのに、しばし時間がかかった。
『愛……』
『蓮華といると、嫌でもお菓子のことを思い出して嫌になるの! だからもう金輪際、私と関わらないで』
ズキンッと痛むこの胸は、大切な親友から投げられた言葉のナイフのせいだ。
『愛、なんで……私、なにかした? なにかしたなら直すから! 私、愛とは簡単に関係切れないよ! 私たち、そんな浅い仲じゃないでしょ?』
言い募るも、愛はふいっと顔を背けてしまう。
『バイバイ、蓮華……っ』
振り切るようにそう言って、踵を返す親友を呆然と見送る。追いかけても、かける言葉がまだ見つかっていなかったからだ。
だから、私はバカなんだ。愛がこのとき、どんな思いでいたのか知りもしなかった。
愛のお母さんから、あとで聞いた話なのだが……。交通事故で頭部外傷が強かった愛は、味覚を失っていたらしい。
パティシエの命ともいえる味覚をなくすことが、どれほどの痛みなのか。どれほどの絶望なのかも知らずに……。
このときの私は、自分を突き放した愛に裏切られたとさえ思っていた。私をお菓子の世界に巻き込んだのは、愛なのにどうしてって。
そんな自分が、ずっとずっと許せない──。
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