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1-2
もともとこの瀬川チヨという人間はサバサバとしていて遠慮がない。そのため初見の人間には引かれてしまう事もしょっちゅうだ。なので最初は今日もそのパターンかなと思った。しかし、なぜか彼女のキャラを熟知しているはずの身内までが固まっている。
チヨは一番近くにいる友人、水谷いわく「国際学部のアイドル」倉田梨絵にその理由を質問した。
「なに、何でみんな不思議そうにしてるの」
「いや、だって、二人が普通に会話してるから」
それを聞いてチヨは隣の眼鏡男を振り向いた。確かに軽妙な語り口とは言えなかったが、さきほど交わした会話で判断するにはごく普通の青年に感じられた。もしや自分が来るまで、よっぽど普通じゃない会話が展開されていたのだろうか。
どっちにしても妙な雰囲気が自分のせいではないと判明したので、チヨは「ふーん」と流してさっさと自分の欲求に従う事にした。
「まあいいや、私お腹すいたよ。何か食べさせろー」
そんなチヨの態度に淳は小さな感動を覚えた。彼の今までの経験で言えば、女というものはとかく知りたがりで知られたがりな奴ばかりだった。しかし隣の席でメニューを真剣に吟味している女は、その場の空気を淀ませている原因の究明より、「ふーん」の一言でアッサリ自分の食欲の方を優先させてしまったのだ。
「ねえ、眼鏡のキミ」
けったいな女だと思って観察していた、その人物がいきなりメニューから自分の方へと顔を向けたので、淳は内心どぎまぎとした。チヨは決して美人顔という部類ではないが、溌剌とした表情が印象的なタイプだ。
この時も、いたずらそうな目を輝かせ、大きな口の端をキュッと上げた独特の笑顔で淳を圧倒した。
「眼鏡の…って」
「だって名前聞いてないからさ」
「海東……」
フルネームまで名乗らせてはくれなかった。彼女はパタンと大きなメニューを胸の前で閉じるといきなり本題に突入した。
「じゃあ海東くん、茄子、食べられる?」
「食える」
「そしたらさ、茄子と季節野菜のラザニア、半分食べてくれない?私パスタも食べたいんだけど、ちょっと二品は多すぎるから」
「ええけど」
「ありがと、じゃあ注文するね。すいませーん!」
淳は完璧にペースを乱されていた。決して不愉快ではないのだが、あまりのテンポの速さとテンションの高さに思考がついていかない。
気がつけば淳は、取り皿にきれいに盛り付けられたラザニアと、何故かジェノベーゼソースのパスタを口に運んでいた。二品は多いと言ったはずのチヨは「野菜が足りない」とサラダまで注文し、大いに飲んで食べて笑って場の雰囲気を盛りたてている。
「へえ~、じゃあチヨさんは俺らより2つ上?」
「うん、一年だけ留学して、帰ってきてから受験したんだ」
短期とはいえ留学経験者という事でみんなの質問がチヨに集中したが、それに対してチヨはてきぱきと答え、たまにユーモアを交えてみんなを笑わせたりしている。頭のいい女なのだろうと淳は思った。
やがて予約の2時間が終わる頃には、妹がいることやアメリカはサンディエゴ軍港の近くに留学していたこと、お笑い番組が好きなことや彼氏募集中であることなど、淳は様々な彼女に関するインフォメーションを手に入れた。それに対し、チヨが淳に関して得た情報といえば、海東という苗字と茄子が嫌いでないということくらいだ。
なので、もしこの段階で二人の縁が終わっていれば、互いの記憶の中では「快活な女」「無口な男」でイメージは完結し、やがては海馬の片隅から消えていったはずなのだ。しかし、そこで終わらなかった事が、後に二人の運命を変えることになる。
「はい、はーい、二次会行く人~」
店の外に出てきたメンツに向かって、ほろ酔いの水谷がカラオケ参加者を募っている。彼の腕がカンパリの彼女の肩を抱いているところを見ると、どうやら淳の隣から移動した後に二人で盛り上がったようだ。アイドル狙いはどうしたよと思いながら、淳はそのまま駅に向かって歩き出した、その時。
「ちょっと海東くん、挨拶くらいして帰りなよ!」
誰か女の声で呼び止められて、振り向くとそこにはチヨが立っていた。
「二次会は行かへん。頼まれて来ただけやし」
「それでも断ってから帰ろうよ、礼儀でしょ」
チヨは少々ムカついていた。いくら学生同士とはいえ、礼儀を通さないのは失礼以外の何ものでもない。今日のコンパでも自分の隣で、この眼鏡男はぶすっとしたまま場を白けさせていた。だからみんなを楽しませようとチヨは頑張ったのだ。
それだけでもいい加減にしろよと思っていたところに、彼は挨拶もせずに帰ろうとした。こうなっては正義漢・チヨとしては黙っていられない。
「もうええて、面倒くさい」
「そういう態度、よくないよ。今日だってずっと黙りっぱなしでさ」
「来てくれ言われたからわざわざ来たったんや。黙ってんのがアカンなら最初っから呼ばんかったらええねん」
「ムカつく!あんた、友達の顔を立てようって気がないわけ」
「おのれの方がムカつくわ!」
アルコールの勢いも手伝ってか、だんだん声がエスカレートしてきた二人に道行く人々の視線が集まる。彼らがその視線に気付いた時には、コンパの面々はすでにどこかに消えてしまっていた。
そうなると、飲み屋街の雑居ビルの真ん前で対峙している自分達が急に間抜けに思えてくる。二人は互いに休戦の意志をアイコンタクトで交わすと、無言で駅へ向かって歩き出した。
海東淳は後にこの出会いの一件を、著書の中でこう語っている。
――殴ったろかと思いましたよ、マジで(笑)
20XⅩ年、夏。梅雨明け直前の蒸し暑い空気が、怒り覚めやらぬ二人の不快指数をさらに増幅させていた。
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