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陳情と署名活動
四郎は、スキー連盟会長が渡してくれた資料を頼りに、県議会の議員のところを、一軒一軒陳情のために訪ね歩いた。けんもほろろに追い返されることがほとんどだった。だが、現在はS県の県議会議員でも、出生地がF県という田辺保議員は四郎の陳情を真剣に聴いてくれた。
「出場資格に記載されていることと、実際の出場資格に乖離があるのは大問題です。桧山君のように集団就職で我が県に根を下ろしてくれた若人たちが、スポーツに真剣に取り組んでいるというのに、実に嘆かわしい」
田辺保議員は、スポーツ関係の予算に携わる立場でもあるので積極的にこの問題について動いてくれた。
また、職場の仲間は署名活動をしてくれて、県大会優勝者である、四郎の国体出場を求めた。職場だけでは数が知れているので、街頭に立ったり、近所の家や店を回ったり、四郎のために東西奔走してくれた。
ある日、社員寮の寮母さんが詰める部屋にお下げ髪がかわいらしい、一人の女子学生がいた。
寮母さんは、
「桧山君、このお嬢さんが話があるってさ」
ほくそ笑みながら、女子学生と桧山を見て興味津々。四郎は、この噂好きの寮母さんが苦手であった。しかし、変な噂を立てられないためにも、寮母さんの詰め所で女子学生と話を始めた。
「桧山四郎といいます。ご用件はなんでしょう?」
女子学生はセーラー服の真っ赤なスカーフをもじもじといじくり回しながら、
「あの…私の兄は…堀江巌一です。桧山さんに負けた二位の…。兄は、ずっと私と弟の面倒を見ながら、少ない時間で練習してきました。もっと練習したかったと思うし、道具にお金を掛けたかったと思うんです。でも…でも…学校だけはちゃんと出ておけって、いつも私と弟の教材費や給食費を払ってくれるんです。桧山さんだってふるさとから離れた遠いところに来て、一生懸命なのは分かってるんです。でも、どうか今回だけは国体出場を兄に譲って頂けませんか?」
お下げ髪の少女は、深くお辞儀をして頭を上げようとしない。少女はまだ中学生くらいに見える。堀江巌一の父親は戦争で亡くなったか、生きていても働けない体や心になったことが容易に想像がつく、家庭環境だ。
四郎の家は戦争から父が無事に帰ってきて、頭の切り替えが速い人間だったからそこまでの苦労はなかった。高校時代に新聞配達のアルバイトをしてスキー靴を買ったのも、堀江家に比べたら裕福だった証拠だろう。高校の同級生の中には、家計のためにアルバイトを複数掛け持ちして、スポーツに打ち込む余裕のない者もいた。
四郎は考えあぐねた。目の前で、頭を決して上げずに懇願する女学生の姿を見ると、自分の我を通すことが最善だと思えなくなっていく。しかし、自分は何一つ疚しいことはしていないし、スポーツというものは、特に、タイム競技というものは、結果が全て。
しかし、冬季のスポーツというものは、夏のスポーツよりも、ずっと金食い虫だ。練習時間と道具に金が掛けられる者が有利になる。
気楽な末っ子の四郎には、妹と弟の生活や学費の工面をしながら、少ない資金と練習時間で県大会二位になった巌一の苦労は想像できない部分もある。
想像はできなくても、並大抵の努力では辿り着けない、茨の道だったことだけはわかる。四郎は、大きく息を吸うと、お下げ髪の少女に告げた。
「分かりました。陳情と署名活動は止めます。代表資格についてはもう何も言いません」
その言葉を聞いてもまだお辞儀をしたままの少女を不審に思い、寮母さんが少女の顔を覗き込む。
「あんた、大丈夫かい?」
少女は手で涙を拭いながら、
「無理なお願いをしてごめんなさい。ありがとうございます。一生恩に着ます」
少女は顔を上げるともう一度深くお辞儀をして立ち去って行った。
寮母さんは署名活動のチラシをヒラヒラさせながら、
「あの子、このチラシを見てここに辿りついたんだろうね。まあ、いいじゃないか。来年は故郷の県大会に出て、故郷で優勝して誰にも文句を言わせるんじゃないよ」
励ましてくれているのだろうが、F県の県大会のレベルの高さを寮母さんは知らない。でも、S県でしか代表になれない国体選手という陰口は去年の国体のときから言われていた。
あの少女の嘆願は、いいきっかけかもしれない。四郎は無理にそう思い込もうとした。
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