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若林健吾の告白~稲村初美~
倒れている谷口と三好の横を通り、稲村の前に立った。
稲村は若林と目を合わせようとせず、横を向いている。
時たま手元のナイフに目を向けていたが、とてつもない恐怖感に襲われてしまうのか、なるべく見ないように努めているようだ。
「わ、若林、わたし、あんたに一体なにを?」
声が震えている。
当然だろう。
若林がちょっと右手を伸ばせば、稲村の腹にナイフが突き刺さるのだ。
だからといって、不用意に動けるわけがない。
ほんの少し、後ろに後ずさるだけで精一杯のようだ。
「忘れたとは言わせないよ、稲村さん。」
ちらりと谷口に目を向けて、若林は言った。
「谷口君は、どうして僕の事をいじめるようになったんだろうね?」
稲村はなにかを考えているようだ。
本当に、僕にとってはおそらく一生忘れられないことなのに、どうしてこいつらは簡単に忘れられるんだろう。
15年も前の事だから?
関係ない。
15年前だろうが、次の日だろうが、おそらくこいつらは覚えていない。
また一から説明しなければいけないのか。
若林は気が滅入ってしまっていたが、ため息を1つつき、稲村の答えを待つことにした。
「さ、さあ、わからない。でも、いじめが始まるのに、理由なんかないんじゃないかな。」
やっぱり。
自分が悪いだなんて微塵も感じていないようだ。
本当にこのまま刺してしまおうか、と一瞬考えたが、それはやめておいた。
それでは、自分の復讐は意味をなさない。
「残念。違うんだよな~。ある日を境に、僕は谷口君からいじめられることになった。他の同級生からも、白い目で見られるようになった。覚えてる?」
稲村はまた視線を宙に浮かばせた。
真剣に考えていないことは、顔を見ればすぐにわかる。
女優なんだから、もう少し演技を頑張ればいいのに。
どうせ頭の中では、ナイフを向けられた時の人間のリアルな気持ちや動きなどを研究して、演技の幅を広げようとでも思っているのだろう。
何時間待っても答えなど出ないだろうと感じて、若林は早々に口を開いた。
「じゃあ、教えてあげるよ。僕が稲村さんに、付き合ってくれって言った時からだよ。」
教室内の時が一瞬止まったように感じた。
張本人である稲村が一番驚いているようだ。
信じられないという顔をしている。
そうなんだ。
若林が唯一告白した女性というのが、稲村初美だったのだ。
「僕みたいな人間は、女性と話すことなんか出来ないんだよ。話すどころか、挨拶すらまともに出来ない。女性の目を見ただけで、背中に汗をかいてしまうんだから。でも、稲村さんは、廊下で僕とすれ違う時、いつも『おはよう』って、挨拶してくれた。初めてだったんだ、挨拶とはいえ、僕に話しかけてくれた女子は。まあ、いまになって思えば、僕みたいな最下層の男子までも見下す、それも1つの優越感の浸り方だったんだろうけど、当時の僕は嬉しかった。それで、なにを勘違いしたのか、僕は稲村さんに告白しようって決めたんだ。断られたけどね。」
なにを言ってるんだ。
稲村の顔にそう書いてあった。
それはそうだろう。
若林みたいなやつが自分に告白したなんて、信じられるわけがない。
いつもたくさんの男子に告白をされてきたんだから、若林の事なんか記憶に残っているわけがないんだ。
でも、これは間違いなく真実だ。
ベタに校舎の裏ではなかったが、体育館の倉庫に稲村を呼び出した。
自分でも、どうしてそんなことが出来たのか、いまとなっては理解できない。
どこか、舞い上がってしまっていたのかもしれない。
「振られたから、わたしに復讐をしようと思ったの?」
思わず笑ってしまった。
そんな馬鹿なことがあるはずない。
もし本当にそんなことを考えるやつがいたとしたら、稲村はどこかでとっくに殺されていることだろう。
こいつは本当に想像力というものが欠落している。
僕の方がずっと上等だ。
「まさか、付き合ってもらえるなんて思ってなかったし、話を聞いてもらえるだけでもありがたかったんだ。」
「それなら、どうして?」
「稲村さん、そのあと、クラスメイトに僕の事、なんて言った?」
また教室内の時が止まった。
核心につくような事を言ったが、誰もそのことに心当たりがない。
特に目の前のこの女。
すべてを教えてあげないと駄目らしい。
こいつの記憶の引き出しは、よほど錆び付いているか、全部半開きになっているのだろう。
それでも、一か八かで何か答えようとしている。
若林はわずかな希望を信じて、稲村の次の言葉に耳を傾けた。
「た、たぶん、若林に告白されたけど、もちろん断ったよ、とか、言ったと思う。」
ほんの少しでも信じようとした僕が馬鹿だった。
だいたい、どうしてそれで復讐しようとするのか、まったく考えなかったのか。
昔からちやほやされ、さほど挫折というものを経験したことのない人間はこんなにも陳腐な言葉しか並べられないのか。
仕方がない。
また教えてやるとするか。
「違うよ。稲村さんはこう言ったんだ。『体育館の倉庫に、若林に呼び出されて、いきなり襲われた。犯されそうになった。必死になって逃げてきた。だから、みんなも気を付けなよ。』ってね。」
足がガクガクと震えだし、両手で口元を覆った。その両手も大きく震えていた。
死んでしまうのではないかと思えるくらい顔が真っ青になっている。
よほど自分が言ったことが信じられなかったのであろう。
こいつにとっては、なんでもないただの日常だったんだから。
ほんの少しでも自分の記憶に残っていれば、こんなリアクションにはならない。
「ご、ごめん、覚えてない。で、でも、もし言っていたとしても、ふざけて言ったっていうか、冗談っていうか。」
若林は稲村の言葉を遮った。
「冗談?冗談で、あそこまで人の事を陥れられるの?すごいね~。」
若林はナイフを持っている手で拍手をした。
わざとらしく、稲村の顔の目の前に手を持っていった。
稲村の背中は、すでに窓の手すりに付いている。
「それからだよ。僕が谷口君からいじめられるようになったのは。それはそうだよ。クラス1、いや、学年1の人気者の稲村さんを犯そうとしたんだ。しかも、こんな陰湿な僕が。いじめの標的にするには最高の相手だよね。さあて、どうしようかな~。」
ナイフを振り回しながら、若林は言った。
稲村は、仕方がないという表情を見せながら、こちらに向かってゆっくりと頭を下げてきた。
「謝る。あの時は、ごめんなさい。」
なんだ、素直に謝るということは出来るんだな。
しかし、これで許せるほど若林の背負っているものは軽くない。
若林はナイフを稲村の顔に向けながら睨み付けた。
「それだけ?足りないな~。」
その言葉を聞いて、稲村は下を向き、下唇を噛んでいた。まるで悔しさを噛み殺すように。
そしてゆっくり、ゆっくりとした動作で、膝から地面に着き、座り込んだ。
顔を見ると、反省などしていないことは明白だ。
ナイフへの恐怖と、それを持っている若林への悔しさが入り交じった表情をしている。
それを見ていると、もっともっとこの女を苦しめてやりたくなった。
稲村は座った状態から頭を下げ、いわゆる土下座の格好で若林と向き合った。
「あの時は、すみませんでした。」
愉快だ。
こんなに愉快なことはない。
あの稲村初美が、あの自分以外の全員を見下していた稲村初美が、いま僕に対して土下座をしている。
谷口や三好も見てみるといい。
思わず笑ってしまうだろうから。
ただ、これでもまだ満ち足りない。
なにかが物足りない。
そうだ。
こいつは女なんだ。
女には女の誠意というものがある。
「脱いでよ。」
若林の言葉に、明らかに稲村が息を飲むのがわかった。
こいつは狂ってる。絶対に狂ってる。
そんな目で若林を睨み付けている。
「服を脱いで謝ってよ。そうじゃないと、僕の気が済まない。」
さすがにそれは出来ないのか、土下座の格好のまま動かない。
なんとかこれで許してくれないか、そう訴えているように感じる。
駄目だ。
土下座なんか誰にでも出来る。
僕がナイフを持っていることを忘れたのか。
「出来ないの?」
若林は土下座をしている稲村の目の前にナイフをちらつかせた。
驚いた稲村は土下座の格好から後ろに倒れこみ、尻餅を付いてしまった。
それで観念したのか、稲村は静かに上に羽織っている服を脱ぎ始めた。
正式な名前があるものなのだろうが、若林にはわからなかった。
その動きをじっと眺めていると、後ろから声が聞こえた。
三好がやっと起き上がってきたのだ。
殴られた顔を押さえながら、こちらに目を向けている。
「稲村さん、そんなことをする必要はない。」
本当はこのまま見ていたいくせに。
こんな時でもまだ教師としての役割を果たそうとしているのか。
いっそこのナイフで刺してしまおうか。
そうすれば、嫌でも黙るはずだ。
「また口を挟む。あの時みたいに黙ってみててくれればいいんだって、先生。」
それで三好は黙り込んだ。
口を出すくせにちょっと言えばすぐに黙る。
だったら最初から余計なことを言うな。
イライラする。
そのやり取りの間、稲村は服を脱ぐ動きを止めていた。
「稲村さん、続けて。」
そう言うと、稲村はまた動きを再開させた。
羽織っていた服を脱ぐと、胸の谷間がより強調され、白い腕が露になった。
あと1枚脱げば下着姿だ。
想像しただけで興奮する。
いっそ、学生時代の時の嘘をまことにしてしまおうか。自業自得。
このナイフさえあれば、ここで若林が無理矢理童貞を捨てることなんか簡単だ。
しかし・・・
若林はまた大笑いをした。
唾を飛ばしながら、稲村に言葉を吐き捨てる。
「なにマジになってるの?冗談に決まってるじゃないか。誰が君の裸なんか見たいと思うんだよ。女優だからってな、自惚れてるんじゃねえよ。」
稲村は座り込んだまま頭を垂れ下げた。
先程の土下座の格好とよく似ているが、どうやら今回は違うようだ。
体の力が抜けて、悔しさと虚しさで起き上がれないのだろう。
こんな屈辱はおそらく初めてのはずだ。
3人を自分の手のひらの上で転がすことが出来た高揚感で、マスターベーションに似たような感覚の興奮が体を包み込んだ。
その姿を見ていたら、また笑いが込み上げてきて、静まり返った教室に若林の甲高い笑い声が響き渡った。
「みんな凄いね。いじめをしていた張本人が会社を立ち上げて、その原因を作った女が女優になって、それを見殺しにしていた教師がいまとなっては校長先生。勉強になったよ。腐った人間だって、頑張れば成功するんだね。僕なんか、あの時の事がトラウマになって、就職をしてみたこともあったけど、1ヶ月と続かないんだ。またあの時みたいにいじめられるんじゃないか、暴力を振るわれるんじゃないか、見殺しにされるんじゃないか、そう考えただけで、頭がおかしくなる。」
そこまで一気にしゃべったところで、自分が息継ぎをしていないことに若林は気付いた。
はあはあと息が切れていた。
大きく深呼吸をして、静かに、ゆっくりと、また話し出した。
「結局、アルバイト生活をするしかなくなった。僕はみんなが羨ましいよ。みんなみたいに、成功した人生を送ってみたいものだ。」
教室に若林の声が大きく響き、全員がなにも言えずにうつむいていた。
ここでは僕が王様だ。
誰も僕に逆らうことは出来ない。
そう思っていた。
「あんたになにがわかるんだ。」
ずいぶんと低い声が若林の耳に聞こえてきた。
谷口か三好かと思ったが、どうやら違うようだ。
稲村を見てみると、涙を浮かべた目で若林を睨み付けていた。
確かに、稲村が言っていた。
そこにいる誰もが驚いていた。
若林も、そのうちの1人であった。
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