稲村初美の告白

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稲村初美の告白

「あんたになにがわかるんだ。」 その言葉を聞いて、全員が稲村の顔を凝視した。 いま言ったのは、本当に稲村か? いままでとは全然声が違う。 洞窟の中から響いてくるような、とてつもなく低い声だ。 もしかしたらこれが、まったく演技をしていない稲村の本当の声。 「い、稲村さん?」 若林は思わず動揺したまま聞き返してしまった。 このままでは、せっかく優位に立ったはずの立場が変わってしまう。 ナイフを持っているとはいえ、気の弱い若林健吾はそのままなのだ。 「あんたになにがわかるんだ。女優になって成功しただって?馬鹿なことを言うな。」 脱ぎ捨てた服を床に叩きつけ、稲村は叫んでいた。 その姿を見ても、もはや興奮などしなかった。 むしろ、いまにも飛びかかってきそうな稲村の迫力に圧倒されて、後ずさってしまった。 驚いているのは自分だけではない。 後ろで谷口と三好が息を飲む気配が伝わってきていた。 「稲村さん、一体どうしたっていうんだ?」 久しぶりに谷口の声を聞いたような気がする。 いまだにナイフで刺された足は押さえているが、それ以外は大丈夫なようだ。 三好も、口元から血を流したままだが、ゆっくりと立ち上がり、稲村の声に耳を傾けようとしている。 「ふん、女優っていっても、結局は人気商売。人気がなくなったら、女優なんかやってられないんだよ。」 服を乱暴に着て、腕を組みながら稲村は言った。 足は大股に開いている。 もはや、女優の稲村初美の面影はもうそこにはない。 「な、なに言ってるんだよ稲村さん。いまだってちょくちょくテレビに出ているじゃないか。」 そのはずだった。 たまに深夜にやっているバラエティに出演しているのを見かけている。 しかし、所詮一般人が見ているのはテレビに出ているか出ていないか、その裏で何が行われているかなど、知るよしもない。 「ドラマなんて、あんたたちが観ていたやつからは1本も出てないよ。」 一瞬、なにかと考えたが、例の『寝台列車殺人事件』のことだろう。 確かに、あれ以降、ドラマや映画などで稲村の姿を見ることはなかったかもしれない。 よほど打ちきりのダメージが大きかったのか、それとも、前々から決まっていたのかはわからない。 「今年に入って、女優の仕事なんか全くやっていない。たまにバラエティに出て、もう売れていないことを周りからいじられて、それでもヘラヘラ笑ってなくちゃいけない。上にはいくら頑張っても追い付けないのに、下からはどんどん若い人が出てきて、どんどん追い抜かれていく。その気持ちが、あんたにわかるのかよ。」 稲村は一気に言いきった。 まさか、そんなことになっているなんて思いもしなかった。 テレビにさえ出ていれば、女優やタレントとしては成功している方だと勝手に思っていたが、どうやら違うようだ。 芸能界の裏を知ると、普通にテレビを観られなくなる。 さっきの稲村の言葉を思い出した。 「で、でも、僕から見たら、テレビに出られているだけでも、幸せなことだと思うんだけどな。」 形勢は完全に逆転した。 稲村に圧倒されて、すっかりいつもの若林健吾に戻ってしまっていた。 まだナイフを持っているからいいものの、それがなかったら、ただのいじめられっこだ。 それに、肝心なことを忘れていた。 若林はいま、谷口と三好に完全に背中を向けてしまっている。 稲村に気をとられて、次になにを言うのか、どんなことを話すのかに耳を傾けているからいいが、そうでなければ、とっくに後ろから倒され、ナイフを奪われていたことだろう。 若林は気付かれないように、ゆっくりと稲村と谷口達の間に体を開くように体勢を整えた。 どちらにも、同じような警戒心を向けた。 稲村の訴えはまだ続いている。 どこにも吐き出せる場所がなかったのであろう。 心の中の思いをぶちまけているせいか、目にはうっすらと涙を浮かべていた。 「売れてた頃はよかったわよ。周りの人はみんなちやほやしてくれて、お給料もたくさんもらえて、贅沢もさせてもらった。でも、売れなくなった今になって、生活のレベルなんて下げられない。わたしはまだ大丈夫、周りの見る目がないだけだって、必死に自分に言い訳して、あちこちから借金して生きてるんだ。」 稲村はゆっくりと若林に近付いてきた。 よほど興奮したせいか、立ちくらみのような症状を起こしたのだろう。 足下がフラフラして、目の焦点も合っていない。 それが更に若林への恐怖を強いものにさせた。 思わずナイフを稲村に向けていたが、構わずに真っ直ぐこちらへ向かってきた。 怖い、怖い、怖い、怖い。 「これがあんたの言う、成功した女優の姿だよ。羨ましい?ねえ、羨ましいんだよね?」 稲村は金切り声のように絶叫して、若林を突き飛ばした。 尻餅をついてしまい、しばらくそのまま呆気にとられてしまっていた。 「そ、それじゃあ、明日仕事があるっているのは・・・」 「嘘だよ。明日は8連休の5日目。笑ってもいいよ。」 「いや、そんな、笑うだなんて。」 「あれ、さっきまでとずいぶん態度が違うね。」 当たり前だ。 稲村のあんな姿を見ておいて、まだ冷静になれているんだとしたら、よほど肝の座った人間だ。 しかし、若林はそうじゃない。 元々はただのいじめられっこ。 ナイフを掲げて偉そうにしているガキだ。 「稲村さんがそんな状態だったなんて、知らなかったから。」 「芸能界の世界なんてそんなもんなんだよ。使うだけ使って、古くなったら代わりなんかいくらでもいる。わたしはもう、賞味期限の切れた商品。」 「そ、そんなことないよ。」 不思議だ。 あれだけ憎らしく思っていたはずなのに、いまは稲村に同情の気持ちすら湧いてくる。 若林は、この女より自分の方がずっと上にいると思っていた。 だが、それは違っていたようだ。 自分が上にいるのではない。 自分よりも圧倒的に上に上がった稲村が、今は相当落ちてしまっているんだ。 それこそ、若林より、もっともっと下の方に。 その高低差を考えたら、目の前にいる稲村の姿も納得できる。 どれほど苦しかったことだろう。 どれほど悔しかったことだろう。 若林は、稲村を抱き締めたいという欲求にかられた。 「その点、谷口はいいよね。高校を卒業して、会社を立ち上げて、いまでは何十人もの社員を抱える社長さんですか。わたしはあんたが羨ましいよ。わたしも、普通に就職していた方がよかったのかな。」 稲村は谷口を見下しながら言い放った。 目線は上からだが、その口調は自分自身を相当蔑んでいるように感じた。 哀れだ。 若林は稲村を単純に可哀想だと思っていた。
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