三好太郎の告白

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三好太郎の告白

「2人の気持ちはよくわかった。相当、辛い思いをしたんだろう。だが、2人とも相手の事ばかりで、自分自身のことから目を背けている。それでは駄目なんだ。うまくいっている時の自分も、駄目な時の自分も、どちらもしっかり受け入れないといけない。そうでなければ、この先どんなことがあっても、誰かのせいにしてしまう。それでもいいのか?」 三好は教師として非常に立派なことを言っている。 おそらく、今回はよく見せたいからではない。本当に2人のことを心配しているのだろう。 しかし、いまの2人には届くことはない。 白けたような空気が教室を包み込み、谷口が鼻で笑った。 稲村は谷口から離れ、窓側へ歩いていき、ボーッと外を眺めている。 「先生。先生の言葉はありがたいけど、説得力がないよ。」 「そうだよね。先生は自分の希望通りに校長先生になれたからそんなことが言えるんだよ。わたしたちの気持ちなんて、絶対にわからない。」 あれだけ言い争っていた2人が、いまは同じ意見であることが少しおかしかった。 谷口の言う通りだ。 成功した人が失敗した人に説教をしたところで、なんの効果も得られない。 それがたとえ、教師の言葉だったとしても。 2人の言葉を聞いて、鋭かった三好の目が、突然穏やかに垂れ下がった。 そして谷口、稲村、若林の顔を順番に眺めたあと、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。 「そうか、そうだよな。君達からしたら、わたしはそう見えてしまうんだろうな。」 「先生、もしかして、先生も何かあったの?」 若林は思わず聞いてしまっていた。 そんなこと、ありえないと思っていた。 校長先生になりたいと考え、若林のいじめも見て見ないふりをしていた。 その先生が、どうしてそんな目をしているんだ。 若林はナイフを持っていることなどすっかり忘れ、あの頃の若林健吾として聞いていた。 「そうなのかよ、先生?」 谷口も同様の気持ちなようだ。 稲村はなにも言わないが、じっと三好の次の言葉を待っているように見えた。 三好はすっと息を吸い込み、ゆっくりと話し始めた。 「わたしは、特に何かあったわけではない。校長になれたいまの立場に満足している。」 「それなら、どうして?」 この話がどこへ向かうのかが全くわからなかった。 希望通りの道に進めたのに、なにがそんなに気に入らないのか。 若林や谷口や稲村と比べたら、雲泥の差であるはずなのに。 「若林君の言う通り、当時のわたしは、君がいじめられていることに気が付いていた。しかし、その事実を受け入れるわけにはいかなかった。自分のクラスでいじめがあったんてことが学校側に知られたら、わたしは担任としての責任を問われ、校長への道が遠のくことになる。若林君、申し訳なかった。」 三好は若林に深々と頭を下げてきた。 谷口と稲村も、気まずそうに俯くのが目の端で確認できた。 いまさらなんだ。 謝られても、いまの若林の気分が晴れるわけがない。 それなのに、この気持ちはなんだろう。 心に霧がかかっていて、自分でも自分の気持ちがよくわからない。 「やっぱり、そうだったんだ。」 強がって、そう言うのが精一杯であった。 「わたしは、学校のトップに立ちたかった。そしていずれは、教育委員会への道が約束されている。まさに、順風満帆だ。」 三好はほんの少しだけ胸を張った。 そこまでの人生プランがあり、まさにいま、そこへ向けて歩いていけていることは、やはり誇らしいのだろう。 興味津々で聞いていた谷口の顔色が一瞬で曇った。 「自慢にしか聞こえないよ、先生。」 ぼそりと呟くように谷口が言った。 稲村の方からも、あからさまな溜め息が聞こえてきた。 「ずっと校長になりたくて、いじめまで黙殺してやっと夢を叶えたっていうのに、それなのに、わたしの目の前には、なにも残らなかったんだ。女房だって、お疲れ様の一言も言ってくれなかった。」 なにも残らなかった? 本当にそうなのか? 若林は、小さい頃から夢なんか持ったことがない。 小学校、中学校、高校と、卒業文集に書くべき『将来の夢』というものはいつも白紙で出していた。 それなのに、三好のような年齢になっても、夢を追いかけているのが若林には眩しすぎるほどだった。 しかも、その夢を叶えたというではないか。 校長先生になる、という現実的な夢ではあるが、それを叶えるのには相当の努力と覚悟が必要だったはずだ。 いじめを黙殺してきたと白状したが、もしかしたらその裏では、自分達では想像もできないくらいの苦しみがあったのではないか。 馬鹿な、こいつに同情してどうする。 若林はこいつらを、自分と同じ気持ちを経験させたいと思ってここまで呼び出したはずなのに、どうしてこんな気持ちになっているんだ。 そんな若林の気持ちも知らず、三好は話を続けていた。 「ある日、学校から帰る電車の中で居眠りをしてしまって、目を覚ました時に、目の前にいる人の顔を見て、思わずわたしは笑ってしまったんだ。この人は、なんてくたびれた顔をしているんだろう。きっと夢も希望もなく、同じような毎日を過ごしているんだろうな。かわいそうな人だ。」 そう言って、三好は力なく笑った。 なんとなく、次の展開が読めてしまっていたため、三好の目を見ていられなかった。 そう思って目を逸らしたら、同じように目を逸らした谷口と稲村と目が合ってしまい、なんとなく気まずかった。 「よく見たら、窓に映った自分の顔だった。夢を叶えたっていうのに、どうしてこんな疲れた顔をしなくちゃいけないんだ。君たちの担任をやっていた頃のわたしの方が、ずっと生き生きとした顔をしていた。女房にそう言われたんだ。笑っちゃうだろう。失敗した君達に比べたら、ずっといい人生を送っているのに、こんなことを言う資格なんてないのに、なんでだろうな。」 気が付くと、三好の目から大粒の涙が流れていた。 それをハンカチで拭う余裕すらないのだろう。 若林は、涙が流れるのを堪えるのに必死だった。 元担任教師のこんな話、聞きたくなんかなかった。 三好だけではない。 谷口も、稲村もそうだ。 こんなはずではなかった。 自分よりも確実に上の立場にいる、恨みを抱いていた3人に自分の苦しみを知ってほしかっただけなのに、どうしてこんなことになっているんだ。 一度は成功したけど、長続きせずに人生のどん底に落ちていった者。 成功の階段を登り切った先に、空っぽの人生しか待っていなかった者。 そして、戦うことを最初から放棄して、成功も失敗も経験していない自分。 そうか、自分だけではなかったんだ。若林はそこで気が付いた。 若林は自分だけがこんな目に遭っているとばかり思っていた。 暗くてジメジメとした部屋でこのまま一生を終えるものだと思っていた。 しかし、それは勘違いだったんだ。 むしろ、みんなの方がずっと辛い思いをしていたんだ。 ずっと過去にしがみついて、誰かに責任をなすりつけて、現実から逃げていた自分が急に小さく見えてしまう。 違う、こんなはずじゃない。 もっと成功した自分達のまま、こちらを見下してくれ。 夢を叶えたんだと高らかに笑っていてくれ。 そうでなければ、わざわざナイフまで用意してこんなことをしている自分がよけい惨めになってしまうではないか。 谷口を見た。 痛々しそうに顔を歪めながら、若林に刺された足を押さえている。 足をナイフで刺した時の嫌な感触は、いまでもこの手に残っている。 稲村を見た。 三好の話を聞いて、手のやり場に困っているのか、気まずそうに両腕をさすっていた。 その服を、若林はさっき脱がせてしまったんだ。 三好を見た。 少し落ち着いたのか、ハンカチを出して涙を拭っていた。 先生も、こんなに年をとったんだな。 小さく震えている三好の背中を見て、しみじみと思った。 自分自身を見つめなおしてみた。 駄目だ、このまま終わらせてはいけない。 なんのためにここに来たのかを、もう一度考え直した。 みんなの話を聞いただけで揺らぐような、そんな簡単な決心ではなかったはずだ。 部屋を出る時に、心に誓ったではないか。 どんなことがあっても、もうここへは戻ってこない。 そう、どんなことがあっても・・・。 若林は目を閉じて、ナイフを握り直した。
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