若林健吾の復讐

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若林健吾の復讐

「もういいよ、聞きたくない。」  若林は自分を鼓舞するために、大声を張り上げた。 しかし、教室内の空気はもはや若林の叫び声1つでは取り返しのつかない状態にまで陥っていた。 誰かが後一押しすれば、この集まりは解散する。 若林はそう感じていた。 その口火を切るのは、おそらく三好だ。 すべてを吐き出したためか、三好の目はすっかり精気を取り戻し、あの頃の情熱溢れる教師の顔になっていた。 三好の頭の中にあるのは、もはや全員を無事にここから脱出させることだろう。 明日からおそらく、またいつもの日常に戻ってしまうだろうから、自分達の元担任としての、最後の仕事だ。 「若林君、聞いてくれ。」 三好は最後の説得を試みようと、若林に声をかけた。 いまなら切り崩せる。 そう感じているのだろう。 「もうわかったってば。ははは、やっぱり、みんな罰が当たったんだね。それはそうだよ、いじめに関わっていた人間が、成功なんか出来るわけがないんだ。ざまあみろよ。君達はこれからも、ずっと人生の底辺を進んでいくんだろうね。いい気分だ。」 若林は笑ったが、心からの笑いではなかった。 叫んだ言葉は虚しく響き渡るだけだった。 思わずナイフを向けてみたが、怯えている人はいなかった。 それどころか、どう見ても一番怯えているのは、向けている方の若林だ。 白けた空気すら漂っている。 特に谷口と稲村の顔には「早く帰りたい。」とさえ書いてあった。 その中でも冷静なのが、やはり三好だ。 三好は、こんな若林でも決して見捨てない。 その気持ちが伝わってくることが煩わしく、ほんの少し温かかった。 「若林君、もういいだろ。我々を解放してくれないか。今日の事は誰にも言わないし、わたしたちだけの秘密だ。みんな、それでいいな。」 三好は、谷口と稲村に尋ねた。 2人は声もなく頷いた。 谷口は足を怪我しているのに、秘密に出来るのだろうか、と一瞬考えてしまった。 「そういうことだ、若林君。もう終わりにしよう。さあ、みんなでここを出ようじゃないか。」 三好は言葉の途中から、谷口に肩を貸し、出口に向かい始めていた。 このまま帰してもいいのだろうか。 今日の事を誰にも言わないという言葉は信用していいだろう。 自分のやったことが世間に晒されることはないと思う。 しかし、まだ自分の復讐は果たされていない。 あの薄暗い部屋にはもう帰らない。 いままでの自分から、脱却するんだ。 若林は帰ろうとしている3人の背中に向かって息を大きく吸い込んだ。 「待てよ。こんなことで、僕の復讐が終わったと思ったら大間違いなんだよ。」 やっと解放されるという安堵感に包まれていた3人の間に、また白けたような空気が流れた。 さすがの三好も疲れているのだろうか。 大きなため息をつきながら、こちらを振り返った。 「まだなにかやり残したことがあるのか?」 「まさか、俺たち全員を殺すつもりか?」 三好に抱えられながら、谷口はつぶやいた。 谷口の言葉に、全員に緊張感が走った。 「ぼ、僕にそんなことは出来ないよ。君達を殺すだなんて。」 「じゃあ、一体何なの?」 稲村は怯えながら、若林が何を言うのかを気になっているようだ。 若林は最後のカードを切ることにした。 「君達、目の前で人が死ぬのを見たことがあるかい?」 全員が、何を言っているのか理解できていないようだ。 目の前で人が死ぬ? 3人はゆっくりと顔を見合わせていた。 そんな経験、あるはずがない。 まさか・・・。 いつもの朝のはずだった。 その前日だって、家族でいつも通りに晩御飯を食べていたはずだ。 そんな可能性、1ミリも考えていなかった。 このなんでもない日常が、一生続くものだと思っていた。 起きたのは朝の11時頃だったか。 父親と母親はすでに仕事に行っているはずだった。 いつも通りに自分の部屋からリビングまで下りて、朝昼兼用のご飯でも食べようと思った。生活費など1円も家には入れてはいないが、別に今更なんとも思わない。 リビングに行くには、父親の部屋の前を通る。 部屋のドアが少しだけ開いていた。 何気なしに部屋の中を見てみたら、父親が立っていた。 一点を見つめたまま、まったく動かない。 なんだ、今日は家にいるのか、と特に気に留めてはいなかった。 ほんの少し感じた違和感は、頭の隅っこに追いやっていた。 ご飯を食べ、リビングでゴロゴロして、また夕方まで寝ようかと自分の部屋に向かった。 そんなことをしたら、また夜に眠れなくなるだろと思ったが、その時はまた朝までゲームをして時間をつぶせばいい。 そこでまた、父親の部屋の前を通った時、まだ同じ体勢で立ち尽くしていた。 まず感じたのは、強烈な異臭であった。 トイレからしているのか、誰かが流し忘れてしまっているのか、いや違う、明らかに父親の部屋の中から匂ってきている。 そっと部屋のドアを開けてみたら、臭いが一気に強く鼻を刺激してきた。 声をかけようと足を踏み入れた時、ついさっき感じていた違和感が確信に変わった。 父親は部屋の中に立ち尽くしていたわけではない。 首を吊っていたのだ。 鼻を刺激した悪臭は、首を吊っていた父親から垂れ流されている糞尿であったのだ。 それからのことはほとんど覚えていない。 不思議と涙は出なかった。 いや、どこかで流したのかもしれないが、その記憶すらなかった。 ただ、母親が泣いていなかったことだけは強烈に目に焼き付いている。 気が付いたら、いつの間にか父親のいない生活が始まっていて、それに慣れてしまっていた自分がいたのだった。 「本当かね・・・。」 全員が真っ青な顔をして聞いていた。 三好が代表して聞き返してきたが、その声は震えていて、あまり聞き取れなかった。 「こんな時に嘘なんてつかないよ。後になって聞いてみたら、色々なことが重なっていたみたいなんだ。僕がいつまでも定職につかないこと、自分の病気、そして、お母さんも不倫していたんだって。だから、お父さんが死んだ時だって、泣いていなかったんだ。僕の知らないところで、家族はもうボロボロだったんだよ。お父さんは、誰にも相談が出来ずに、たった1人で死んでいったんだ。僕の目の前で。」 父親が死んだ時には流れなかった涙が、いまは止めどなく流れてしまっている。 思い出しているのではない。 自分の心の中に溜まっていたものをやっと吐き出すことが出来たからなんだ。 さっきの三好もそうだったのだろう。 「怖いよ、目の前で人が死ぬって。しかも、自分の父親が。僕が見る夢のほとんどは、高校時代にいじめられていた事と、お父さんが目の前で首を吊っていたっていう事だ。いつもいつも、うなされて目が覚めるんだ。夜、眠るのが怖いんだよ。」 もう、前が見えないくらい顔がぐしゃぐしゃになっていた。 どうして自分がこんなことになっているんだ。 谷口と稲村と三好に感じていた一瞬の同情はすっかりと頭から消え去り、若林はここへ来る前の高揚した自分を取り戻していた。 「それで、君はどうしたいっていうんだ?」 「みんなにも、僕の気持ちをわかってもらいたいんだ。目の前で人が死んでいく恐怖を。」 そう、それこそが若林の最大の目的、最大の復讐。 おそらく、ここにいる誰もが体験したことのない恐怖。 3人は後ずさりながら、目をきょろきょろとせわしなく動かしている。 今度こそ本当の殺される。 どうやって逃げ出そうか考えているのだろう。 谷口は足を怪我しているから論外としても、三好は谷口を支えているから逃げることは出来ない。 稲村は1人で逃げることも可能だろうが、間違いなく標的にされて追われることは目に見えている。 つまり、誰もここから逃げられない。 全員を殺すのか、それとも、目的の相手がいるのか。 「この中の、一体誰を・・・。」 谷口は恐る恐る聞いた。 こいつらは人の話を聞いていないのか。 さっき、若林はなんと言ったのかを思い出せばいい。 「さっきも言ったじゃないか。僕には人を殺す勇気なんてないんだ。」 若林はなぜか3人から少し離れて、教室のど真ん中に立った。 目の前には大きな黒板が広がっている。 「これが、15年考え抜いた、君達に対する僕の復讐なんだよ。」 若林はナイフを天井に掲げ、一気に振り下ろした。 気が付いた時には、そのナイフの切っ先は、若林の腹に深々と突き刺さっていた。 足を刺した時とは、手に伝わる感触が違うんだな。 薄れゆく意識の中、若林はそんなことを冷静に考えていた。 痛みはあるが、それよりも強く感じるのは、熱さだ。 腹の一部分に集中して、猛烈に熱を帯びているようだ。 その熱が落ち着いてくるのと比例して、目の前の景色がかすんでいくのを感じた。 死ぬ。 その2文字が頭の中を占めていた。 「若林。」 3人が同時に叫んだ。 若林は最後の力を振り絞って、崩れ落ちそうな膝を必死に支えながら顔を声の方に向けた。 「近づくな。そこで僕が死んでいくのを黙って見ていろ。そして、一生苦しんで生きていけ。」 耐えきれなくなり、ついに若林は膝から地面に倒れてしまった。 顔に冷たい教室の床が気持ちがいい。 熱くなった自分の体にはちょうどいいくらいだ。 「痛くない、全然痛くない。高校時代に比べたら、お父さんが死んでいった時の気持ちに比べたら、こんなの痛くない。」 若林は誰に言うでもなく、倒れた状態のまま呟いた。 体に誰かが触る気配を感じたが、もうどうでもよかった。 自分は死ぬ。 もうあの部屋には帰れない。 みんなは若林が目の前で死んだことが一生のトラウマになって、これからずっと苦しんでいくことだろう。 谷口と稲村は、仕事を変えて、誰かと結婚して、子供も出来て、幸せな人生をこれから歩むかもしれない。 三好はこのまま定年して、穏やかで平凡な人生かもしれない。 しかし、いつかそれもいいと思える日が来るだろう。 こんな人生も悪くなかったと振り返るだろう。 そんな幸せな生活の中に、必ず若林が死んだ姿がフラッシュバックする。 その記憶は、頭の中から消し去ることは絶対に出来ない。 ざまあみろ。 若林は復讐をやり遂げることが出来た。 途中、危ないところもあったが、大成功だ。 有終の美を、飾ることが出来た。 いじめられていた事が、いい思い出になる前に復讐を終えられた。 こんな自分にだって、出来ることがあったんだ。
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