肆 夕暮れの黒

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「あぁ、よかった。途中で見失ってしまったかと思いましたよ。お買い物をされていたのですね」  黒ずくめにお面という不審者極まりない外見に反して、内面は丁寧で穏やかそうである。  優しく紡がれる言葉は俺の鼓膜を繊細でいて大胆に撫で回しており、耳元で囁かれると非常に危険な声だろうと予想できた。アニメを見て妹が「このキャラ、イケボだよね」と言って来そうなタイプの声なのだ。  否、そんなことよりも。  なぜこの男は俺の名前を知っているのだろう。きっちりとしたジャケットに面を被って登場するなどという不可思議なファッションをする知り合いは存在していない。 「い……。いえ。お、俺じゃないです」  なんとか言葉を絞り出す。例え相手が妖ではなく人間であっても、こんなにも怪しい人とは関わらない方が身の為だ。出来る限り早くここを離れるべきである。  俺の返答を聞いて、面の男は今度は「えっ」と声を漏らした。 「ひ、人違い? いえいえ、そんなはずはありません。あっ、でもお店に入った時に別の方と入れ替わって……? ですが……」  面越しにじっと見られている気がした。穴が開くほど見つめるという表現はこういう状態を指すのだろう。 「俺は朝日晃一ではありません。失礼します」  俺は一礼して、面の男の横を過ぎた。追い駆けて来るかもしれないのである程度進んだら走って逃げよう。  三歩ほど行ったところで俺の背に穏やかな声が投げかけられた。その声に反射的に足を止めてしまう。 「美しい色の瞳をしていますね。晃一さん」  躊躇いもなく素直に相手を褒める人間らしい。優しい声でそんなことを言うのだから罪な男だ。しかし、彼の言葉が俺に与えたのは喜びではなく恐怖である。 「とても綺麗な翡翠色ですね」  背後から斬りつけられた気分だった。緊張感で体は強張り、面の男への恐れで指先が震えた。身の危険を本能的に感じ取り、鼓動が早まる。  この男には見えているというのか。  俺の、普通ではない、この、目が……。  目の黒いうちに云々とかいう慣用句は俺には当てはまらない。そもそも日本人の瞳は茶色だろうとか、そういう意味ではない。俺の瞳は翡翠のような緑色をしているのだ。ところが、カラコンを疑われたり、親戚に外国人がいるのかと訊かれたり、そういうことを周りに言われたことは生まれてこの方一度もない。なぜなら俺以外の人間には普通に茶色く見えているからだ。鏡や写真で見る自分の目が、俺には緑に見えるのだ。おそらく、人ならざる者が見えることと関係しているのだと思う。  今まで俺の目を緑と称したのは、出会って来た様々な妖、幽霊だ。では、この烏天狗のお面をした男は何者なのだろう。見たところ人間のようだが、霊感持ちなのだろうか。 「翡翠の瞳、間違いないです。晃一さん」  会ったことはないが、霊媒師だとか祓い屋だとかの類という可能性も捨てがたい。仮にそれらの職業の者だった場合、妖の見える俺のことを見付けて声をかけてきたことにも多少は納得できる。勧誘するつもりなのかもしれない。  俺は面の男を振り向く。男は先程と変わらず姿勢正しい立ち姿で俺のことをじっと見ていた。 「逃がすつもりはないみたいですね。……確かに、俺は朝日晃一です。あなたは何者なんですか」 「私は神です」
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