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聞き間違いだろうか。今この烏天狗の面を着けたおかしな男は自分のことを神だと言った。俺が黙っているのを見て、聞き取れなかったと思ったのか今度はゆっくりと言う。
「私は、神、です。貴方達人間の言う、神様、です」
聞き間違いではないようだ。そうか、この人は神様だったのか。
「お兄さんは漆黒を支配する邪神的なやつなんですか」
「漆黒……? 邪神……っ!? ちっ、違っ、私はそういう者ではありません! 今は……」
今は、と言ったな。おそらく、中学生くらいの頃に有り余る想像力と妄想力を膨らませ過ぎて、自らを他とは異なる力を宿した神の化身か何かだと錯覚した経験があるのだろう。今はもう邪神ではないが神ではあるというので、多少症状が落ち着いたものの完治することなく大人になったパターンらしい。
中学生の頃にクラスにいたな、「俺はおまえらとは違う力を持っているんだぜ」と高笑いをしていたやつ。恐ろしい妖も倒す力があるのだなどと言っていたが、俺には彼の目の前で変な踊りを披露している下駄が見えていたから、彼に力などないことは分かっていた。憐れなやつだと思った。女子にも似たようなやつがいたが、俺のリュックにしがみついていた大根に何の反応も示さなかったので彼女も力など持っていない。
今目の前にいるこの面の男は、俺の目が緑に見えるというのだから何かしらの力自体は持っていると思われるが、それに当てられて神を自称しているとはかわいそうな人である。
「夢を持つのはいいことだと思いますよ」
「ほ、本当なのですよ。本物なのですよ私は」
すごい重症なんだな。
「生憎俺はそういう話に上手く付き合えないので、他を当たってください。さよなら、神様のお兄さん」
人ならざる者を感知することのできる同類に出会えたこと自体は喜んでもいいのかもしれないが、これ以上中二病のお兄さんの神様ごっこに付き合ってなどいられない。さっさと帰ろう。俺は踵を返して家へ向かう。
「待て小僧」
澄んだ声だった。踏み出した足が止まる。静かな威圧感。これは恐れではない、畏れだ。まるで御伽話の王様の前に放り出された村人だ。
素早い動きで男が俺の前に回り込み、烏天狗の面を外した。その途端、彼の纏う空気が人間のそれから妖や幽霊に近いものになる。端整な顔の美青年だった。深く暗い漆黒の双眼が俺を見据えて動かない。夕日を反射した漆黒が、紫を帯びながら星空のように煌めく。
人間じゃない。この男は、人間ではない。
「こうすれば、少しは信じていただけますか」
声が出なかった。妖に対面した時とも、幽霊に遭遇した時とも違う畏れが俺の体を支配して拘束していた。この男は人間でも、妖でも、幽霊でもない。この感覚は、神社だ。神社に行った時と同じ感覚である。拝殿の前に立った時に視線を感じることがあるが、それと似ている。
狼狽えている俺を安心させようとしているのか、漆黒の美青年は柔和な笑みを浮かべて見せた。目付き自体はきりりとしているが目尻が若干垂れ目がちなのできつい印象は受けない。
「私は雨影夕咫々祠音晴鴉希命という者です」
「あ、あまかげ?」
青年はジャケットの内ポケットからメモ帳とペンを取り出すと、意味不明な漢字の羅列を書き記した。
「このように書いて、あまかげせきたたしおんはるあけのみこと、と読みます」
そしてその下に「紫苑」と書く。
「長いですから、気軽に紫苑とお呼び下さい」
「本名の祠音と字が違うけど……」
「紫苑の方が分かりやすいでしょう」
メモ帳に綴られた花の名前と、彼が着けているネクタイの色を見比べながら俺は小さく頷く。
「面をしていない時は普通の人の子には見えないので、貴方が虚空に向かって話していることになってしまいますね……」
そう言ってメモ帳とペンをジャケットにしまい、烏天狗の面に顔を隠す。一瞬で纏う空気が人間のものへと変わった。おそらく、この面を装着することで妖が人間に化ける時と同じような効果が働くのだと思われる。自らの姿を力を持たない者にも視認できるようにする何らかの効果が。
虚空に話しているおかしなやつになることはもちろん避けたいのだが、烏天狗の面をした怪しい男と話していてもかなりおかしなやつになる気がする。人通りの多くはない道であるが、今しがた通り過ぎて行った犬を連れた中年女性は面の男のことを凝視していた。とても目立つのだ。
「私のこと、神であると信じてくださいますか?」
「人間ではないということは分かりました」
「妖でもないとお分かりいただけたと思うのですが」
「あなたから妖力は感じない。妖でもないですね」
「そうです。私は神なのです」
「……そうなるかあ」
消去法ではあるものの、俺が認めたということに紫苑は喜んでいるようだった。端整な顔は面に隠されていて見えないが、声は弾んでいる。
「はいっ、神様なのです」
「……神様が俺に何の用です」
「率直に申し上げます。晃一さん、私に力を貸してください」
「……は?」
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