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「さっきもそう言っていたな。翼って、背中から生える翼か」
「他に何があるのです。……あぁ、頭とか腕とかから生えている方もいらっしゃるかもしれませんね」
「そうじゃなくて。そのネクタイピンみたいに何かしらの道具なのかなと思って」
俺が薄紫色のネクタイに光る翼の形のピンを指し示すと、紫苑はそれを指先でそっと撫でた。
「なるほど。しかしこれではありませんよ」
「紫苑様には羽が生えてたのか」
「はい。この背に、こう……。こうして」
そう言って両手を大きく広げる。相当大きな翼が生えていたのだろう。空を自在に飛び回ることができるような、立派な翼が。洋の東西は異なるが、本当の姿は天使のような感じなのだろうか。全身を黒で統一したファッションからは程遠いイメージである。
俺の反応を待っているのか、紫苑はカレーライスを突き始めた。皿の中には四分の一程残っている。
「昔は飛んでたのか」
もぐもぐと咀嚼しながら頷く。
「けれど今は翼がないと」
「はい」
「それで、俺に翼を探すのを手伝ってほしいって?」
「はい、そうです」
残りのカレーライスをぺろりと平らげると、続けてスープも飲み干した。何日も食べていなかったかのような食べっぷりである。先程は木の実を食べていたなどと言っていたが、本当に彼の食生活が心配になってきた。口振りから察するに、こいつはたくさんの社に祀られているような神ではなく、信仰する人間も多くない。食べなければならないのに、普段の食事は木の実だという。
いただきます、と同じように「ごちそうさまでした」も儀式のように済ませ、紫苑は俺に体を向けた。
「晃一さん、協力していただけますか」
「紫苑様の翼を取り戻すためには人間の協力が必要なのか? それに、どうして俺なんだ」
よくぞ訊いてくれました。と言わんばかりに形のいい口がにやりと笑う。
「貴方を一目見た時、とても驚きました。ああ、こんなにも近いところにいたのだと。ようやく見付けた、私の手掛かり」
「どういうことだ」
「導いてください。その、翡翠の瞳で」
「あんた知ってるのか、この目のこと」
トリケラトプスを枕に載せ、俺はベッドから下りる。その可能性が考えられたからこいつの要望を聞いてやることにしたのだ。こいつに協力すれば、この翡翠の瞳のことが分かる。
座布団に座る神様は、膝を突き合わせる俺から退くことなく微笑んでいる。頭が高いとか、崇めろとか、そういうことを言わないところが庶民的で実に接しやすい。
「存じております。私は、貴方を探していたのですから」
「あんたに協力すれば、分かるんだよな」
「ええ、はい。もちろんです。……おっと、もうこのような時間ですか」
壁にかかっている時計が午後九時半を指しているのを見て、紫苑が立ち上がった。こちらが座っている状態で立たれると、身に纏う黒が際立って威圧感があった。やはりこいつは神なのだなと畏れを抱きながら、俺も立ち上がる。
「もう少し状況をお伝えしたいのですが、この後予定があるのです。続きはまた今度に」
「用事があるなら仕方ないか……」
「月曜日の放課後にまた伺いますね」
そう言って、紫苑は革靴を手に取ると窓を開け放った。俺が唖然としている間に、窓枠に飛び乗って靴を履く。
「あんたどこから帰るつもりなんだ」
「玄関から出たらご家族に気が付かれる可能性があるでしょう?」
「ここ二階だぞ」
「ご心配なく」
俺の部屋からは庭の松がよく見える。窓枠に屈んでいる紫苑は松の枝をじっと見ているようだった。ジャンプして届く距離かというと、若干厳しい。陸上の走り幅跳びの選手が助走を付けて跳べば届くだろうが、俺には無理だ。
吹き込む風に漆黒の髪が揺れていた。艶やかな黒髪はカラスの羽のように時折青や緑の光沢を帯びていた。濡れ羽色の髪というものはこういうものを言うのだろう。主に女性に使う言葉らしいが、男性でも当てはまるはずだ。
「えいやっ」
掛け声よろしく、紫苑が跳んだ。空中に躍り出た黒ずくめの美青年は十分な飛翔をして松の枝にぶら下がる。筋力などなさそうな細い体だが、見た目よりも膂力や脚力があるようだ。そうしてそのまま、枝から枝、幹と伝って地面に降り立つ。
窓から見下ろす俺に向かってにこやかに手を振って来たので、一応振り返しておいた。
「カレーライスとスープ、とても美味しかったです。ごちそうさまでした。それでは本日はこれにて失礼致します。よい夢を」
黒ずくめの姿が夜の闇に溶けていく。
木々の枝が風に揺れる音に混じって、カラスの鳴き声が遠のいて行った。
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