調理師(45歳、妻子あり)の場合

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 夜の業務は滞りなく進んだ。協力的なフロント業務のメンバーたちが、残業も厭わずに無断欠勤したウェイターたちの穴を埋めてくれたお陰で、俺たちの作った料理は温かいうちにテーブルに並んだのだ。  生命保険会社の重役と称する男が、わざわざ厨房までやって来て、俺に今日の会合の成功を謝した。何でも最近、社が傾き気味で、社員の士気が著しく低下していたんだとか。そんな時、うちの支配人と同期同学だったことを思い出して相談を持ち掛けると、支配人は会場を半額で提供してやると言ったらしい。  男は最後にこう結んだ。 「ありがとう、ありがとう。今後、我が社の催しは全ておたくで行わせてもらうよ。あっはっは、なになに、もちろん次からは喜んで正規の料金を払わせてもらおう。取引先にも君の料理の味は宣伝しておく。あれはまさしく絶品だったからなあ」  俺は夜の10時まで現場を監督してから、三番手料理人の染谷にあとを任せた。染谷はタバコをやらず、臭い香水なんぞも使わず、髪も爪もきっちり手入れしている。将来、見込みのある奴だ。俺は安心して家路についた。  家に帰ると、女房が眠そうな目をこすりながら待っていた。 「お帰りなさい、あなた。お食事は?」 「減ってる」 「じゃあシチューを温め直すわね。先にお風呂に入ってくださいな」  風呂から上がると、飯の支度が済んでいた。俺は三杯おかわりした。女房は何も言わずに、ただ俺の食いっぷりをじっと見つめていた。 「あなた」 「うん?」 「お仕事、ごくろうさま」  飯の後には酒を飲んだ。清酒をきっかり銚子一本。それ以上は明日に響く。 「真奈美は・・・・・・もう寝たのか?」 「ええ。きょう幼稚園で描いた絵をあなたに見せるんだって、9時頃までは起きてたわ。ほら、この絵よ」  絵には角刈りの男らしきものが描かれていた。 「これ、俺か?」  女房は笑った。 「そうよ。他の何に見えるの?」  俺は何と言っていいかわからずに、軽く咳払いした。 「明日は3時に出る。昼過ぎには切り上げて帰るから、床はそのままにしといてくれ」 「まあ。それじゃあ、ほとんど眠れないじゃない。体に障るわ」 「心配するな。それより、今年はまだどこにも連れてってやれなかったな。日曜に休みを取るから、真奈美に行きたいところを聞いておいてくれ」  こんな時、女房はいつも黙り込んで俯いてしまう。俺は女房が泣けるように寝室へ移った。そして、真奈美の安らかな寝顔を見てから布団をかぶった。  ふすまを挟んだ居間の方から、低い嗚咽が漏れてきた。俺は悪天候による冬キャベツの高値を思いながら、夢すら見ない深い眠りに落ちた。
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