調理師(45歳、妻子あり)の場合

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 その日のトラブルは夕食の仕込みの時に起きた。俺が更生前に世話になった方が社長をしている精肉会社から特別に安く牛肉を卸してもらえる段取りが昨日ついたばかりで、その第一便が今日の昼過ぎに着くはずだったのだ。しかし、定刻を過ぎてもトラックは現れなかった。  俺は社長に電話で問い合わせて、何かの問題が生じたのかと聞いた。社長は工場の作業が遅れているだけだと言い、今日は特に俺自身がそっちに出向いてやるから心配するなと言った。俺は社長の強いて磊落を装った言葉に、何かあったことを思い知らされた。  肉は、近所にオフィスを構える生命保険会社の懇親会のメインディッシュにぎりぎり間に合う時刻に届いた。社長もトラックの助手席に同乗していた。俺は社長の尽力に、ただただ申し訳なく、目頭が熱くなった。  と、そこに二台のベンツが現れて、明らかにガラの悪い連中を八人ばかり吐き出してきやがった。連中はトラックを取り囲み、荷降ろしを始めようとした若い衆を威圧した。  連中の中で最も貫禄のある男が、トラックを降りた運転手の胸倉を掴んでこういうのが聞こえた。 「おい、このホテルに生モノを卸す許可は取ってあるんだろうな?」  取り囲む反社どもが薄ら笑いを浮かべるのが見えた。運転手は奴らに対して、明らかにびびっているようだ。 「オ、オレは知らないよ。社長に聞いてくれよ。一緒に乗ってきたからさ」  伝票を手に続いて降りてきた社長が、穏やかに、しかし力強く男の腕を掴んだ。 「俺の会社もホテルも、ちゃんと役所の許可はもらってある。問題はないはずだ。それよりお前らは何だ? 保健所の連中にしちゃあ、いい服着てるじゃねえか、ああ?」  男は掴まれた手を荒々しく振り解いた。 「こちとら組合のもんだ。このホテルの従業員は今日の夜からストに入るんだ。だから、おめえはとっとと獣くせえ工場に帰んな。商売は無し。持ってきた肉は、おめえらで食うんだな」  男は相当に場数を踏んでいるようだ。機転も利く。社長は俺の方を見て、声を張り上げた。 「おい龍の字、こいつの言ってることは本当か?」  俺は進み出た。 「ストなんか知りませんや。厨房は自分が動かしてます。ホテルも通常営業です」  男がにやにや笑いながら、俺の方を向いた。 「おっさん、料理は作れても、客の口には届かねえぜ。なんたって、料理を並べる奴がいねえからなぁ。あんたもさっさと家へ帰ったほうがいいぜ。いまごろかわいい娘っ子が、変わり果てた家を見て泣き腫らしてるんじゃねえか」  俺の中で何かが切れた。 「後藤、作業にかかれ。時間が無いぞ」  逡巡している若い衆に、後藤が発破をかけた。 「おい、お前たち何してんねん。さっさと肉を運びぃ。客を待たせるなや!」  見習いたちは、おっかなびっくりトラックに近づこうとしたが、反社どもが腕組みして見せただけで、たちまち蛇に睨まれた蛙のように竦んだ。ただ一人、後藤は怯まずに連中を睨みつけたが、それでも動けずにいた。  男はポケットに両手を突っ込んだ姿勢で嘲笑った。 「あんたの手下は怪我すんのが怖いとよ。だらしねえなあ。ひゃっひゃっひゃっ・・・・・・」  考える前に身体が動いていた。気が付いた時、俺は鋭く研がれた包丁を奴の喉元に押し付けていた。 「おい、そこのおまえとおまえ、そうだ、貴様らだ。肉を運ぶのを手伝え。組合を名乗るからには、せいぜい協力してもらうぞ」  反社どもは事態を飲み込むのに少し時間がかかったが、それでも渋々ながら俺の命令に従った。俺は握った包丁に力を込めながら。男に聞いた。 「そういえば、さっき俺の家がどうとか言ってたな。携帯を出せ。左手で、ゆっくりと・・・・・・そうだ。おまえの仲間に連絡しろ。計画は中止だ。金はやるから、引き返せとな」 「・・・・・・も、もう間に合わねえ。ダンプでとっこんでる」  包丁を少し手元側に挽いた。血が一筋したたり落ちる。 「も、もしもし、オレだ。あの指示は取り消す。何、もう目の前にいるだと? よせっ。・・・・・・ああ、残りもちゃんと払ってやる。だからやめろ。うるせえ、何度も言わすな。引き返すんだ!」  通話を切った男は、最後のクソ度胸で俺を脅しにかかった。 「あんた、こんなことしてタダで済むと思ってんのか。裁判の日を楽しみにしてるんだな」 「事件にはならねえさ。おまえは何も訴えない。ここでは何も起きなかった。そうだな?」  社長が何気なく袖をまくった。男の目が釘付けになる。 「あんたら、もしかして本家の・・・・・・。そ、そうだ。オレは何もされなかった。何もしなかった。・・・・・・だから早く、この物騒な物をしまってくれ!」
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