プリマ・ドンナは叫ばない

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『ブラボー』って、お前知ってるか?  もちろん知ってるよな。“bravo“ーーイタリア語の感嘆詞だ。要するに『素晴らしい』ってこと。オーケストラやオペラの公演で観客が叫ぶアレだ。  歌舞伎でも観客が屋号を叫んで盛り上げたりするだろ。大向こうだったか?  クラシックコンサートでも大向こうほど頻繁じゃねえけど、特にいい演奏には終わった時に「ブラボー」って叫んで拍手喝采する習わしがある。  誰が始めたんだか知らねえけど、最近は正直あんまいい印象はねえな。  時と場合をわきまえない奴が多過ぎるんだ。演奏が終わる前ーー指揮者が指揮棒を下ろす前に拍手する馬鹿。レクイエム(鎮魂歌)でブラボーって叫ぶ阿呆。あのな、レクイエムは葬式のミサで歌う曲なんだよ。葬式の最中に拍手喝采するか? 坊さんのお経が素晴らしかったら『素晴らしい』って叫ぶのか? 知らねえのは仕方ねえけど、だったら周りを見て行動しろ。  今回のなんか最悪だ。あの野郎、まだアリア(独唱)が終わってねえのにブラボーって……てめえの独唱じゃねえんだよ。ああいうのって『フライング・ブラボー』って言うんだよな。  感極まったから? つい叫んでしまった? 違うな。本当に感動していたのなら演奏が終わるまで黙って聴くはずだ。ああいう人種はな、演奏の出来なんかどうでもいいんだよ。大人数の中で誰よりも早く叫んだり拍手を始めて、優越感に浸りたいだけなんだ。  そもそも、歌手や演奏者を褒めたたえたけりゃ拍手すればいい。なんでわざわざ歌の余韻を素人の汚えダミ声で打ち破るんだ?  誤解すんなよ。俺は『ブラボー』が嫌いなわけじゃない。オペラ含むクラシックコンサートの名物みたいなもんだし、観客は無論、演奏者や歌手でも内心期待している奴もいるだろうな。  ただ、やるんだったらさっきも言った通り時と場合を弁えろ。素人が馬鹿の一つ覚えみたいにブラボーブラボー叫んでたらありがたみはまるでねえし、うるせえし公演の邪魔だ。みんな金払ってオペラを聴きにきてんだよ。てめえの自己満足ブラボーを聴くためじゃねえ。  勘違いしている奴は多いが、演奏中に拍手はしない・喋らない・音を立てないはマナーじゃねえ、ルールだ。ルールが守れねえならコンサートに来んな。 『カルメン』のアリア自体は歌い終わっていた? 馬鹿言え。あの時はまだ『ハバネラ』は終わってなかった。  余韻に浸るとかそういう情緒的な意味じゃねえ。基本的にコンサートホールは残響音が数秒残るように造られている。曲の最後の一音を弾き切っても音はすぐには消えねえんだよ。打楽器や弦楽器の振動は徐々に小さく、豊かな響きが段々と遠くなる。すべての残響音が減衰して、完全な無音状態ーー静寂が戻る。そこでようやく曲は終わりだ。逆を言えば、そこまでが演奏の内なんだよ。CDとかに収録された曲だって、終わりには無音部分が必ず入っている。沈黙は演奏の一部だ。  あの馬鹿はそんなことも知らないで、勝手に『カルメン』の『ハバネラ』を終わらせやがった。第一幕最高の見せ場であるアリアを汚えダミ声で踏み躙ったんだ。立派な公演妨害じゃねえか。だから俺は叫んだ。何が悪い。
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