プリマ・ドンナは叫ばない

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 言い分に一通り耳を傾けてから、私は苦言を呈した。 「だからといって『ハバネラ』を歌った直後にカルメンが壇上から怒鳴るのはどうかと思いますが」  フライング・ブラボーしたおじさんの唖然とした顔が目に浮かぶ。つい先ほどまで魅惑の歌声で観客達を陶酔させていたプリマ・ドンナ(女性主役歌手)ーーと思い込んでいた歌手が一変。ドスの効いた低い声で凄んだのだ。それも、 「『うるせえ黙って聴けねえなら出ていけ』はないでしょう、いくらなんでも」  しかし当の本人はどこ吹く風。まるで反省の色はない。それどころか吐き捨てるように言った。 「カウンターテナーも知らねえ奴がオペラを語るな」  フライング・ブラボーしたおじさんーー略してフラブラおじさんのマズい点を挙げればきりがない。  ソプラニスタの存在を知らなかったこと。オペラ鑑賞における最低限のルールをわきまえなかったこと。壇上で『ハバネラ』を熱唱するカルメン役はプリマ・ドンナだと思い込んだこと。  しかし一番の失敗は言わずもがな。この男の渾身のアリアが終わるや否やに「ブラボー」と叫んだことだ。  狭い業界だ。ひとたびブラックリスト入りしたフラブラ野郎の顔は関係者ならば誰もが知るところとなる。つまり、フラブラおじさんの魂胆なぞ見え見えだった。そうとも知らず、歌声や演奏に感動したのではなく、単に「ブラボー」と叫んで目立つ自分に陶酔しているだけだと堂々と宣言した。よりにもよって『奇跡の歌声』を誇るこの男のアリアで。 「公演中に叫ぶプリマ・ドンナなんて聞いたことがない」  中止にこそならなかったものの、フラブラおじさんは強制退場。その後観客席は緊張感に包まれ、とてもではないがビゼーのオペラ『カルメン』を楽しむような雰囲気ではなかった。公演妨害は一体どちらなのやら。 「そりゃそうだ」  ソプラニスタは胸を張った。 「俺はプリモ・ウォーモ(主役男性歌手)だからな」
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