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もう一件の仕事を終えた頃には、日付が変わっていた。
残業代、あとでちゃんと請求しなきゃな。まぁ、どんなにお金を稼いだところで、これといった使い道もないのだけれど。お金は、あるに越したことはない。
マスクから漏れる自分の白い息を眺めながら、駅前のコンビニへと急ぐ。さすがに今日は、あずきさんの姿はないだろう。そう思っていたのに、いつもの冷蔵食品の陳列棚の前に、彼女は立っていた。
ただし、今日のあずきさんは私服だった。部屋着の上にコートを羽織って来たような、少しヘンテコな格好。
「また、今日もあずきバーなの?」
彼女の隣に立つ女性が、呆れたような、感心したような顔で笑う。彼女の姉だろうか。顔立ちがよく似ている。あずきさんよりも頭ひとつぶん背が高く、やっぱり少しちぐはぐな服装をしている。
「いいじゃん、好きなんだから」
あずきさんが口を尖らせる。それは、氷が初めて見る、彼女の子供らしい表情だった。
「毎日寝る前にアイス食べて、私より痩せてるんだから恨めしいわ」
「受験生の勉強量、舐めないでくれる?糖分摂取しなきゃ、やってらんないよ」
じゃあ、私は肉まんにしよっかなー。また太っても知らないよ、お姉ちゃん。いいの、今日はダイエットお休みなの。
気付くと、レジへと向かう二人の背中を、ぼぅっと見つめている自分がいた。
慌てて目をそらす。と、蛍光灯に照らされた床に、ぽつんと小さなメモ帳が残されているのが目に入った。100円ショップで見かけたことがある。あれは確か、単語カード。勉強するときに、使うヤツ。
「あの!」
あずきさんが振り返る。怪訝そうな表情が、氷の手のひらの上にあるものを見て、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます。なくすところだった」
あずきさんが、こちらへと駆け寄ってくる。透き通るように白くて、折れそうに細い指が、こちらへと伸びる。その指先が、ほんの一瞬、氷の手に触れた。
その瞬間、脳裏に浮かんだのは、鮮血に染まった手のひらをひたすら水で洗い流す、自分の姿だった。
洗っても洗っても、生臭い、鉄のような臭いが落ちない。手のひらを鼻先に当てると、石鹸の香りに混ざって、さっき自分が手にかけた命の、生々しい臭いがする。ピンク色に薄まった血液が、渦を巻きながら排水口に吸い込まれていく。
「ありがとうございました」
あずきさんが去っていく。会計を終え、自動ドアの向こう側へと、姉妹の背中が消えていく。
陳列棚には、今日もところ狭しとアイスが並んでいる。その中のひとつを、氷はなかなか選ぶことができない。
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