母のエプロン

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母のエプロン

今日、母が亡くなった。 96歳だった。 認知症がかなり進行していて、90歳手前で自宅介護では手に負えなくなり老人ホームに入居させた。 もう自身の事も、私が娘だと言うこともすっかり忘れていた。 たまに会いに行けば「ご飯が食べたい」という話と「トイレに行きたい」という話しかしなくなり、いつしか面会に行くのも億劫になり、後半はほとんど会いに行くこともなくなっていた。 ただ、毎日の家事と仕事で手一杯になっていて、毎月老人ホームから送られてくる母の入居費用の請求書を見るのでさえも嫌になっていた。 あと何年生きるのか? 葬式の費用はいくらかかるのか? もういっそ死んでくれればいい、とさえ思ったこともあった。 父は私が小さい頃病気で亡くなっていた為、母を自宅に一人にもしておけず旦那と子どもたちとの同居生活を送ることになった。 私は三姉妹の末っ子で上の姉たちは嫁に行ったきり全ての母の介護を私に押し付けた。 母の認知症が始まったのは80代前半。 自宅介護をしていた頃は、毎日が地獄絵図のような生活を送っていた。 私が仕事に行っている間に徘徊し、何度も警察のお世話になったり、排泄物を壁に塗りたくったりと毎日大変だった。 食事をするにもトイレに行くにも全て時間がかかる。 福祉のサービスを使えば今度はお金がかかる。 毎日母の介護と家事と仕事で疲れ切っていた私は、母に暴言を吐くことも日常茶飯事だった。 旦那や子どもたちは見て見ぬフリ。 周りに相談すれば、自分の親なんだから自分で介護するのが当たり前と言われる始末。 心身ともに限界を感じ、母を老人ホームに預けた。 そのあとの生活と言えば快適以外の何者でもなかった。 夜は残業や買い物で遅くなってもいいし、寄合などで外出する際も気を遣わなくていい。 まるで天国のような生活だった。 そんな生活にもすっかり慣れ、母を施設に預けっぱなしにして丸5年。 ホームから一本の電話が入り、急いで病院へ向かった。 そして一週間もしないうちに母は亡くなった。 母の死に顔は思ったよりも安らかなものだった。 正直、ずっと施設に預けっぱなしだったので、母が死んだという実感は薄かった。 死んだところで、日々の生活に変わりはないのだ。 それだけ、私の生活から母の存在は失われていた。 姉たちや孫も特に悲しむ様子はなく、「ようやく死んだか」というような感じだった。 そして、あっという間に葬式も終わり四十九日も終わった。 やはり、私の中には母が死んだ実感はあまりなかった。 自分の母親が死んだと言うのに、こんなにもあっさりしたものなのかと私自身も困惑していた。 おそらく、母の介護がそれだけ壮絶だったということだろう。
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