母のエプロン

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そして、母が亡くなって三か月経った頃。 母の部屋を掃除していたら、懐かしい写真が出てきた。 まだ、私は小学生で父も生きていた頃のものだった。 私は何となく掃除の手を止めて、写真を見返していた。 このころの母はまだ若々しくて、私も母があんな風に認知症になるとは思ってもいなかったであろう。 母は忙しい人だった。 早くに旦那を病気で亡くし、女手一つで私たちを育ててくれた。 朝早くから夜遅くまで、仕事で家にいることは滅多になかった。 私はとても寂しかった。 子ども心にも母親が恋しくてたまらなかった。 たまに母が早く帰ってきたときはずっと台所で夕飯の準備をしている母親の後ろに立っていた。 母は決まって白いエプロンをしていた。 私はそんな母のエプロンの裾をずっと掴んで離さなかった。 また、仕事で家からいなくなってしまうのではないかと、常に不安だったのだ。 母は料理が上手な人だった。 朝早くから仕事があるのに、必ず私たちのお弁当を作ってくれた。 特に母の肉じゃがは絶品で、私も結婚した当初母に教えてもらったが上手に作ることができなかった。 私は母に似ず料理が大の苦手だった。 そして、写真を見返していくと私が長男を出産したときの写真を見つけた。 写真の中の母は幸せそうな顔で、孫を抱いていた。 私が慣れない育児で大変な時、母は私の代わりに長男を寝かしつけたり、家事をやってくれた。 母親になったばかりで何もわからない私をずっと側で見守り続けてくれたのだ。 長男の運動会のときも、料理が苦手な私に変わってお弁当作りを手伝ってくれたこともあった。 一緒に長男の運動会に行ったときには他の親がびっくりするほど大きな声で長男の応援をしていた。おかげで長男はリレーで1位になった。 また、敬老の日に長女が書いた手紙を読んで号泣していた。 そして、母の日に私は一度だけ母にエプロンを贈ったことがあった。 真新しい黄色いエプロンだった。 しかし、母はもったいないからと私が贈ったエプロンを使わなかった。 やはり、あの白いエプロンを使っていた。 私はやっぱり大人になっても母のエプロンの裾を掴みそうになってしまった。 私は嬉しかった。 大人になり、結婚して母と同じ家に住めることが。 母と一緒に生活できることが・・・。 これからは、たくさん親孝行しようと思っていた。 しかし、認知症になってから母は変わってしまった。 以前の私が知っている母ではなくなってしまったのだ。 私はそれが怖かった。 私はやっぱりずっとどこか寂しかったのかもしれない。 アルバムは長女の中学の入学式の写真が最後に、あとは何も貼られていなかった。 この後、母が認知症になったからだ。 私はアルバムをしまい、再び母の部屋を片付け始めた。 すると押入れから、古びた小さな箱を見つけた。 手に取ってみると、とても軽かった。 箱を開けてみると、私が母に贈った黄色いエプロンがしまってあった。 値札がまだ付いたままだった。 そしてもう一枚、母がいつもしていた白いエプロンが入っていた。 もう年季が入っていて、色も変わっていた。 私はそのエプロンをそっと手に取った。 すると、エプロンから懐かしい母の匂いがした。 私の大好きだった母の匂いだった。 その匂いを嗅いだ瞬間涙が出た。 母はもう居ないのだと初めて実感した。 そして、自分が母に言ってしまった言葉を激しく後悔した。 なぜ、もっと優しくできなかったのか・・・。 母は私を憎んでいたのかもしれない。 女手一つで苦労して育てた娘に“死んでしまえ”と言われる気持ち。 とても辛かっただろう、私が子どもたちに言われたらきっとすごく傷つく。 私は母に酷い言葉をたくさん言ってしまった。 何ひとつ親孝行できなかった。 人はなぜ、失ってから気づくのだろう・・・。 私は母のエプロンを抱きしめながら、ただ子どものように泣きじゃくった。
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