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一、プロローグ
北陸の冬にしては珍しく日差しの暖かい日が続いており、日当たりの良い部屋の隅で、四国遍路の写真を整理していた。
外を見ると立山連峰には白雪が輝いており、澄み渡った空には片雲が浮かび、冬枯れの田んぼの周りからは野鳥のさえずりが心地よく聞こえている。
思い起こせば、あの四国第一番札所霊山寺の門前に立った時も、確か、このように晴れ渡った日の昼時であった。見上げると竺和山と書かれた額が掲げられている山門には、威厳のような風情を感じ、緊張した心地で佇んでいたことを懐かしく振り返っていた。
「じいちゃん、四国八十八カ所を歩いたんか」
突然、冬休みに大阪より帰省している小学校4年生の孫より、声を掛けられた。振り返ると、何事にも興味がありそうな顔が、肩越しに写真を眺めていた。
「おー、そうなんや、四国を一周歩いて来たぞ。ところで、誰から聞いたや」
「お母さんが、話していたのを聞いたんやけど、えらい長いこと掛かったようやな」
「三回に分けて歩いたが、合わせて五十日も掛かったわ」
「へー、そんな長いこと掛かるんか」
「そうや、四国一周は千二百キロもあってな、一日に三十キロ歩いても四十日は掛かるんや。それに、行き帰りの日数もあるからな」
「一日に三十キロも歩くんか」
「大阪から京都までが、大体この距離になるんで、毎日ここを歩くのと同じやな」
「そうか、毎日となると大変なことやな」
「それにな、京都の手前には天王山と言う山があるわな。四国の札所にも高い所があって、あんな山に登ることが何度もあるんや」
「山登りもするんか。それで札所と言うのは、どの辺にあるんや」
ここで、畳の上に四国遍路地図を広げ、歩いて来た道程を思い浮かべながら、長かった旅の思い出を甦らすように話を始めている。
「四国には、徳島、高知、愛媛、香川と四つの県があるわな、それで、これらは昔の国の名前では、阿波、土佐、伊予、讃岐と言うんやな」
「四つの県は知っとるが、昔の名前は知らなんだ」
「そうか、それは大阪のことを昔、摂津、河内と言ったのと同じことや。それでな、それらの国のことを、発心、修行、菩提、涅槃の道場とも言われているんや」
「摂津、河内はわかるが、後はようわからん」
「そりゃそうやな。四国八十八カ所の札所を巡拝して歩くことを遍路と言って、何か自分の悩みを解決する願いを込めて歩くことになるんやな。そして、ここを歩き通すことの大変さはさっき言った通りや。それでな、ここを歩くことを決心すること、鍛錬すること、悩みを無くすこと、それに悟りを開くことが、これらの道場の意味になるんやな」
「なんとなくわかった気がする。それで札所はどこにあるや」
「この地図をよく見ると、一番霊山寺、二番極楽寺、三番金泉寺と書いてあるわな、これが札所や」
「なんや、札所とは寺のことかいな」
「そうや、昔、弘法大師と言うえらい坊様がおってな、若い時に修行や勉強をされたり、また、開かれた寺なんかが、札所になっておるんやな。それで、これらの寺にお参りする時に、名前や願い事なんかを書いた紙札を納めるから札所というんや。ついでに言うとくと、昔は木札が使われておって、これを寺の柱や壁に打ち付けていたんで、お参りのことを打つとも言っているんや」
「弘法大師と言う人は、そんなに偉いのか」
「それはもう大変な人でな、この地図では七十五番の善通寺がお生まれになった所で、幼い頃には七十三番出釈迦寺の獅子の岩屋で勉強されたようや。そして、四国の各地で修行されているが、有名な室戸岬にある御蔵洞では、求聞持法と言って虚空蔵菩薩の真言を百万回も唱えられたそうや」
「同じことを百万回も言うんか」
「そうや、一日に一万回言っても、百日も掛かるんや」
「そりゃ、大変な苦労やな」
「それで、唱え終わった時には、明星が口の中に飛び込んで来て、この修行が完了したと言われておるんや。ここの洞穴から外を見ると、太平洋の海原と空が迫って来るようでな、この景色から若い頃には空海と名乗られておる」
「そうかいな。それで修行が終われば、どうなるんや」
「それはな、無限の記憶力が授かるということや」
「そりゃええな。ちょとでええから教えて欲しいな」
「覚えるのは無理やと思うけど、これが真言や」
遍路旅に出かける前に調べていたノートを、孫に見せている。
虚空蔵求聞持法真言
南牟(のうぼう)阿迦捨掲婆耶(あきゃしゃぎゃらばや)唵阿利(おんあり)迦麼慕唎沙嚩訶(きゃまりぼりそわか)
「こりゃ難しいて、ちっともわからんわ」
「そりゃそうや、もう少し大きくなってからでないとわからんわな。それから、今の中国には当時、唐と言う大きな国があって、ここへ留学されたことがあるんや」
「へー、中国へも行かはったんかいな」
「そやけど、今と違おて風まかせの船で行かはって、途中で嵐にも遭うていやはるんや」
「それは大変やな」
「それで、四隻の船やったが、その内の二隻は遭難しておって、弘法大師の乗った船は約一カ月も掛かって何とか到着しておる」
「エンジンも付いとらん船やったら、そないなるわな」
「そうなんや。そこで、その国で一番の坊様に教わって、日本に帰って広められたのが真言密教になるんや。奈良市の南にある山の中に高野山と言う大きな寺があるが、ここが総本山になっておるんやな」
「京都の東寺も弘法さんとか言って、テレビに出てるけど、ここもそうなんか」
「よう知っとるな、東寺は真言密教の根本道場になっておるんや。流行り病を封じるために始められた大文字の送り火も、この寺の五重塔で弘法大師が指揮されたようや」
「なんかすごい人のようやな」
「そうなんや、他にも色んな話があるが、ともかく今に言うスーパーマンのような人なんや。それで、この人の四国における足跡を巡る旅が、遍路と言うもんやな」
「やっとわかって来たような気がするぞ」
四国八十八カ所の霊場を、すべて歩いて巡る遍路旅とはいかなるものか。毎年、おおよそ三十万人の人が、遍路として四国を訪れるようであるが、ほとんどがバスや自動車などを使っての旅である。その中で歩いて巡る人は三千人ほどと言われており、更に、途中でバスや電車を使わず、歩きのみで巡る人は限られている。それは、現代人にとって許せる時間の制限や、歩き通すことの気力や体力の課題もある。また、かさむ日数より費用の問題も関わってくる。そこで、これらのことに見通しを持てる人が為せることでもある。ただ、この千二百キロにも及ぶ遍路道を歩き通した人々が、その旅において様々な感銘を受け、また、その過酷な歩きの足跡を紀行に残すほどである。
そもそも遍路の先駆けは、修行者が霊験を得るために四国の辺地を巡っていたことである。平安末期に今様を編纂された梁塵秘抄の一首に、次のようなものがある。
梁塵秘抄
『我等が修行せし様は、忍辱袈裟をば肩にかけ又笈を負い、衣は何時となく潮垂れて、四国の辺地をぞ常に踏む』
若き日の空海も、これらの人との関わりがあったようで、少なからず影響を受けていたことであろう。当時の修行とは、どのようなものであったのかは、想像するしかないが、里人が通うことすら難しい僻地を訪れ、己を極限にまで追い詰めた果てには、やはり何かの霊験を感受されたことであろう。そして、その威光が四国の地に残る大師信仰であり、遍路の霊場でもある。
二、阿波の国
歩き遍路の詩 一
無事に帰れと 水杯を
かわして旅立つ 昔より
苦行変わらぬ 遍路道
己の煩悩 かかえつつ
立つは一番 霊山寺
発心の 道は始まる阿波の国
「そこで、まず最初は阿波の国より歩くことになるんやな」
「それは、一番札所があるからか」
「歩き出すのは、その人の気持ちになるんで、どこからでも良いことになるが、普通は一番から歩く人が多いな」
「そうか」
「それでな、遍路には身支度があって、白衣、輪袈裟、金剛杖、菅笠なんかを買うことになるんや。それに、お参りするには経本、納め札、納経帳なんかも必要になるな」
「それは、傘を被って白い服を着て杖を突いて歩く、あのテレビで見る姿なんか」
「そうや。ただそれには意味があってな、菅笠は棺の蓋のような物で、白衣は死に装束だと言われているんや」
「それじゃ、死にに行くんか」
「そうじゃなくて擬死再生と言ってな、自分の身を死になぞらえて、そこから甦って来ることや」
「生き返ると言うことか」
「まあ、生まれ変わるようなもんやな。ただ、昔の遍路は、今のように食料事情や医療事情が良くなかったから、生死を掛けた旅であったようや。遍路道のあちこちで沢山の墓があったな」
「ふーん」
「それに、納め札は、さっき言った紙札のことで、納経帳は寺に参ったと言う証明書のような物や。寺毎に寺の名前を書いてもらい、そこの朱印を押してもらうことになるんやな。そして、経本はお経が書かれた教科書のようなもんや」
「お参りも大変なようやな。それに、お経もあげるのか」
「そうや、般若心経になるな」
「それはなんや」
「仏教の考えを説いた経典の一つでな、たったの二百六十二文字で、空と言う教えが書かれているんや」
「空とはなんや」
「わしもようわからんが、何も無いことや」
「ほんまにわからんわ」
「また、後で出て来るから、ともかく一番霊山寺や」
「いよいよやな」
「この寺の前に立ってまず考えるのは、ここから長い歩きが始まると言うことやな」
「そりゃ、そうなるな」
「それと、この寺の境内に入ると、ともかく始めてのお参りになって緊張するわな」
「それで、お経は上手いこと出来たんか」
「何とか、人の真似をしてやったんや」
「それは良かったな」
「しかしな、これからが大変で、一番から十番までは比較的近い距離にあって、お参りの連続になるんや」
「それは、早く済んで良いんやないか」
「確かに、そうとも言えるが、最初の頃のお参りは気を使って疲れてしまうもんや」
「そんなもんか」
人は、なぜに四国の遍路道を歩くのか。この答えは、事前に読んだ先人達の多くの本の中でも、おぼろげにしか得られなかった。ただ、多くの人々が様々な煩悩を抱え、一番札所となる霊山寺の門前に立つのは間違いが無いことである。そこで、ここに至るまでには確固たる決断と綿密な準備が必要であり、これを疎かにすると中途での挫折につながることになる。この門前で覚える感慨というのは、人の決意の大きさなのであろう。
歩き遍路の詩 二
人の思いは それぞれなれど
ここを越えねば 先は無い
遍路ころがし 焼山寺
山また山の 鶴林寺
深山幽谷 太龍寺
越えたるは 白波寄せる室戸道
「それから次に来るのが遍路ころがしや」
「何や、それは」
「最初に、山登りもあると言ったな。この山の中でも、特に上りや下りのきつい所を、遍路ころがしと言ってな、阿波では十二番焼山寺、二十番鶴林寺、二十一番太龍寺、土佐では二十七番神峯寺、伊予では六十番横峯寺、讃岐では六十六番雲辺寺などがあるんや」
「そんなに、きついんか」
「きついな。この中でも焼山寺は一番きつい所でな、しかも、ここが歩き出して三日目になって、誰もがここを越えられるかどうかで、この先へ進めるかが決まると思っとるんや」
「それは、大事な所になるな」
「この写真を見ればわかるな」
この一枚の写真には、中央に吉野川の流れがあり、その流域の南側に吉野川市(旧鴨島町)、北側には阿波市(旧吉野町)の町並みが霞むように広がっており、遠くにはたおやかな山並みが映っている。
「これは、えらい高い所から撮っているんやな」
「そうや、この遠くに映っている山並みの麓と、それにこの山の中に一番から十番の札所があるんや」
「近い所にあると言っとったけど、かなりの距離がありそうやな」
「そうや、一番から十番まで歩くと約二十八キロあるな。ただ、この程度の距離で十箇所も札所があるんやから、この後のことを考えると楽なもんやな」
「それでも二十八キロか」
「それでな、十番の切幡寺からは、この写真の真ん中に映っておる吉野川を渡って、この写真を撮った所の麓にある十一番藤井寺まで歩いたな。ところが、そこからの上りが大変やったな」
「そんなに大層な上りなんか」
「最初は八十八カ所の仏様を祀る祠が、脇に並んどる鬱蒼とした坂道を登るんや。それで、そこを過ぎると崖のようになっとって、岩や木の根を掴んで登るような所もあったな。ともかく、えらいしんどい思いをしてたどり着いたんがここやった」
「ここで、どれぐらいの高さなんや」
「ここは端山休憩所と言って、二百二十五メートルなんや」
「それで、次の札所はこの近くなんか」
「さっき言った通り、焼山寺は四国の札所の中では一番きつい所で、そんな生易しくはないんや。札所でも番号の付いとらん番外と言う所があってな、焼山寺まではこれが三つもあるんや」
「そうなんか」
「その最初が長戸庵で、四百四十メートルの高さにあるんや。更に、五百四十メートルの尾根まで登りしばらく歩くと、急な下りになって五十メートルほどを降ることになるな」
「折角、登ったのに降るんか」
「そうや、その降った所が柳水庵になるんや。弘法大師が柳の枝で地面を突かれると、水が湧き出したと言われている所で、今も綺麗な水が湧いておった」
「その水は飲めるのか」
「それは、美味い水やった。ここからはまた上りになっておって、最後の番外札所までは、まさに天にも届くのかと思うほどの上りやった」
「そんなに大げさな上りなんか」
「わしが、そう思っただけかも知れんが、ともかく平らな所が無くて、上りばかり続いておった。そこで、突然、石段が現れてな見上げると、てっぺんには大きな杉に守られるように弘法大師の銅像があったんや」
「へー、そんな山の中に銅像を立てるんか」
「わしも神々しくて驚いたが、ここが一本杉庵とも言われる浄蓮庵で、七百四十五メートルの高さまで登っておるんや」
「そりゃ、えらい高い所まで登ったな」
「ところが、ここからは一気に三百五十メートルを、転げ落ちるような下りになっておって左右内谷川の谷底まで降るんや」
「それが、遍路ころがしか」
「まさにそうやな。この谷底からは、またまたの上りになるんや」
「また、登るのか。これは大変やな」
「これが最後の登りになるんやが、三百メートルを登り着いた所が、十二番焼山寺やった。それで、ここは七百メートルの高さや」
「こりゃ、ご苦労さんと言いたいな」
「麓の藤井寺から、六時間も掛かったんや。、それで、この寺は役行者が開いたと伝えられておって、さすがに修験道やと感心したな」
「なんや、その役行者とは」
役行者、加茂役君小角とも呼ばれるように神祇を司る加茂氏の支族であり、役民(労役に駆り出された民)を管掌した一族であった。奈良県御所市茅原にある吉祥草寺辺りで生まれ、若くして元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城や大峯山系で修行を重ね、金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得したと伝えられている。
正史では続日本紀の文武天皇三年(六百九十九年)五月二十四日に、伊豆島に配流されたと書かれている。小角が民人を惑わしていると弟子の韓国連広足が讒言したことによるが、二年後の大宝元年(七百十一年)十一月に許されて戻っている。
鬼神を使役し、葛木山と金峯山の間に橋を架けようとしたとの伝承もあり、呪法に長けた人物である。
寛政十一年(千七百九十九年)に光格天皇より神変大菩薩の諡を贈られており、修験道の開祖として崇められている。
「まず修験道やが、日本古来の山岳宗教でな、わかり易く言うと深い山なんかに籠って修行を積むと、超自然な力を蓄えることになるんや。その力で災いを除くことが出来るようになるようで、昔、この宗教を始められた人が役行者や」
「何か難しいが、山奥におってほら貝を吹いている山伏みたいな人か」
「その通りや、修験道では験と言われておって、この力を備えた人のことを山伏と呼んでおるんや」
「それで遍路の方は、この後どうなるんや」
「やっぱり、登ったら次は下りになって、ここでは何度も足が吊りよった。それから、鮎喰川に沿った道を長いこと歩いて、神山温泉に泊まったんや。それで、ここでは色んな遍路に会ったんやな」
「そんなに、色んな人が歩いてるんか」
「わし以上に歳をとった人や、大学生や三十歳から四十歳代の人、それに夫婦連れなんかもいたな。そんな人の中には、温泉にだけ入り近くの道の駅で野宿する人もおったな」
「へー、野宿で歩いているんか」
「そうなんや。遍路で一番お金を使うのが泊り賃でな、これを節約する人もおれば、お金を気にしないが困難な歩きをしようとする人もおるな」
「それは、何の意味があるんや」
「お金は別にしても、野宿となると荷物も重くなるし、また、泊る場所も探さなあかんことになるわな。それで、宿屋を利用して歩くより、もっと昔の遍路旅に似てると言うか、弘法大師の旅に近づくことになると思うんや」
「そうか、やっぱり弘法大師か」
「それとな、ここまで歩くとほとんどの人が、足に豆が出来てな、これが痛くてここから帰ってしまう人もおったな」
「遍路ころがしが、きつかったんか」
「それもあるが、普段の生活ではこんなに歩くことが無いからや」
「これだけ歩くと誰もがしんどいか」
「その通りやな。この後は、十三番大日寺から十七番井戸寺を打って、徳島市内を長いこと歩いたな。それでな、十八番恩山寺と十九番立江寺を過ぎると、また遍路ころがしになるんや」
「鶴林寺と太龍寺やな」
「よう覚えとったな。まずは二十番の鶴林寺になるが、ここは始めにみかん畑の山を登ることになるんや。ところが、どこまで行っても上りが続いておってな、途中にはあまりに坂がきついんで、道の側にコンクリートで階段まで作ってある所もあったな」
「ここも、きつかったか」
「そうなんや、ともかく大汗をかいて寺に着くと、本堂の両脇に鶴の像があってな、これがこの寺の由来になっておるようや」
「やっぱり、鶴がおったか」
「それで、次に来るのが下りでな、ここも転げ落ちるようなもので、わしもひっくり返ったが怪我は無かったな」
「さすが、若い時にサッカーをやっていただけのことはあるな」
「そりゃそうや、歳をとっても身は軽いからな。それで、川沿いまで降って、この川を渡ると、また坂道を登ることになるんや。ところが、そんなにきつい坂でのおて、こりゃ助かったと思ったんやな」
「それでは、遍路ころがしと違うんか」
「ところが、川から二・五キロほどの所に登坂口と書いた看板があってな、ここからがほんとの上りなんや」
「そうか、ここまでの上りは、ただの坂か」
「そうなんや、わしも勢い込んで歩き出した割には大したことが無いと思っとったが、これが大きな間違いやった。ここからは地獄のような急坂を登って、太龍寺の参道に着いたんや。振り返って見ると、深い谷を挟んでそびえ立っとる山の上には、鶴林寺が小さく見えてたな。よくぞ、あの山から谷に降って、ここまで登って来たと感心するほどやった」
「この写真がそうか」
「そうや、この山また山の上に、小さく写ってるのが鶴林寺や」
「確かに遠いな」
「それで、この太龍寺は西の高野と言って弘法大師が修行された寺なんや。ただ、あまりにも山が深すぎて、一般のお参りの人はケーブルカーで上がって来るようや」
「すごい、山奥の寺なんやな」
「それで、ここまでが阿波の遍路ころがしでな、この後はまた凄まじい坂を降ってから、二十二番平等寺を打つんやな。そこから、由岐と言う所で海岸に出ることになって、青くて大きな海を見た時には感激したな」
「僕は大阪湾で海を見たが、そんなに大きな海やと思わんかったな」
「そやろな、太平洋は湾内の海と違って、遥か水平線まで見渡せるんや。それで、ここから海岸沿いを歩く道になるんやが、二十三番薬王寺が阿波の札所で最後になるな」
「やっと、阿波が終わるのか」
「札所は、これで終わりになるが、阿波はまだ三十五キロが残っておって、宍喰と言う町で水床トンネルを抜けた所から、やっと土佐になるんや」
「そうすると、次の札所までは長いな」
「確かに、ここは長くてに薬王寺から室戸岬にある二十四番最御崎寺までは、七十五キロもあるんや」
「それじゃ、三日ほど掛かるんか」
「その通りや。それに土佐へ入ると海岸沿いを歩くことになるが、海からは大きな白い波が打ち寄せておった。その波が海岸の石を転がしゴロゴロ、ゴロゴロと、まるで地響きのような音が聞こえておったな。そして、このような海の景色が延々と続いているんや」
「それは、恐ろしそうやな」
「今は、道路が整備されて国道を歩いておるが、昔の遍路はこの海岸を歩いていたようで、中には波にさらわれる人もおったようや」
「そんな、岩や石の海岸を歩いておったんか」
「そうや、菅笠の後ろには同行二人と書いてあって、これは弘法大師に見守られて共に歩くと言う意味になるんやが、こんな道でこそ相応しいと思ったな」
四国霊場の札所は、今になって考えると実に巧く配置されている。殊に、阿波発心の道場では、一番から十番が近い距離(それでも二十八キロ)にあって、連続する札所で参拝の何たるかを覚えることになる。そして、これを無事に終えると、次にあるのが歩きを試される「遍路ころがし」となる。見上げるように急峻な山道と、転げ落ちるような下り坂があり、遍路を困らす難所の札所のことを言っている。この「遍路ころがし」と呼ばれる札所は、四国の各地にあるが、その中で最難関となるのが十二番焼山寺である。事前に歩きの訓練をしてはいたが、この札所の山に取りつくまでに、既に四十キロを歩いた足には相当の疲労が溜まっていた。今、思い起こせば、ここを越えることが出来たのは気力以外の何物でもなかった。
山道の両脇にある木々の枝には、「ガンバレ」とか「南無大師遍照金剛」などの文字が書かれた札が、あちこちに吊り下げられている。また、何時の時代から置かれているのか、多くの石仏が見られた。これらのことより、この山道が難所中の難所であることを、証明しているように思えてならなかった。古来よりの姿を留める遍路道であり、幾万の遍路達が歩いた足跡を垣間見るようで、したたり落ちた汗の匂いをも偲ばせる光景であった。
三、土佐の国
歩き遍路の詩 三
ここを歩けば 何かが変わる
信じて修行の 道を行く
大海原と 青き山
真っ縦けわし 神峯
足摺岬 影遠く
悠久の 遠き道のり土佐の国
「それで、土佐の修行の道場やな」
「この地図を見ると、室戸岬と足摺岬があって、かなり距離がありそうやな」
「そうや、土佐は四国の中で一番長くて、三百八十キロもあるんや。そこで、まずは室戸岬までの長い歩きがあるな」
「そりゃ、そうやな」
「それでな、この辺りになると阿波で会った色んな人と、再会することがよくあるんや」
「それは、どうゆうことや」
「歩くのに早い遅いはあっても、同じ道を歩いておるから、不思議と会うようになるな。そこで、お互い自分の身の上話をするようになるんや」
「そうかいな」
「それは、なんでこの遍路旅を始めたかということなんや。会社を辞めて来た人とか、家族の病気回復をお願いに来た人やわしと同じように第二の人生への筋目の旅に来た人など、様々な人がおったな」
「それで、そんな人は何を思って歩くんや」
「弘法大師にすがることもあるやろうが、わしが思うには過酷な道を歩く中で自分を見つめ直し、歩き通すことで自分の何かが変わることになるんやないかな」
「それは、どういうことなんや」
「歩き通せたら何か達成した感じを持つことで、自信が出来るからや」
「何日も掛けて歩くんやから、そうなるかも知れんな」
「そうや。それで室戸岬までは、今日も歩き明日も歩き、明後日もと歩き詰めなんや」
「そりゃ、しんどいな」
「これを、修行と言う人もおるな。そこで、室戸岬に着くと、まずは御蔵洞やな。大きな岩壁の下に洞穴があって、その二十メートルほど奥には祭壇が造られておった。そこには、外の光が僅かに届いていたな」
「ここで、弘法大師が修行をしたのか」
「そうや、最初に言っとった求聞持法や。それで、この洞穴から外を見ると、確かに空と海ばかりで、空海と名乗られたのもよくわかったな」
「この写真を見ると、わかるような気がするな」
「それから、岬に迫っているような断崖の山の上にあるのが、二十四番最御岬寺になるんや。ここを登るのもしんどっかったが、その途中からは広大な太平洋が一望出来るんや」
「それは、すごいな」
「この寺は通称東寺とも言うが、二十六番の金剛頂寺の西寺と対比して、こう呼ばれているんやな」
「そうすると、二十六番番も山の上か」
「その通りや。その前にここからの下りはスカイラインになるんやが、足もすくむような崖に道路が設けられておった。そこからは土佐湾を囲むような海岸線に、漁港や町並みが見えていたな。その海岸線へ迫り出すような山があって、この上に金剛頂寺があるんや」
「これは、なかなかすごい眺めやな」
「この寺の前には漁港の町中にあって、海難よけに御利益がある二十五番番津照寺を打つんやが、ここから金剛頂寺への上りもしんどかったな」
「遍路の道は、平地も長いが山も多いな」
「そういうことなんや。それから、またまた長い国道を歩いて、次に来るのが二十七番神峯寺になるんやな」
「土佐の遍路ころがしか」
「そうや、ここは海岸沿いの国道から見上げるような山の上にあってな、真っ縦と言って真っ直ぐに登るような坂道になるんや」
「登り道に、名前が付いとるんか」
「幽径九折りにして黒き髪も黄にならぬと、古文書にも書かれとって土佐の難所になっておる。わしも荷物があると、阿波の遍路ころがしの二の舞になると思って、この下にある民宿に泊まり荷物を預けることにしたんや」
「それは、賢かったな」
「荷物無しで登っても、海岸から四百三十メートルの高さはやっぱりきつくてな、帰りはまだ傾斜がましな舗装道路を降ったな」
「荷物があったら、大変やったな」
「その通りや。ここからは高知市に向かって、長い国道になるんやが、途中では防波堤や琴ケ浜の海岸を歩いたりして、結構、道に変化があったな。この海岸では五度目の遍路旅をしてると言う人がおって、はるか海の彼方に霞んで見えとるのが足摺岬やと教えてもらった」
「ここから、足摺岬が見えたんか」
「そうや。しかし、わしはこの後に二十八番大日寺から三十番善楽寺を打って、高知市から一旦帰ることにしたんや」
「折角、ここまで歩いて来たのに帰ったんか」
「これを区切り打ちと言うんやな。国毎に廻るのを一国打ちとも言うが、何回かに分けるやり方で、これに対して一回で廻るのを通し打ちと言っとるな。それは、それぞれの人の事情によるもんや」
「ふーん、それで次は何時行ったんや」
「四カ月後の二月下旬から三月やったが、善楽寺を打ち終えて、高知市行きの電車に乗った土佐一宮駅から歩き出したな」
「初めに歩き終った所から、歩いたんやな」
「そりゃ、隙間を作りたく無かったからな」
「それで、二回目は何処まで歩いたんや」
「伊予の松山まで十六日間の歩きやった」
「それは、長い日数やな」
「なにせ足摺岬は遠いからな。それで、まずは高知市の南にある五台山の三十一番竹林寺から始まるな。ここを打つと、次の三十二番禅師峰寺も小高い山にあって、この境内からの眺めは良かったな。ここからは足摺岬も見えるんやが、遠過ぎて霞んどった。ただ、あそこまで 歩くのかと思うと気が遠くなったな」
「それで、日数が掛かるんか」
「そうなんや。この後は浦戸湾に向こうたが、この湾を渡るのに県営のフェリーがあって、弘法大師の頃より、ここだけは乗り物に乗っても良いことになっておるんや」
「それで、フェリーに乗ったんか」
「わしはな歩きにこだわりがあるのと、それに向こう岸の太平洋側にある桂浜を見たくて、浦戸大橋を歩いて渡ったんや」
「桂浜には、何があるんや」
「お前も名前ぐらいは知っておるやろが、ここには坂本龍馬の銅像があるんや」
「去年のNHK大河ドラマに出ていた人か」
「そうや。それで言い忘れておったが、室戸岬には中岡慎太郎の銅像があって、坂本と中岡は幕末に置ける土佐の英傑なんや」
「そんなに、偉いんか」
「わしが思うのには、幕藩体制より近代の日本を考えて、その礎を作ろうとした人やった。ところが残念なことに、その途中で刺客に倒されてしまったんや」
「そうか、そんな人が土佐におったんか」
「そうやな、この太平洋の大きな海を見とると、このような人がここから出て来るのがわかるような気がするな」
「そうか」
「それから、三十三番雪蹊寺から三十五番清滝寺を打つと宇佐湾に出て、ここにも海をまたぐ宇佐大橋があるんや。この橋を渡って歩いていると、地元の人に呼び止められてな、お金を貰ったんや」
「えー、お金を貰うんか」
「百五十円やったけど、これをお接待と言うんやな。ここまでにも何箇所かの接待所があって、お茶やお菓子やみかんなんかを貰ったが、お金は始めてやったな」
「なんや、そのお接待とは」
「それはな、遍路を弘法大師と見なして、お世話をしたり喜捨と言うか、物やお金を差し出すんや」
「へー、そんなことがあるんか」
「これが、今も遍路道に残っとる四国の人の心なんや」
「それは、ありがたいことやな」
「そこから、しばらくあるくと三十六番青龍寺になるな。ここは弘法大師が唐の国で教えを受けた恵果和尚と言う、偉い坊様がおられた寺の名前が付けられておるんや」
「それは、先生への感謝の意味か」
「そのように思うな。それで、ここからが長い〱足摺岬への道になるんやな。須崎市を過ぎると焼坂峠と七子峠と言う二つの峠があって、青い山また山の中の道を歩き続けると三十七番岩本寺になるな」
「地図を見ると、ここも長い距離やな」
「青龍寺から岩本寺が六十キロで、更に、足摺岬にある三十八番金剛福寺までが八十キロなんや。岩本寺からは、明治に小学生が一個一銭の運び賃のレンガで造った熊井のトンネルを抜け、清流で有名な四万十川を渡り、千六百二十メートルと一番長かった新伊豆田トンネルを抜け、また海亀が産卵に来る大岐海岸を歩いたりもしたな」
「色んな所があって、楽しそうやな」
「そうなんやが、この辺りまで来ると、急に膝が痛み出して来たんや。足を摺りながら歩いていたとも言われるこの道も、わしにとっては膝擦りやった」
「それは大変やったな」
「それで、やっとのことで到着した感じやったが、足摺岬は地の果てのように思えたな。灯台のある岬の先端より下を見ると、足がすくむような断崖で、紺碧の海の中では白波がうごめくように岩礁を洗っておるんや。そして、薄雲より差し込む太陽の光で遠くの海が輝いておって、この海の向こうには何かがあるように感じたな」
「そりゃ、海の向こうはアメリカやろ」
「そうじゃなくて、ここからは補陀落渡海と言って、坊様が小船に乗って漕ぎ出して行ったんや。当時は、海の向こうには観音浄土があると思われていたんやな」
「へー、それでどうなるんや」
「そりゃ、観音浄土に行ったと思いたいが、やっぱり遭難したんやろな。それで、しばらくすると、これが取り止めになったようや」
「そうやろな」
「ここにある三十八番金剛福寺の門前には、渡海をした僧の石碑が並んどったな」
「それは、切ないな」
「ここからは足摺岬の西側を廻わって土佐清水港まで歩いてな、山越えで大岐海岸に戻ったな。それで、下ノ加江からは山に入り、三十九番延光寺へ向かったんや」
「ここも、だいぶ歩いとるな」
「口で言うと簡単やが、まる二日掛かるな。この延光寺が土佐の最後の札所でな、この先の宿毛から登った松尾峠で伊予に入るんや」
「そうか、土佐は長かったな」
「そうやな。しかし、ここまで歩いて来ると、何か足にも自信を持つようになるんや」
土佐には二つの岬がある。言わずとも知れた室戸と足摺の岬である。「岬巡りのバスが走る」との歌があったが、この二つの岬を歩いて廻ろうとすれば、そんな生易しいものでは無い。
まずは室戸岬であるが、ここに向かって歩いていたのは、秋にしては暑いほどの日が続くころであった。室戸市に入り佐喜浜辺りで前を見れば、山々が大海へと沈み込む断崖の横腹を這うようにして国道が続いている。その先には、幾つもの出鼻が海へと迫り出しており、手前の濃緑より彼方に行くほど薄い青へと変化している。それはまさに未知の世界へと誘うようにも見え、際限の無い道程のごとくに思えた。海を見ると押し寄せる波が海岸で白波と化し、岩や石をころがし地鳴りのような音を響かせている。この国道が無かった時代のかつての遍路達は、この巨石が重々と連なる海岸を歩いていた。その辛苦がいかほどであったのかを思うと、涙を誘う光景であった。
木陰を探しながら延々と歩いた道も、遠くに巨大な弘法大師像を見る辺りまで辿り着くと、いよいよ室戸岬であった。ようやくにして着いた室戸岬では、喫茶店に入り休憩をしていたが、遍路旅の一つの壁を越えた安堵の思いで満ちていた。ただ、ここから岬の山頂にある最御崎寺への上りでは、疲れが蓄積した足に、渾身の力を与えなければならなかった。
そして、足摺岬は高知市より七日を要し、3月4日にその壮絶な光景を見ることになった。禅師峯寺より眺めた霞むような姿も、一日〱の歩みを進めれば自ずと近づくものである。この歩きの日々は室戸岬への道と異なり、青き山々に分け入ったり、また目が覚めるような砂浜もあり、変化に富んだ道であった。ただ、その変化が災いしたのか、数日間は休憩後の歩き出しで膝が痛くなり、一時は遍路旅の中断もやむを得ないのかと思わせた。やはり、ここも修行の道であることに変わりはなく、田も凍る日や強風による黄砂にも耐えながら、やっとの思いをして着いたのが実感であった。
海へと迫り出した岬の、そそり立つような絶壁の上には、白亜の灯台があり、その彼方には見渡す限りの大海原が広がっている。その先端に立って真下を覗くと、大海より寄せる波がうごめき、嘲り笑うような白波が岩礁を洗っていた。この岬の直ぐ横にあった休憩所には、田宮虎彦氏の同名となる小説の一節が刻まれた石碑があり、凄まじい光景が描かれていた。
田宮虎彦氏 足摺岬より
砕け散る荒波の飛沫が崖肌の巨巌いちめんに雨のように降りそそいでいた
四、伊予の国
歩き遍路の詩 四
煩悩去りて 知慧得る
菩提の道は 山に入り
霊域迫る 岩屋寺と
道後の湯にも ひたりつつ
石鎚あおぐ 星が森
自らの 道を求める伊予の国
「それで、伊予か」
「そうや、伊予に入ると初めの四十番観自在寺から海岸沿いを歩くことになるな。しかし、宇和島市を過ぎた辺りから内陸へ向かうことになるんや」
「確かに、この地図で四十五番岩屋寺は山の中やな」
「その前に、内陸へ向かった山の中にある四十一番龍光寺から四十三番明石寺を打つことになるな。ここを過ぎて大洲に出ると、この街外れに番外札所の十夜ガ橋があるんや」
「それは、橋か」
「橋は橋やが、この橋には弘法大師との縁(ゆかり)があるんや。当時、この地に弘法大師が来られた折に、宿を探されたがどこにも泊めてもらえず、やむなくこの橋の下で野宿をされたんや。ところが、あまりの寒さで一夜が十夜のように感じられたという伝えが残っているんやな」
「それは、大洲の人が冷たいのか」
「たまたま、その時がそうなっただけやと思うんやが、ここの人の弘法大師への信仰は篤くて、わしが行った時も次々とお参りの人が来て、線香の煙は絶えなかったな。それで、遍路旅では、橋を渡る時に杖を突かないことになっておるんや」
「それは、どこの橋でもか」
「そうや、どこで弘法大師が泊られているかわからんからな」
「そんなもんか」
「それで、ここから次の四十四番大宝寺までが、また遠くて二日も掛かって歩くんや。ただ、この辺りまで来ると土佐の長かった歩きが終わって、また札所の無い長い歩きになることもあってか、歩いていても頭が空っぽになる時がチョクチョクあったな」
「それが、阿波の時に言っとった空か」
「空かも知れんが、空とは全ての事柄を捨て去って何も無いことやが、わしは長続きがせなんだな」
「それは、なぜや」
「直ぐに我に返って、今日の泊りや食事のこと、それに何時までに着くとかを考えてしまうんや。まあ、普通の人間は、この四国を歩き通し、体験したことで、何を感じるかに意味があるんやろな」
「そうかも知れんな」
「それで、内子町から鴇田峠を越えると久馬高原町になるが、ここに大宝寺があるんや」
「高原となると、高いんか」
「この寺で、五百六十メートルの高さになるが、ここから更に山に入り八丁坂と言うしんどい坂を登ると七百六十メートルの尾根に着くな」
「だいぶ登って来たな」
「そうや、この尾根から降ると四十五番岩屋寺になるが、この手前には逼割行場と言ってすごい所があるんや」
「この写真か」
「そうや、門に鍵が掛かっておって中に入れなかったが、巨岩が二つに裂けたような間にロープが掛かっているんや。人一人がやっと通れる幅やが、ここを登ると石鎚山が見えるようや。それに、この前にはいかつい顔をした不動明王が祀られておって、何か霊気が漂っているように感じたな」
「それは、恐ろしそうな所やな」
「この巨岩を廻り込むと岩屋寺になるが、この岩にへばり付くようにして本堂があって、岩の上の方には修行の場所として穴が掘られておったな」
「えらい所に寺を造ったもんやな」
「まさに修行には、ふさわしい寺やと思ったな。それで、ここからは久馬高原町に戻って、国道の長い坂道を登り三坂峠を越えると、松山が見えて来るんや」
「松山と言うたら道後温泉か」
「そうなるんやが、その前に四十六番浄瑠璃寺から五十一番石手寺があってな、この辺りでは雨に降られて大変な歩きやった」
「雨の中でも歩くんか」
「そりゃそうや。ここまでは天気も味方してくれとって、歩いている時にはほとんど雨が降らなんだ。しかし、ここに来て雨におうてな、雨具を着て歩くと蒸し暑くなるが、止まると急に寒くなるんや」
「そりゃ、3月はまだ寒いな」
「そやけど、この後は道後温泉に入ってほんとに温まったわ」
「そりゃ、じいちゃんは温泉が好きやから良かったな」
「それで二回目はここまでで、次はここからと思って帰ることにしたな」
「それで最後に行ったのが、ついこの前の十月なんか」
「そうなんや、そこでやっぱり歩き始めたのは道後温泉からや」
「地図の上で、隙間を作らなかったな」
「これも歩きのこだわりがあるからな。次の五十二番太山寺から五十九番国分寺までは、また海岸沿いを歩くことが多いんや」
「山から出て来ると、やっぱり海岸か」
「まあ、中には五十八番仙遊寺のように、高い山の上にある寺もあったが、海岸には近いな。ただ、これからはまた山に入るんや」
「それが、六十番横峯寺か」
「そうや、ここが伊予の遍路ころがしになるんや」
「また、きつそうか」
「そうやな、七百四十五メートルの高さがあるから、きついのは確かやった。しかし、なぜか登ることが楽しく思えるようになるんや」
「それは、なぜなんや」
「わしにもようわからんかったが、後から考えると、これが遍路道への感謝と、歩けていることの自信かも知れんな」
「そんな気持になるもんか」
「ともかく、妙之谷川の苔むした石が多い谷筋を長いこと歩いて、その後に急な坂を登ることになるんや。すると横峯寺になるが、この寺は役行者が開いたとされておるな」
「役行者とは、焼山寺と同じか」
「そうや、そうや。それでこの寺の奥には、星が森と言う霊場があって、深い谷底からそびえ立つような石鎚山が見えるんや」
「石鎚山は高いのか」
「西日本で一番高くて千九百八十二メートルもあって、頂上近くは凄まじいほどの岩壁になっておった。役行者がここで修行をしていた時に、修験道の本尊となる蔵王権現が現れたようや。わしもここから石鎚山を眺めとると、なぜか去りがたい気持にされる場所やった」
「そんなに、ええ所やったんか」
「何か修験の凄味みたいなものを、感じさせられたな。それでも、次の札所に行くこともあって、急な坂を降り山際にある六十一番香園寺から六十四番前神寺を、続けて打ち終えたな」
「ここは、近そうやな」
「そうや、六キロの中に並んでおったな。ただ、ここから次の六十五番三角寺までが長くて、四十五キロもあるんや」
「それは、また長いな」
「途中の西条に泊まっておったが、それでも次の日は三十六キロを雨の中で歩いたな」
「また長い距離で、雨とは最悪やったな」
「ここは国道の脇を歩く所が多くて、車の排気ガスや騒音に悩まされ、おまけに雨が降る中の登り坂では相当へばったな。それで、昨日は歩き遍路をよく見たが、この日は一人だけしか見んかったな。恐らく、JRを利用した人が多かったようや」
「えー、歩き遍路も乗り物を使うんか」
「ここまででも、室戸岬、足摺岬までの道や大洲から内子にかけての道なんかでは、乗り物を使う人が多いようや。これは、日数の短縮になるんでな」
「そうなんか、それでじいちゃんは歩きか」
「そうや、この日なんぞは、朝の六時から夕方の四時過ぎまで意地で歩いとったな。それで、伊予三島から六十五番三角寺に登り、境目峠を越えると佐野と言う所になるんや」
「地図で見ると、ここは阿波か」
「そうや、一旦阿波に入るが、ここが六十六番雲辺寺への登り口になるな」
「寺の名前からして、高そうな所やな」
「この寺は、四国の札所の中で一番高い所にあって、九百十メートルもあるんや」
「それは、高いな」
「まずは、一・八キロの距離で四百メートルの高さを登るんやが、中には三十度を越すような傾斜もあるんや」
「三十度とは、どんな坂なんや」
「そうやな、家の階段ぐらいの傾斜で、それがずっと続いておるんや」
「そりゃ、見上げるような坂やな」
「その通りなんや、ともかくこの急坂を登り切って、十度ぐらいの傾斜の坂道になるが、それが平地のように感じたな」
「それは、しんどかったな」
「しかし、寺の奥にあった展望台から見る景色は素晴らしくて、讃岐の町並みと瀬戸内海が一望やった。そこで、この寺の敷地の中で讃岐に入るんや」
「いよいよ、最後の国になるな」
四国の長大な遍路道、その中で修行の道場と言われる土佐の足摺岬を廻ると、何故かゆとりのような空気を感受出来るようになる。そして、その体感を持ちながら伊予へと足を踏み入れている。そこでは、松尾峠や清水大師の峠、また鴇田峠などの、反吐が出るような苦しい上りも、行をしている修験者の心根に通じる気持になって来る。この辺りは「衣は何時となく潮垂れる四国の辺地」と、梁塵秘抄に書かれている海岸沿いの道で無く、内陸や山地を歩くことになる。それは、弘法大師修行の山となる石鎚山に、近づかせているように思えてならなかった。
そこで、まず始めに行き着く所が、山中深く分け入った岩屋寺である。その前に、八丁坂と呼ばれるえげつない急坂を登り、尾根道を進んで降った所に逼割行場がある。この翌年に、家内と車で巡った遍路旅の折には、ここへ立ち入ることになった。巨石が裂けたようにも見える隙間にはロープが繋がれ、更に上には巨岩を登る垂直な梯子が設けられていた。その巨岩の頂上に登ると、彼方には勇壮な石鎚山が望まれた。
次には、今治市の海岸沿いを巡った後に、西条市の南の山中にある横峯寺である。伊予の遍路ころがしとなる急峻な坂を登ると、この寺に辿り着くが、更に奥へと進むと星が森になる。断崖の上には、鉄製で人の腰ほどの高さとなる黒い鳥居が建てられており、ここは石鎚山の遥拝所になっている。思い起こせば、二回目の区切り打ちの歩き始めに、高知市から春野町に入った辺りで白雪を被る石鎚山を北に見ていた。しかし、この星が森では、そそり立つように凄絶な岩壁を持つこの山を南に見ており、四国の西半分をぐるりと廻って来たことになる。
そして、この国の最後には、再び山中となる雲辺寺になっており、菩提の道場にはまさに山が良く似合っていた。
五、讃岐の国
歩き遍路の詩 五
感謝の心 深くして
結願までの 道を行く
涅槃の道場 讃岐国
大師の里は 善通寺
八十八番 大窪寺
悟りへの 境地を開く遍路旅
「この国に入って最初の試練が雲辺寺からの下りでな、生半可なものではなかった」
「そりゃ、そうだろう」
「六百メートルの高度差を一気に降るんや。ここまでの下りでは三十分も降れば、相当高度は下がったが、ここはまだ前に見える山より高かったな」
「やっぱり、この寺は高いんやな」
「それに、下りで足を突っ張るもんやから、太腿が痛くなって来てな、なかなか痛みが消えなんだな」
「今も痛いんか」
「まだ少し痛みが残っとるんや。それで、麓まで降ると六十七番大興寺があって、ここから海の側まで歩くと、六十八番神恵院と六十九番観音寺があるんや」
「同じ所に、二つの札所があるんか」
「そうや、昔、近くの琴弾八幡宮に祀られとった神恵院の本尊を、観音寺が引き取ったからや」
「そうかいな」
「何か得をした気分になったが、この寺の裏山から見える景色は更に良かったな」
「それは、何なんや」
「海岸の砂を使って造った巨大な昔のお金の形でな、東西百二十二メートル、南北九十メートルになる寛永通宝の砂山なんや」
「この写真を見ると、確かに凄いもんやな」
「夕日に照らされ影が出来ておってな、明るい銭形が浮き上がるように見えていたんや」
「それは、いい物を見たな」
「そうやろ。それから次の七十番本山寺を打って、国道を十キロほど歩くと七十一番弥谷寺になるな。この寺には、弘法大師が子供の時に勉強された獅子の岩屋と言う洞穴があるんや」
「それは、室戸岬の洞穴と同じか」
「感じは似ておるが、ここは山やな」
「しかし、そんな洞穴でよう勉強が出来たな」
「わしもそう思ったが、昔の人には当たり前のことかも知れんな」
「そうやな、電気もガスも無いからな」
「それで、この寺の南側の山裾に、七十二番曼荼羅寺と七十三番出釈迦寺があるんやが、出釈迦寺の裏には我拝師山と言う山があるな」
「この山には、何があるんや」
「捨身禅定と言ってな、弘法大師が子供のころに、この山の頂上近くにある岩壁から、身を投げられたんや。すると、お釈迦さんが現れて、天女が抱き止めたという伝えが残っとる。それで、将来には大衆を救うという願いが、達成されることになるや」
「それは、ほんとにあったことなんか」
「それはようわからんが、この山に登ってみると、岩壁では足がすくむほどの絶壁やったな」
「そんな岩壁を、よう登ったな」
「そうなんや、登りへ向かう時には、荷物を置いて行けと言われたが、確かに怖い所やった。わしもよう無事に帰って来れたと思ったな」
「ほんとにじいちゃんは、元気なもんや」
「それで、次の七十四番甲山寺を打ち終えると、七十五番が善通寺になるな。ここが弘法大師の生誕地とされているんや」
「そうか、ここなんか」
「この寺は札所の中でも一番大きくて、また観光客もやけに多かったな」
「そうなるんやろな」
「ここからは、瀬戸大橋の四国側の入口になる坂出まで歩いて、七十六番金倉寺から八十番国分寺を打つんや。それから、五色台にある八十一番白峯寺、八十二番根香寺を打つと、麓に降って高松市にある八十三番一宮寺になるな」
「いよいよ、八十番代に入って来たな」
「しかし、ここまで来てしまうと、あと少しで終わりやと、心残りに思うようになるんやな」
「そんなもんか」
「それで、次の八十四番が屋島寺になるんやが、高松の市街地を過ぎると前方に台形の山が見えるんや」
「この写真では、綺麗な形をしておるな」
「二百八十四メートルで、そんなに高くはないが、登ってみると結構きつかったな。この寺の反対側には壇ノ浦と言って、昔、源氏と平家が戦った海が一望やった」
「源平の戦いは、習ったことがあるな」
「源義経と言う大将が、ここで平家軍を打ち負かしてな、その戦いの後にこの寺の奥にある池で刀なんかを洗ったようや」
「そんな池が、残っているんか」
「池の水が赤く染まったようで、血の池とも言われておるんや。しかし、今は蓮の葉が浮いておって、木漏れ日の中で静まり返っていたな」
「そうか、怖い話も今は平和か」
「そのようや。それで、ここからは崖のような道を降ることになるんやが、下からここを見上げたら垂直に切り立った絶壁のようやった」
「そんな所にも道があるんか」
「地元の人も、ここは危ないと言っておったが、ようわかったわ。ここからは壇ノ浦を挟んで対岸にある八十五番八栗寺を打つと、海岸沿いを歩いて八十六番志度寺を打つな。それからは、山に向かうことになるんや」
「いよいよ、最後の札所に近づくな」
「そうや、八十七番長尾寺を打ち終えると、結願の寺に行く最後の道になるな」
「それで、どんな気持になるんや」
「そうやな、四国の各地で体験したことや出会った人、それにしんどかった道程なんかを思い出して、ここまで歩いて来れたことに感謝する気持になるな」
「そんなもんかも知れんな」
「ところが、この道はきつくて七百七十四メートルの女体山の山頂まで登ることになるんや。その最後の方なんかは、まるで岩登りをしているような岩壁やった」
「やっぱり、ただでは済まんな」
「しかも、この山頂からの下りでは大雨になって、ともかく滑り落ちんようにするのに精一杯やったな」
「そりゃ、最後まで苦しめられるな」
「下りの途中に展望台があって、雨の中でこの山を見上げたら、岩壁が恐ろしいような姿をしておったな。それから、まだ降って行くと、ようやく杉木立の間に寺の屋根が見えて来たな。やっと着いたとの思いで、土砂降りの雨の中、八十八番大窪寺の境内に入ったんや」
「とうとう終わりか」
「そうや、本堂の横で雨が止むのを待って、最後のお参りをしたな」
「それで、何を思ったんや」
「それは、よくぞここまで歩けたと言うことで、これ以外には何も思いつかんかったな。その後、門前のお店で、この二、三日前から札所で会っていた人がおって、歩き通せたことに対してビールで乾杯したな」
「それは、歩いた者だけにわかることか」
「そりゃそうなんやが、わしは、ここから更に四十キロを歩いて、一番の霊山寺まで戻り四国を一周したことになるな」
「そうか、確かによう歩いたが、四国遍路とは何やったんや」
「そうやな、これは人によって違うと思うが、弘法大師への信仰が今も形として残っとる風土に触れ合いながら、千二百キロを超える長い距離の歩きの中で、考え、見聞きし、体験したことで、生きて来た証しと言うようなもんを感じることが出来るんやな。それで、人に対する感謝、遍路道に対する感謝、歩き通せたことに対する感謝と、感謝の心を深くさせてくれたことが、わしにとっての四国遍路やったと思うな」
「そうなんか、僕も何時かは、ここを歩いて見たくなったな」
「ぜひ、そのような時が来ることを、わしは楽しみにしておるな」
日は、いつの間にか西空の雲を、赤く染めながら落ちようとしており、夕食の準備をする匂いが漂う時刻になっていた。思わぬことで長かった四国遍路の旅の思い出に耽れたことにも感謝し、また何時の日にか再び、四国を歩くことに思いを駆られる夕暮れ時であった。考えるに、これが四国病かと………。
八十八番大窪寺、苦労を重ねて四国の長大な遍路道を歩いて来た遍路達がいる。結願と言う言葉を体感したいがため、ここに至るまで歩き続けるのが、涅槃の道場と呼ばれる讃岐である。それは叶う願いではなくて願いの結びであり、己に課した試練そのものがこれに繋がるものと思える。
四国の札所で最も高い雲辺寺からの下りに始まり、弘法大師ゆかりの寺々を巡って、この結願となる八十八番大窪寺への道へと進んで行く。ただ、八十七番長尾寺からこの結願への道に入った直ぐの所に、多くの遍路墓を見ることになった。そこは古来より多くの遍路達が歩いた道ではあるが、ここにまで至って息絶えたことを思うと、涙を誘う光景であった。
そして、最後の苦難となる険しい女体山の崖道を越え、辿り着いた大窪寺では己の気力のみならず、よくぞ歩いた両の足に感謝せざるを得なかった。二足目となる靴の底も擦り減りが目立ち、買った時には胸の高さで持っていた金剛杖も腹の辺りで持つほどに短くなっていた。門前の売店では数人の遍路と同席し、ビールで唱和した乾杯の言葉には万感の思いがこもっているように思えた。
遍路旅とは、人に、道に、そして歩き通せたことについての感謝であり、ひいてはここまで無事に生きてこれたことに対する感謝に他ならない。
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